プロレスラーの棚橋さんが入門テストへの挑戦を振り返る!(2020/04/18 放送)
今週は、プロレスラーの棚橋 弘至さんをお迎えしました。
新日本プロレス所属の棚橋さんは、1976年11月13日生まれ。現在43才のベテランですが、「僕は生まれてから疲れたことがないので、まだまだいけると思います」とおっしゃっていました。
そんな棚橋さんの“100年に一人の逸材”というニックネームは、ご自身で考えたものなんだとか。
「プロレスラーってキャッチコピーってつくんですよね。(アントニオ)猪木さんだったら“燃える闘魂”とか、橋本(真也)さんだったら“破壊王”とかあるんですけど、僕もあったんですよ、“太陽の天才児”っていう」
「けど、太陽っていう明るいイメージはあったんですけど、天才ではないな、って自分の中ではあって…。“天才”に代わる何かいい言葉がないかな?と思って辞書引いたら、天才の類義語に“逸材”って出てきたんで、あ、逸材いいじゃん!誰も使ってないじゃん!と思って」
「逸材ってなんかこう、そのジャンルに最も適した人物、っていうような意味合いでもいけるかなと思ってですね」
「そしたらファンの方から、棚橋さんプロレス界まだ60年しかたってませんよ、って言われて(笑)。まだ100年の歴史はなかったんですけど」
岐阜県の大垣市出身で、小中高と野球をやっていたという棚橋さん。野球をやめてからはスポーツ新聞の記者を目指したこともあったとか。
「プロ野球選手になりたかったんですけども、ちょっと実力が足りず、そぐそこで切り替えて」「(県大会で)ベスト4まではいきましたね。でも、夢叶わず…じゃあどうしようか?って」
「実はですね、高校入試で1番で入学したんですよ。入学式で代表で挨拶して。で、ガクーンと下がったんですけど、甲子園予選が終わって、残り半年ですよね。8月からすっごい勉強して、また1番で卒業しました。超カッコいいでしょ?(笑)いやぁ、逸材感出たなぁ、今のエピソード(笑)」
「自分でも目標設定がうまいかなっていう。まずプロ野球選手になりたいっていったら野球を頑張る、でもダメだったら次どうするか?野球を扱うスポーツ新聞の記者になりたいなって思ったので、勉強をして…」
「1日、12時間から5時間、勉強してましたね。野球で培った…若い時っていうのは体力があるのでけっこう無理がきいたんですよね。偏差値が50ぐらいだったんですけど、65まで上げましたね」
そして、立命館大学の法学部に入学した棚橋さん。高校生の時からプロレスは大好きだったそうですが、大学に入ってから本格的にプロレスラーを目指すようになったそうです。
「大学の入学式っていうのは、式を終えた後に体育会だったりとかサークルが新入生の歓迎で呼び込みをやってるんですね。いろんなブースが出てて」
「大学入って野球サークルで野球を続けてもいいし、トライアスロンもやってみたいなと思って、いろんなことを考えてたんですけど、プロレスサークルのブースが一番騒がしかったんですよ。入場曲ガンガン流して、選手の真似したコスチュームを着てる人たちが暴れてて、これは面白い!と思って(笑)」
「そこでもう新聞記者の夢はなくなりましたね。変わりましたね。あとはアマチュアレスリングもずっと4年間やっててですね。立命館大学のアマチュアレスリング部」「関西リーグの2部だったんですけど、僕が4年生の時の1部と2部の入れ替え戦で勝って、関西学生リーグでなんとか1部に上げて卒業しましたね」
「1回生でクラス分けがあって、みんな夢を語るわけですよ。将来の夢は弁護士ですか司法書士ですか…プロレスラーになりたいです!って言って。受けるかな?と思ったら全然受けなくて(笑)。しばらくクラスの誰も話かけてこなくなっちゃった(笑)。お前なにしに来たんだって」
さらに棚橋さんは大学時代に少林寺拳法の道場にも通っていたとか。
「当時付き合ってた彼女が少林寺拳法部だったんで、お近づきになりたくて少林寺拳法の町道場に通ってましたね(笑)。あとはSAW、サブミッション・アーツ・ レスリングっていうのがあって、近くのジムに先生が来てたので、関節技も習ってましたね。全部プロレスラーになるために必要だと思って」
棚橋さんが初めて新日本プロレスの入門テストを受けたのは大学2年生の時だったそうです。
「入門テストに受かったら大学をやめようと思って。こういう競技っていうのは1日でも早い方が現役のキャリアが長くなるじゃないですか。だから単位も取ってなかったですね」
