元卓球選手の四元奈生美さんが中国超級リーグへの挑戦を振り返る(2020/02/08 放送)
今週は、元プロ卓球選手の四元奈生美(よつもと・なおみ)さんをお迎えしました。
現在はスポーツウェアのデザイナーで、FINAL WINNER(ファイナル ウィナー) というブランドも立ち上げている四元さん。現役時代は試合の前などによくX JAPANの「紅」を聞いていたとか。
現在はスポーツウェアのデザイナーで、FINAL WINNER(ファイナル ウィナー) というブランドも立ち上げている四元さん。現役時代は試合の前などによくX JAPANの「紅」を聞いていたとか。
「かなり聞いてましたね。この速いテンポが凄い気に入ってて…。私、前陣速攻型っていうプレースタイルで。小柄なので、卓球台にくっついて速く返球するっていう。で、速さを軸にしてチャンスを作ってスマッシュで決める、みたいなスタイルだったので、この速いリズムがより自分を速くしてくれる、みたいなイメージがあって…」
そんな四元さんが卓球を始めたのは4才の時だったそうです。
「私の場合は先に母と姉が卓球をやっていたので、自然と卓球場に行くようになって。ただ、姉がメインでやっていたんで、私はどちらかと言うと、のんびり気楽にやってた感じなんですよね。強制されてやってきたわけじゃないので、嫌だ!って思うこともなく、ここまで来れたのが良かったかなとは思います」
そして、中学生の時には早くもウェアのデザインを自分で考えていたとか。
「中高一貫の女子校だったんですけれど、ルーズソックスが流行ったり、お洒落な子が凄く多くて…」
「着たいなと思うユニフォームがなかなかなかったんですよね。で、先輩と一緒に、カスタムオーダーって言って、色指定ができるんですね。ここがピンクで、ここが黄色のラインで、全体的に紺にして、で、スカートにしよう…とかっていうのを始めたのが中学校2年生の時」
当時は友達と一緒に卓球をやるのが楽しかったという四元さん。それでも中学1年の時に全日本選手権の13歳以下の部で優勝するほどの実力で、高校3年生の時にはインターハイでベスト4位に入ったそうです。
「もうその頃から中国選手も日本の高校にいて、結構レベルが高くなってきてて。でも、その中でベスト4に入んなきゃ将来ないよって(コーチに)言われて、え?卓球ってそういうものなの?って思って、ちょっと冷や汗かきながらやり始めて。で、それはなんとかベスト4に入ることができて…」
それまでは卓球の道に進もうと心からは思えなかったという四元さんですが、その後、世界チャンピオンに会ったことをきっかけにスイッチが入ったんだとか。
「その方のオーラが凄くって、(卓球で強くなると)こういう人になれるんだと思って」
「扉を開けた時に空気がブウって回っちゃうぐらい凄いオーラで、え、なんなんだろう?と思って。で、その後、1セットだけ試合をしてくださるって言われて、フォア打ちを始めて…もう記憶がないです。緊張しすぎて。ドラゴンボールで言うと超サイヤ人みたいな(笑)…感じですかね。うわぁ凄い!って」
そして、大学時代の四元さんは、日本代表としてウェールズ・オープンやUSオープン、平壌オープンなど、世界の大会に出場。インターカレッジでは母校の淑徳大学の初優勝に貢献しました。
「最初は2部ぐらいの、あまり強い子がなかなか入ってくれないような大学だったんですけど、練習量が物凄くて、みんなで夜中の2時とか3時とかにもよくやりましたね」「迷いはなかったです。もうその時にはスイッチが入っちゃってるので、絶対に強くなりたい!っていう」
「お正月合宿っていうのを韓国でやるんですけど、その時には夜中の12時スタートで朝の7時まで連続27試合やるんですね。とにかく厳しかったので、最初弱かったチームが最後にインカレで優勝できて、みんなよかったなって」
大学卒業後は、実業団には行かずにプロの卓球選手になる道を選んだ四元さん。ご本人が「今思うとちょっと怖くって(笑)」とおっしゃっていた通り、これは大きなチャレンジだったようです。
「中学時代に卓球部って言うと暗いって言われた印象が凄く残っていて…卓球やってる人ってぜんぜん暗くないし、けっこう明るい人が多いんだけど、なんでこういうイメージがついちゃったのかな…って。これをなんとか変えたいな、っていうふうにちょうど大学卒業と同時ぐらいに考えてて」
「で、卓球を明るくするために自分でできることっていったら、ウェアの活動だったり、あとはプロになって肖像権を自分で持っていろんな活動をしないと、今までの卓球界のまんまで行くのかなっていう部分もあったので…」
さらに、2004年には中国の『超級リーグ』に参戦。
「入団テストがあるので、北京まで行って受けて」「で、1年間、超級リーグであちこちを点々としながら…」
当時は超級リーグでプレーする外国人選手はあまりいなかったとか。
「今まで、スポットって言って1回とか2回とかっていう選手はいたんですけど、1年間っていう期間で契約っていうのはなかなかしてもらえなかったんですよね」
ちなみに、超級リーグで四元さんが所属した北京チームには、後に世界ランキング1位になる丁寧選手もいたそうです。
「私、朝の練習がいつも一緒で…。私が北京にいた時はまだ14才。(将来的にオリンピックの金メダルを)獲るだろうなとは思ってました…けれども、順調に強くなったなぁ…ってテレビを見ながら思ってます(笑)」
四元さんは超級リーグでの苦労についてこう話してくれました。
「中国語、実は私まったくわからないので。通訳の方にお願いして」「名前を呼ばれてお客さんの前でご挨拶をする時とかは、丁寧選手とかが、次の番だよ、とかって教えてくれるので、その時にとりあえず挨拶して…っていう」
「移動も大変で、列車乗ったら20時間とか言われて、えっ!20時間ってどれだけ乗ってるんだろう…って。でも、向こうの選手の子たちはもう当たり前なんですかね、誰もなんにも言わないで、あ、20時間ね、みたいな」
卓球王国の中国だけあって超級リーグもかなり盛り上がるそうです。
「会場入るのに警察の車が4台ぐらい私たちの車の前にあって、先導されながら行ったりですとか。お客さんも5000人ぐらい。やっぱ人口が多いので、卓球が国技なので。5000人ぐらい入って、子どもたちがラケットを片手に会場に来るっていう。日本じゃまったく考えられない…」
「当時の世界ランク1位の選手が国際大会で負けることってほぼ見たことないんですよね。ただ、中国の超級リーグでは同じ北京のチームの子に負けるんですよ。だから接戦でした」
そんな中国の超級リーグを体験してきた四元さんは、今の日本の卓球界についてこうおっしゃっていました。
「日本は今、凄い強いです。伊藤美誠(みま)ちゃんは”大魔王”って呼ばれてるんですよね。ホント凄い。過去振り返っても、中国にそんなふうに呼ばれる選手って今まで1人もいなかったんじゃないかなって思いますね。まず1回でも勝ったら凄いって言われてたのに、勝ち越してるって。恐ろしいとしか言いようがない。ホントに今の日本のレベルは上がってますね」
来週も引き続き、四元奈生美さんをお迎えします。