今週は、先週に引き続き、南国・沖縄の漁師さん「海人(うみんちゅ)」と、森の木の関わりについてお届けします。


沖縄・糸満の海人たちが、かつて漁をするために使っていた舟「サバニ」。
「サバ」とは、沖縄の言葉でサメのこと、「二」は舟のことです。

糸満の海人たちは、サメをはじめ様々な海の幸をとるために、改良を重ねた「サバニ」を自在に操り、ハワイやサイパン、フィリピン、シンガポールにまでいって漁をしていたといいます。
一方、糸満の船大工たちは、船造りに適した素材・宮崎の飫肥杉(おびすぎ)と出会い、より性能の良い舟を、海人たちに提供するようになった…というのが先週のお話でした。

しかし現在、サバニを使った漁は行われていません。
なぜサバニは使われなくなってしまったのでしょうか。

前回に引き続き、糸満の海人文化の語り部・上原謙さんお話を伺いました。

◆サバニの歴史
サバニを使った漁は戦後、昭和の初めくらいまでは行われていました。しかし戦後、米軍がやってきて、米軍の軍作業の仕事が入るようになると、天気に左右される漁の仕事とは違い、安定した給料が出る。また海より陸(おか)の仕事のほうが安全ということで、次第に廃れていきました。また、糸満は遠浅で海の幸がいっぱいでサンゴ礁もあったんですが、埋め立てや、農薬、家庭排水によってサンゴ礁が死んでしまいました。すると漁ができない。そして小さなサバニで漁はできなくなりました。お年寄りに聞くと、昔はジュゴンもいたといいますが、沖縄全体から自然がなくなりつつあります。しかし最近、慶良間が国定公園に指定されました。これはいいことですね。
いま、サバニを「帆かけサバニレース」という形でスポーツ化して復活させています。座間味から那覇港までのレースなんです。15年ほど前に古いサバニを自分たちで修繕し、帆掛けにして生き返らせました。それをヨットマンが操りました。彼らはヨット用語を使いますから、たとえば櫂(かい)のことをオールといったり、パドルといったりしていたのですが、僕は糸満の海人が使っていた言葉を継承し、戻そうとしています。帆のことを「フー」といいますが「フーカキサバニ ハラセー大会」としてやっています。



サバニの伝統を守るために、現在,毎年サバニを使ったレースが行われています。
今年の開催は、6月21日・22日の2日間。
詳しくは、サバニレースのサイトをご覧ください。

実は、上原さんのお父さんは、元々海人。サメに足をかまれたことで海人を引退して、船大工になった方です。戦後にアメリカ軍から配給された木材を使って、「南洋ハギ」という新しいタイプのサバニを発明した方として有名なんだそうです。そして今、お父さんの船大工としての仕事をすぐそばで見てきた上原さんは、NPO法人「ハマスーキ」の理事長として、サバニなど、糸満の海人文化を展示する施設を運営しています。糸満市にあるハマスーキの施設には工房もあって、そこではサバニ作りが今も行われています。ただ、サバニを作ることのできる船大工さんは、現在では数少ないといいます。


◆サバニの文化を継承するために
糸満には大城清さんと高良さんの2人しか残っていません。沖縄全体でサバニが作れるのは、宮古出身の新城さんが八重山に、伊江島に糸満出身の人がいるだけです。ですが、後者2人は80歳を超えているので、いつまでも作れるわけではありません。注文があれば作れるでしょうが、いまはそんな注文はなかなかありません。大城清さんと高良さん2人ができないと終わりになってしまいます。
そこで、後継者を育成するためにサバニをスポーツ化しました。大きいものはお金もかかるので作れませんから、2人くらいで乗れるようなものを作ろうという計画をしています。カヌーのように2人で遊べるようにしたいんです。大城さん高良さんで一つずつ作ろうという計画です。どうにかして舟の注文がくるようにとやっています。



こちらが、上原さんのお話にあった二人乗りのサバニ。小さいカヌーに帆が付いている感じです。結構乗りこなすのも大変そうなんですが、海に出て風を受けて走っている様子は本当に気持ちよさそうでした。上原さんがおっしゃっていたように、いま、サバニを作ることのできる船大工さんは本当に限られていますが、スポーツ化によってサバニの文化が継承されるといいですね。

実は今回の取材では、その貴重な技術を受け継ぐ船大工さんのおひとり、大城清さんにもお話を伺うことができたんです!そのお話は、また来週お届けします。

上原さんのお話はポッドキャストでも詳しくお届けしています。
こちらもぜひお聞きください!