「僕ともう1人、井上(亘)選手…もう引退されたんですけど、この2人が体力的にはズバ抜けてたので、受かるとしたら僕か彼だなと思ってたら、その年の合格者ゼロだったんですよ。もうホントに納得いかなくて」
「で、京都だったので、滋賀県に新日本プロレスの大会が来た時に直談判に行ったんですよ。パンフレット売り場にレフリーの方がいたので、実は先日テストを受けて全部種目もできたんですけど不合格になりました、もう1度受けさせてくださいって」
「で、その方から橋本真也さんに言って頂いて、もう1度受けたんですけども、その時ちょっと体調がすぐれなくてですね。腕立て伏せで潰れてしまって。2回目も不合格になってしまった。それが3年生の頭ぐらいですかね」
棚橋さんは2度不合格になっても諦めずに3度目の入門テストにチャレンジします。
「3年生の秋ぐらいにもう1度受けて、やっと合格という。3回目は長州(力)さんが試験監督だったんですけど、5人残って最後にスパーリングやって。で、よしこの5人だ!って言われた時は、ホント嬉しかったですね」
「ただ、、長州さんが、3年生ですよね、あと1年大学ありますよねって。もうやめて入ります!って言ったら、卒業してから来い!って言われたんですよ。この仕事はケガをするかもしれないし、何があるかわからないから、お前ちゃんと卒業してこいって言われて。目の前が真っ暗になりましたね。というのも、卒業に必要な単位が58単位残ってたんですよ(笑)。1年で登録できるマックスが60なんですよ(笑)」
それでも棚橋さんは1年で60単位を取得して卒業することができたんだとか。
「1年生で取らないといけない憲法とかの大きい科目を残してたので、400人とか300人の大クラス、周り全員1年生の一番前で4年生が受けてましたね(笑)」
「ただ、長州さんには今では感謝してますね。大学卒業ということで、いちおう親孝行というか、しっかり卒業させてもらったし、立命館大学卒業っていう肩書でクイズ番組とかにも呼んでいただけるようになったので、結果的には良かったなぁと思って」
棚橋さんはこれまでの歩みを振り返ってこんなことをおっしゃっていました。
「次々とやりたいことを見つけられたのが凄いラッキーだったなと思いますね」「好きなことを仕事にできているという幸せも今感じてますしね」
来週も引き続き、棚橋 弘至さんをお迎えします!
新日本プロレス所属の棚橋さんは、1976年11月13日生まれ。現在43才のベテランですが、「僕は生まれてから疲れたことがないので、まだまだいけると思います」とおっしゃっていました。
そんな棚橋さんの“100年に一人の逸材”というニックネームは、ご自身で考えたものなんだとか。
「プロレスラーってキャッチコピーってつくんですよね。(アントニオ)猪木さんだったら“燃える闘魂”とか、橋本(真也)さんだったら“破壊王”とかあるんですけど、僕もあったんですよ、“太陽の天才児”っていう」
「けど、太陽っていう明るいイメージはあったんですけど、天才ではないな、って自分の中ではあって…。“天才”に代わる何かいい言葉がないかな?と思って辞書引いたら、天才の類義語に“逸材”って出てきたんで、あ、逸材いいじゃん!誰も使ってないじゃん!と思って」
「逸材ってなんかこう、そのジャンルに最も適した人物、っていうような意味合いでもいけるかなと思ってですね」
「そしたらファンの方から、棚橋さんプロレス界まだ60年しかたってませんよ、って言われて(笑)。まだ100年の歴史はなかったんですけど」
岐阜県の大垣市出身で、小中高と野球をやっていたという棚橋さん。野球をやめてからはスポーツ新聞の記者を目指したこともあったとか。
「プロ野球選手になりたかったんですけども、ちょっと実力が足りず、そぐそこで切り替えて」「(県大会で)ベスト4まではいきましたね。でも、夢叶わず…じゃあどうしようか?って」
「実はですね、高校入試で1番で入学したんですよ。入学式で代表で挨拶して。で、ガクーンと下がったんですけど、甲子園予選が終わって、残り半年ですよね。8月からすっごい勉強して、また1番で卒業しました。超カッコいいでしょ?(笑)いやぁ、逸材感出たなぁ、今のエピソード(笑)」
「自分でも目標設定がうまいかなっていう。まずプロ野球選手になりたいっていったら野球を頑張る、でもダメだったら次どうするか?野球を扱うスポーツ新聞の記者になりたいなって思ったので、勉強をして…」
「1日、12時間から5時間、勉強してましたね。野球で培った…若い時っていうのは体力があるのでけっこう無理がきいたんですよね。偏差値が50ぐらいだったんですけど、65まで上げましたね」
