7連覇に震災、ワールドカップ…伊藤剛臣さんのラグビー人生(2020/01/18 放送)
先週に引き続き、今週もラグビー元日本代表の伊藤 剛臣(たけおみ)さんをお迎えしました。
伊藤さんがラグビーを始めたのは高校生の時だったそうです。
「自分が入った高校が法政大学の付属、法政二校なんですけど、甲子園で優勝したことがあるような硬式野球部があって。野球をやろう!と野球部に入ったんですよ。でも、すぐに逃げ出したんです。通用しない。運動神経には自信があったんですけども、小さいボールが扱えなかったんですね(笑)」
「で、落ち込んでるところに、たまたま父親とか学校の先生からラグビーを勧められたんですよ。ラグビーと言えば、中学校の時に見た新日鉄釜石。国立競技場が6万の大観衆で、大漁旗が振られて…赤いジャージの松尾雄治さん。そして、ちょうど同じ頃にドラマの『スクールウォーズ』が始まったんです。あ、ラグビーかと。じゃあ、ラグビーやろうと」
「僕はフォワードで“ロック”。ロックってどんなポジションですか?って聞いたら、男の中の男がやるポジションだから!って。えっ!やってやろうやんけ!で、やったら、おしくらまんじゅうばっかりやってるんですよ(笑)。これが?と思いながら」
「でも、野球部から逃げた手前、ラグビー部からは逃げられないんで。ま、一生懸命やってたんですけど、ラグビーの世界にだんだん憧れを持ったんですよね」
「で、高校日本代表に選んでくれたんですよ。なおかつスコットランドに遠征に行きました。初めての飛行機、初めての海外がスコットランドでした」「(全国大会には)行ったことないんですよ。花園に行ってなくても高校日本代表に選んでくれたんですね。引き上げてもらいました」
そして、伊藤さんは法政大学3年生の時に大学選手権での25年ぶりの優勝に貢献します。
「誰も優勝すると思ってない中、僕ら優勝しちゃったんです。で、その当時の日本一を決める大会は、大学の日本一と社会人の日本一。神戸製鋼との試合だったんですね」「結果は41対3ですかね。1トライも取れませんでしたね。やっぱり神戸製鋼のするラグビーはレベルが全然違いましたね」
伊藤さんがラグビーを始めたのは高校生の時だったそうです。
「自分が入った高校が法政大学の付属、法政二校なんですけど、甲子園で優勝したことがあるような硬式野球部があって。野球をやろう!と野球部に入ったんですよ。でも、すぐに逃げ出したんです。通用しない。運動神経には自信があったんですけども、小さいボールが扱えなかったんですね(笑)」
「で、落ち込んでるところに、たまたま父親とか学校の先生からラグビーを勧められたんですよ。ラグビーと言えば、中学校の時に見た新日鉄釜石。国立競技場が6万の大観衆で、大漁旗が振られて…赤いジャージの松尾雄治さん。そして、ちょうど同じ頃にドラマの『スクールウォーズ』が始まったんです。あ、ラグビーかと。じゃあ、ラグビーやろうと」
「僕はフォワードで“ロック”。ロックってどんなポジションですか?って聞いたら、男の中の男がやるポジションだから!って。えっ!やってやろうやんけ!で、やったら、おしくらまんじゅうばっかりやってるんですよ(笑)。これが?と思いながら」
「でも、野球部から逃げた手前、ラグビー部からは逃げられないんで。ま、一生懸命やってたんですけど、ラグビーの世界にだんだん憧れを持ったんですよね」
「で、高校日本代表に選んでくれたんですよ。なおかつスコットランドに遠征に行きました。初めての飛行機、初めての海外がスコットランドでした」「(全国大会には)行ったことないんですよ。花園に行ってなくても高校日本代表に選んでくれたんですね。引き上げてもらいました」