【今週の番組内でのオンエア曲】
・樹海の糸 / Cocco
・イラヨイ月夜浜 / 大島保克

今週は、JFN38局が取り組む『COOL WOOD JAPAN PROJECT』をお届けします。
今回ピックアップしたのは、「サバニ」です。サバニとは沖縄の言葉で、沖縄の漁師さん「海人(うみんちゅ)」が、かつて使っていた漁船のことなんです。古くは地元・琉球の松を使っていたそうですが、ハギ舟といわれる、複数の材木を組み合わせたものになってからは宮崎県産の飫肥杉を使っているそうです。なぜ、沖縄の漁船を、宮崎県の杉の木で作ったのでしょうか・・・。
糸満の海人の歴史を語り継ぐ「語り部」、NPO法人ハマスーキ理事長 上原謙さんにお話を伺いました。
NPO法人ハマスーキ上原さん
◆潜り漁が盛んな糸満で生まれた、ミーカガン(水中めがね)
糸満は首里王国から魚を獲っていいと許可を得ていた地域なんです。糸満は遠浅で、川から栄養が流れこみ、サンゴ礁もあって海の幸がいっぱいあり、素潜りで海の幸を捕ることが主流でした。
それで当時、漁の時に目を保護するものが必要ということで、サツマイモを輪切りにして外側にガラスを入れ、水中眼鏡を作りました。

沖縄の言葉で「ミーカガン」といいます。それまでは目を痛めてしまう人も多かったそうですが、このミーカガンはとても画期的な発明で、漁獲高も大きく増えたそうです。元々は明治17年に玉城安太郎という人が作り出したもので、それをみんなが真似したんです。そして次第に芋で作るのは大変だということで、海岸に生えている木を使うようになりました。この近くにありますが、砂浜にハマスーキという木が生えています。この木は柔らかいけど割れない木で、簡単に穴が開きます。



糸満で120年前に考案された水中めがめの原型「ミーカガン」。
サツマイモを輪切りにしてくりぬき、ガラスを付けて、漁をする網で顔に縛り付けたもの。
それがこの姿(笑)

およそ120年前のこの画期的な発明と舟、つまり「サバニ」の進化が、
海人たちの生活を大きく変えたといいます。

◆サバニの進化
以前のサバニは琉球松の木をくりぬいてつくった「マルキンニ」といわれる丸木舟でした。しかしこれでは遠くへは行けません。琉球王朝は中国との貿易をするために大きな船が必要で、それにはたくさんの木が必要でした。そこで薩摩から、船の材料に最適だった飫肥杉を入れ、それを製材して曲げて作るようになりました。
糸満では、イノー(サンゴ礁に囲まれた浅い海)で魚を捕る舟を「イノーニ」といっていました。「ニ」は舟のことです。イノーの外にいく舟は「フカッキサーニ」、サメやフカを糸満ではサバといいますが、サバを釣る舟を「サバニ」といっていました。今はどんな舟でもサバニと呼ぶようになりました。
やがて琉球の海人たちはこのサバニに帆を張って島から島へ渡っていきました。奄美大島から鹿児島へ、鹿児島から長崎、五島列島、山口を回って、福井県までいきました。島根にはまだサバニが残っています。また、太平洋側は宮崎、大分、四国、和歌山、東京、千葉県まで島伝いに帆で行っていました。天気予報もない時代ですが、何月ころはどこから風が吹くか、午前と午後ではどう違うかなどを読み、雲の流れや波を見て、潮に逆らわずに行っていたんです。


こうして糸満の海人は日本全国だけでなく ハワイ、サイパン、フィリピン、シンガポールまで行って漁をしていました。上原さんは、海を渡る「海人」の子どもとして、ミクロネシア「ポナペ島」で生まれたともおっしゃっていました。ポナペ島は現在ポンペイ島と呼ばれています。

沖縄の漁師さん「海人」が獲っていたサバ=サメは、身はかまぼこになるし、フカヒレは中国へ輸出され、肝臓から取った油はペンキ代わりに船に塗るなど、貴重な資源だったようです。

