第50回 道路標識をつくる会社に潜入! 前編

2016/03/10

自動車社会を円滑に、安全に、機能させていくための「道路標識」。
車を運転する人は意識する・意識しないに関わらず、お世話になっています。
あの道路標識をつくる会社のことを想像してみたことはありますか?

以前、道路標識をつくる会社は各都道府県にあったぐらいなのだそうです。
しかし、マーケットとしてはニッチな産業。
特に高速道路や一般道路の行き先を示した「案内標識」は1点もの。
現在は5社ほどになっているということです。

取材をしたのはその1つ。
野原産業株式会社の那須工場。
野原産業は東京 新宿に本社をおく
建築・建設資材の製造、販売を主事業にする会社。
1つの事業として道路標識の製造も那須工場で行っています。
ここには道路標識の歴史を展示したショールームもあります。
中村俊彦 工場長が、その「のはらの道しるべ」を案内して下さいました。



道路標識のルーツは江戸時代。
お茶屋であっちに行ったら○○、こっちに行ったら××、
と口頭で道路の分かれ道の情報を伝えていた。
石に左は○○、右は××、△△街道と記されていた。
言わば、これが標識の最初。

明治時代になると木の標識が登場。
古い漢字で「警視庁」。「牛車止(ぎっしゃどめ)」。
「指示標識」です。まだ馬車・牛車の時代で自動車ではありません。



大正時代になると、ぐっと今っぽくなります。



白地に黒の文字が書かれた標識。
上部中央に「国道1」、国道1号線をあらわす表示。
その下に、左と右に向く2つの矢印。
左向き矢印の下には「鶴見11粁」「横浜 20粁」。右向き矢印の下に「品川5粁」「東京 12粁」。
産業革命がおこったイギリスの影響が大きく鉄板に塗装したものだといいます。
当時の車はまだライトも無いので反射しません。

昭和初期。
今の一般道で見る標識と色が身近な感じになっています。
素材と文字の色が逆ですが白地に青文字。



距離の単位はアルファベットを使い20Km。
漢字で「神戸駅」。アルファベットでKOBE STN.。
右斜め上に道路を示す赤い矢印。

この頃になると街灯が増えて街の夜が明るくなり、
車で走っている時に反射しない標識だと見にくくなった。
そこで、反射するシートが開発されました。
ヘッドライトの光が当たると文字情報はドライバーに反射して戻ります。

昭和33年に野原産業が道路標識製造業に参入してほどなく
高度経済成長期にあった日本では怒涛の高速道路の建設が始まりました。
もちろん高速道路用の標識がたくさん製造されます。



緑に白い文字。高速道路の案内標識。
1969年 全線開通の東名高速道路 
春日井インターチェインジの出口を示す標識です。

中村さんによると高速道路が緑・白という配色なのには2説あります。
1つはハイウェイの標識がこの配色だというアメリカの影響。
もう1つは国道は青、赤・黄は規制標識に使われているので、
高速道路は山間部を通るのから茶色か緑にしようということになり、
茶色だと光が反射すると黒に見えてしまいます。
それだとどこの道路かわかりにくいので良くない。
そこで、緑になったという説の2つです。

この頃から野原産業は自社の反射シートづくりをやめて
技術力の高い現・3Mジャパンの反射シートを導入していきました。

その後は昭和時代後期、平成と反射性能が上がっていきます。
昭和後期の青い国道307号線の案内標識は細かいつぶつぶがあります。
下の写真をクリック、拡大してみて下さい。



反射をよくするため。
ガラスのつぶつぶがたくさん入っていたのです。
平成になる頃にはガラスは使われなくなります。



昭和までの反射方法は製造工程でCO2がたくさん出たそう。
時代は移り、CO2排出を削減するために、新しいシートが開発されました。
グレードは大きく分けて4つ。
まったく反射しない、普通、少し反射する、凄く反射する。

長い時間をかけて、今のような道路標識が確立したという歴史の話でした。
来週は「道路標識をつくる会社に潜入! 後編」です。