そして、伊藤さんは法政大学3年生の時に大学選手権での25年ぶりの優勝に貢献します。
「誰も優勝すると思ってない中、僕ら優勝しちゃったんです。で、その当時の日本一を決める大会は、大学の日本一と社会人の日本一。神戸製鋼との試合だったんですね」「結果は41対3ですかね。1トライも取れませんでしたね。やっぱり神戸製鋼のするラグビーはレベルが全然違いましたね」
大学卒業後はその神戸製鋼に入った伊藤さん。数多くのオファーが来る中、神戸製鋼を選んだ理由をこう話してくれました。
「東京のチームが10チームぐらい来てくれたんですよ」「で、僕も東京出身なんで、東京のチームに行こうと思ってたんですけども、一番最後に神戸製鋼が来てくれて」
「最初は断ったんですけど、旅行がてらに神戸に来いって言われて。で、旅行がてらに行ったら、みんなカッコいいんですよ。やっぱね、5回連続日本一になってる男たちは光り輝いてるんですよ。僕もこういう人間になりたいと」
「平尾誠二さんが髭生やして、スーツでキメて、男前な顔で言うわけですよ。伊藤、お前なに東京にこだわってんだ?と。俺は神戸製鋼に入る前にイギリスに1年留学に行った。男だったら1回外の飯を食ってみろ!って言われて。それでコロッといかれちゃいましたね」
神戸製鋼では1年目から出場し、日本一のメンバーになった伊藤さん。95年にはチームが新日鉄釜石に並ぶ7年連続の日本一に輝きますが…
「もう夢が叶ったと。最高の気分だったんです。でも、その95年っていうのが、7年連続日本一になったんですけども、その2日後に阪神大震災が神戸を襲ったんですよ。僕はその時、東京にいたんですね。地元が東京なので。その日に帰ろうと思ってたんですけども、母親に叩き起こされて…」
「テレビで見たら、僕らの住んでる東灘区の神戸製鋼の寮の近くの高速道路がぶっ倒れて、三宮のビルは崩れ落ち…その光景を見た時に日本一の喜びは吹っ飛びましたね。ショックでした。連絡しても繋がらないし、ラグビー部も廃部になるんじゃないかと思いましたね」
「ただ、春に社長が来てくれて、ラグビーのクラブハウスにみんなを集めて、ラグビー部を存続すると。ラグビーで神戸を盛り上げてくれ!って。で、戦ったんですけども、それから5年勝てなかったですね。でも、勝てない中でも、会社の方や神戸の皆さん、全国のラグビーファンの皆さんが神戸を応援してくれたんですね」
「その5年後に日本一に返り咲けた時はホントに嬉しかったですね。皆さんの恩に少しでも報いることができたかなと思いましたね」
神戸製鋼がV7を達成し、阪神大震災が起こった1995年。その年の夏に南アフリカで開催されたラグビーのワールドカップでは、日本代表が145対17という歴史的なスコアでニュージーランドに破れてしまいます。
「夢の日本代表が世界で惨敗してるわけですよ。それを見てショックで…寮の洗面所で嘔吐しちゃいましたね」
「で、その次の年から僕は日本代表に選ばれたんです。ラグビー日本代表のプライドを取り戻すんだって。始まった年でしたね」
1997年からはラグビー界のスーパースター、平尾誠二さんが日本代表の監督に就任。伊藤さんも選手として99年のワールドカップに出場します。
「全敗でした。でもその時はですね、今の日本代表のヘッドコーチのジェイミー・ジョセフさんもプレーしてたんですね」
また、伊藤さんは2003年のワールドカップにも出場し、日本ラグビーのプライドを取り戻すために戦いました。
「初戦がスコットランドでした。次がフランスだったんですけども、僕らはそのチームにラグビーの誇りを取り戻すために突き刺さりました。それを世界のメディアが見てたんですよ」