本当に奥が深く、感心するお話ばかりですね。お話を伺った上原さんが理事長を務めるNPO法人ハマスーキのサイトもぜひご覧ください。
糸満 海人工房・資料館

この続きはまた来週お届けします。

***
『COOL WOOD JAPAN PROJECT』では、JFN38局それぞれが各地域の森の情報や取り組みなどをご紹介しています。詳しくは「COOL WOOD JAPAN PROJECT」の特設WEBサイトをご覧ください。
COOL WOOD JAPAN PROJECT

【今週のオンエア曲】
・AM11:00 / HY
・てぃんさぐぬ花 / 我如古より子 吉川忠英
先週に引き続き「山伏と月山のお話」という、本物の山伏によるトークイベントの模様をお届けします。

 このイベントに登場したのは、山形県出羽三山・羽黒山の山伏、星野文紘さん。1600年代から400年。代々続く山伏の方です。
山伏の修行、ほとんどの方が体験したことは無いんじゃないでしょうか。山伏とは、修験道という山岳信仰の1つ。白い装束を身にまとい、険しい山道を歩き、滝行をはじめ様々な厳しい行を通じて身を清め、山を出ると同時に、「生まれ変わる」という考え方に基づいたもの。
山伏・修験道の歴史は、奈良時代に、役行者(えんのぎょうじゃ)という人物によって始まったとされています。つまり1300年前。
 かつて日本人は、山を信仰の対象として、山に入ることで様々なことを体で感じ取っていました。
こうした日本人の「自然観」について、現役の山伏、星野さんは色々と教えてくれています。

山伏 星野文紘さん
◆日本人の自然捉え方〜山伏 星野文紘さんのお話
 『自然』と書いて、近世までは『じねん』と読んでいました。そして、その『自然(じねん)』には人間も入っていたそうです。ところが明治になって、日本の自然(じねん)を英語に訳す時に、それにあたる言葉がなかった。そこで”Nature”になりました。それで”自然”から人間が外れてしまったんです。
 本来、日本の自然(じねん)思想、自然観には人間が入っていました。ですから、人間が死んで33年経ち、きれいになったら神様になり高い山におさまります。自然も神ですから、自ずと人間も神になるんです。
 うちでは3日間の修行体験をしますが、一回に20人くらいの人が来ます。修行に入ったら私は一言もしゃべりません。ただ山や滝に連れて行くだけ。しゃべるのは修行が終わってからです。精進料理や二升も入るような大杯で飲み回しをして、世俗に帰る儀式をして帰すのですが、そこで初めてしゃべります。
 また、そのときに参加者に感想も聞くのですが、そうすると参加した20人、それぞれ違うことを言います。つまりそれは答えが20あったということです。自分が感じたこと、すなわちそれが答えなんです。人と違うという部分を大事にしなければいけません。
 ところが、みんな子どもの頃からテストで丸をもらうために、ひとつの答えを一生懸命覚えましたよね。そういう訓練ばかりさせらているから、社会に出ても、必ず答えを出そうとする。生きることにも答えを出そうとします。「なぜ生きているのか?」そんな疑問に答えはいりません。答えはいくらでもある。
 いかに頭から入っていったって、先に展開はしません。体から入っていって、頭はあとで整理すればいいんです。ですから山伏修行は体で学びます。そこに身をおいて感じたことが答えなんです。いま、日本にはそれが大事です。


最近は、山伏修行にも女性の参加者が増えているそうです。
森ガール、山ガールじゃなくて、「山伏ガール」が増えているんです。
そして、元々は女人禁制だった山伏の世界も、女性を受け入れるところが、増えているんだそうです。
今回、東京都内で行われた、山伏・星野さんのトークイベントも女性のほうが目立ちました。その理由について星野さんはこう説明します。

◆山伏の修行に女性が増えたわけ〜山伏 星野文紘さんのお話
 山伏の話というと、集まる人の八割くらいは女性です。うちでは女の人だけの修行もありますし、3日間の修行では男も女もやっていますが、修業に参加した人は、修行中はとてもつらそうでも、終わったらみんないきいきして帰っていきます。10年以上やっていて、最近ようやく気づいたのは、女は野生が強かったのではないかということです。
 江戸時代の終わりの旧暦のころまでは、月の満ち欠けの28日との関わりで1年間の暮らしがありましたよね。28日周期というのは女の人周期と一致しています。ですから、旧暦の暮らしは、そのサイクルがしっかり女性本来の強いエネルギー、野生性を保っていたんだと思います。しかし明治になって太陽暦を使うようになり、周期が狂ったために忘れてしまった。山伏修行は山を走り回り滝に浸かり、つまりそれは野生ですから、女の人が修行に入ると、旧暦のころの野生性がよみがえるんではないでしょうか。
 こういうことは理屈じゃありません。かつて女の人は修行に入れませんでした。というか修行する必要がなかったんです。1年のサイクルの中で野生性が保たれていたわけですから。ところが今はみんなそれを感じていませんから、山伏修業をすることによって野生性を取り戻せるんだと思います。月のものというのは女の人のエネルギーです。それが野生性。男性にはそういうのがありませんから、野生をつけたくて修行に入っていったのではないでしょうか。