そして、立命館大学の法学部に入学した棚橋さん。高校生の時からプロレスは大好きだったそうですが、大学に入ってから本格的にプロレスラーを目指すようになったそうです。
「大学の入学式っていうのは、式を終えた後に体育会だったりとかサークルが新入生の歓迎で呼び込みをやってるんですね。いろんなブースが出てて」
「大学入って野球サークルで野球を続けてもいいし、トライアスロンもやってみたいなと思って、いろんなことを考えてたんですけど、プロレスサークルのブースが一番騒がしかったんですよ。入場曲ガンガン流して、選手の真似したコスチュームを着てる人たちが暴れてて、これは面白い!と思って(笑)」
「そこでもう新聞記者の夢はなくなりましたね。変わりましたね。あとはアマチュアレスリングもずっと4年間やっててですね。立命館大学のアマチュアレスリング部」「関西リーグの2部だったんですけど、僕が4年生の時の1部と2部の入れ替え戦で勝って、関西学生リーグでなんとか1部に上げて卒業しましたね」
「1回生でクラス分けがあって、みんな夢を語るわけですよ。将来の夢は弁護士ですか司法書士ですか…プロレスラーになりたいです!って言って。受けるかな?と思ったら全然受けなくて(笑)。しばらくクラスの誰も話かけてこなくなっちゃった(笑)。お前なにしに来たんだって」
さらに棚橋さんは大学時代に少林寺拳法の道場にも通っていたとか。
「当時付き合ってた彼女が少林寺拳法部だったんで、お近づきになりたくて少林寺拳法の町道場に通ってましたね(笑)。あとはSAW、サブミッション・アーツ・ レスリングっていうのがあって、近くのジムに先生が来てたので、関節技も習ってましたね。全部プロレスラーになるために必要だと思って」
棚橋さんが初めて新日本プロレスの入門テストを受けたのは大学2年生の時だったそうです。
「入門テストに受かったら大学をやめようと思って。こういう競技っていうのは1日でも早い方が現役のキャリアが長くなるじゃないですか。だから単位も取ってなかったですね」
「僕ともう1人、井上(亘)選手…もう引退されたんですけど、この2人が体力的にはズバ抜けてたので、受かるとしたら僕か彼だなと思ってたら、その年の合格者ゼロだったんですよ。もうホントに納得いかなくて」
「で、京都だったので、滋賀県に新日本プロレスの大会が来た時に直談判に行ったんですよ。パンフレット売り場にレフリーの方がいたので、実は先日テストを受けて全部種目もできたんですけど不合格になりました、もう1度受けさせてくださいって」
「で、その方から橋本真也さんに言って頂いて、もう1度受けたんですけども、その時ちょっと体調がすぐれなくてですね。腕立て伏せで潰れてしまって。2回目も不合格になってしまった。それが3年生の頭ぐらいですかね」
棚橋さんは2度不合格になっても諦めずに3度目の入門テストにチャレンジします。
「3年生の秋ぐらいにもう1度受けて、やっと合格という。3回目は長州(力)さんが試験監督だったんですけど、5人残って最後にスパーリングやって。で、よしこの5人だ!って言われた時は、ホント嬉しかったですね」
「ただ、、長州さんが、3年生ですよね、あと1年大学ありますよねって。もうやめて入ります!って言ったら、卒業してから来い!って言われたんですよ。この仕事はケガをするかもしれないし、何があるかわからないから、お前ちゃんと卒業してこいって言われて。目の前が真っ暗になりましたね。というのも、卒業に必要な単位が58単位残ってたんですよ(笑)。1年で登録できるマックスが60なんですよ(笑)」
それでも棚橋さんは1年で60単位を取得して卒業することができたんだとか。
「1年生で取らないといけない憲法とかの大きい科目を残してたので、400人とか300人の大クラス、周り全員1年生の一番前で4年生が受けてましたね(笑)」
「ただ、長州さんには今では感謝してますね。大学卒業ということで、いちおう親孝行というか、しっかり卒業させてもらったし、立命館大学卒業っていう肩書でクイズ番組とかにも呼んでいただけるようになったので、結果的には良かったなぁと思って」
棚橋さんはこれまでの歩みを振り返ってこんなことをおっしゃっていました。
「次々とやりたいことを見つけられたのが凄いラッキーだったなと思いますね」「好きなことを仕事にできているという幸せも今感じてますしね」
来週も引き続き、棚橋 弘至さんをお迎えします!