「僕らは桜のエンブレム付けてるんで、愛称が“チェリーブロッサムズ”だったんですよ。でも、そのスコットランド戦から“ブレイブ・ブロッサムズ”って言われるようになったんですね。勇敢な桜たち。初めて世界のメディアが日本代表をそう呼んでくれたんです」
「それから2007年、2011年と、後輩たちが世界の尻尾は掴んでるけどなかなか勝利に至らない中で…引き分けはあったんですよ…。でも、2015年に3勝してくれて。で、今回じゃないですか。ホントに感動でしたね。まさに本当の“ブレイブ・ブロッサムズ”になったんです」
「(僕は)初代“ブレイブ・ブロッサムズ”です。1回も勝てませんでしたけど(笑)」
40才の時に18年所属した神戸製鋼から契約終了を告げられた伊藤さん。ご本人も引退を決意していたそうですが…
「その当時GMをしていた平尾さんから、タケ、そろそろお疲れだな、お疲れ様って言われたんですね。で、自分の中でもそろそろ引退だと、十分だなと」
「でもその時、妻と両親が、どっちが先か覚えてないんですけども、まだプレーする姿が見たいって言うんですよ」「40才までプレーして、さんざん自分の試合を見てると思うんですよ。で、自分の中では、え?っていう感じですよね」
「ちょうどその時に、後輩だった吉田尚史選手が電話をくれたんです。タケさん、僕が釜石にいるの知ってるでしょ?釜石シーウェイブスで一緒にプレーしませんか?って言うんですよ」
「ご存知の通り、釜石は東日本大震災で甚大な被害を受けた街ですけども、ラグビーで街を盛り上げよう、ラグビーで明るいニュースを届けるんだっていう人たちがたくさんいますから一緒に頑張りませんか?って。僕はそれに共感しちゃったんですよ。頑張りたいと思ったんですね」
「最初行った時は、グラウンドやクラブハウスより沿岸部を見せてもらったんです…船が乗り上げてました。津波の被害で半壊の建物がいっぱいありました。もう1年以上たってたんですけども、被害の大きさを自分の目で見た時はショックでした。この街で頑張りたいと思いましたね。で、トライアウトを受けさせてもらいました」
そんな経緯で釜石シーウェイブスに入団し、46才で現役を引退した伊藤さん。いよいよ引退を決めた理由をこう話してくれました。
「僕もプロ選手ということで行ってるので、試合に出れなくなったら引退だと思ってました。やはり最後のシーズンは試合に使ってもらえなかったですね。で、妻に言ったんです。そろそろ引退だよと。引退するよって言ったら、笑顔でお疲れ様って言ってくれたんですよ」
「また、両親に電話してもう引退することにしたって言ったら、おおそうか、頑張ったな、お疲れ様って。両親からも妻からも笑顔でお疲れ様って言ってもらえた時に、ああラグビーやりきったなぁと」
「釜石で僕は“ロック”をやらしてもらってたんですけど、ロックってスクラムで3列あるうちの2列目なんですよ。で、46才の最後のシーズン、スクラム練習するじゃないですか。前にいるプロップの選手が19才だったんです。で、僕のお尻を押すナンバー8の選手も19才だったんですよ。俺、19才のお尻を押して19才にお尻を押されてるなと。俺むっちゃ幸せじゃない?と。彼らをプラスしてもまだ俺の年にいってないよって」
最後に伊藤さんはご自身にとっての挑戦についてこう話してくれました。
「真剣勝負です」「真剣勝負って怖いしキツいけど、真剣にするからこそ楽しいと思うんですよね。これは神戸製鋼のラグビーの先輩たち、平尾さんをはじめ、みなさん言ってました。やっぱり真剣だから楽しいんだって」
番組では、そんな伊藤さんの挑戦に関するメッセージを色紙に書いて頂きました!こちらを1名様にプレゼントします。このホームページのメッセージフォームから「伊藤剛臣さんの色紙希望」と書いてご応募ください!