星野さんのお話とても印象的でしたね。
ちなみに出羽三山神社のサイトには山伏修行の案内が出ています。興味のある方はぜひ見てみてください。

星野さんのお話はポッドキャストでもご紹介しています。
こちらもぜひお聞きください!

【今週の番組内でのオンエア曲】
・神様の宝石でできた島 / MIYA & YAMI
・満月に吠えろ / チャットモンチー
今週は、ちょっと変わった切り口で、「森」を取り上げます。
ピックアップしたのは、「山伏」です。

山伏とは修験道という、山岳信仰のひとつです。
「山伏」というとみなさんはどんなイメージを持ちますか?
白い装束を身にまとい、頭に六角の帽子のようなものをかぶった姿で、法螺貝を吹く・・・そんな印象でしょうか。

今回取材したのは、先日東京で行われた「山伏と月山」のお話」というイベントです。
今でも、全国各地の山岳地帯に、各宗派の山伏修行の拠点が点在していますが、イベントに登場したのは、山形県出羽三山羽黒山の山伏、星野文紘さんです。
星野さんは羽黒山の宿坊…お寺の宿泊施設に生まれ育ち、その家系は、なんと西暦1600年代から代々続く本物の山伏です。
400年前から脈々と受け継がれた、山伏の末裔なんです。
山伏 星野文紘さん

◆山伏とは? 〜山伏 星野さんのお話
 山伏って何?と聞かれますが、簡単にいえば半聖半俗の存在です。半分聖なるもの、半分俗なるもの。なぜ半聖なのかというと、山に閉じこもってばかりいたら世の中がわからないからです。山伏というのは自分のため、人のためだからしっかり世の中がわからなければ何の対応も出来ません。だからこうしてお江戸にも遊びに来るんです。
それでは山伏はなにをする人かというと、それは神や仏と人をつなぐ人、自然と人をつなぐ人。また、最近は精進料理なども一所懸命やっているので、食と人をつなぐ人ということになります。そして、これからの山伏の定義の仕方としては、人と人をつなぐ人、人と地域をつなぐ人も山伏ですね。さらに我々山伏は修行をしているので修験者でもあります。
 日本は山だらけですが、昔から我々は山との関わりで精神性、命、心を学んできました。ところが今はその機会がない。そこで今日は日本人にとって山の思想とはにかというお話をしたいと思います。
日本の山の思想では、山は女性の胎内、赤ちゃんが生まれてくる象徴と捉えます。山から出てくるということは生まれるということです。生まれた命は何で命をつなぎますか?食べ物ですよね。生命の源泉は食べ物です。今はこれだけ食べ物がすぐ手に入りますが、2000年前は食べ物を自然から、とくに山から手に入れてきました。山は水だめでもありますしね。命の源である食べ物を山からいただくということは、命は山がつないでいるということです。
人間は成長すると、六根(眼 鼻 耳 口 体 脳)があるから良いことも悪いこともやります。ですから、日本の思想とは、人間は間違いを起こすこと前提で対応してるわけです。人間はいいことも悪いことも起こすのが当たり前なんです。悪いことしちゃいけないといってもしょうがない。やっちゃうんだから。
でも、我々日本人は間違いを犯したら山に登るということは懺悔なんだと教えられてきました。間違ったことを起こして山にいけば懺悔となり、罪が償える。そういう教えなんです。生まれて、食べて、山から救って頂いて、最後は亡くなると体は土に帰り、精神は山に帰るという教えなんです。
 山には2つあって、亡くなってまず最初33年は葉山という低い山、そして最後は高い山、つまり月山におさまります。なぜまず低い山に33年いくのかというと、人間が犯した罪は簡単に消えないんです。では誰が消してくれるのか。それは家族が三回忌、五回忌、七回忌・・・と法事をやりますね。それで罪がだんだん消えていき、33年で全部きれいになります。だから33回忌までやりますよね。33年経つと罪が消えるので、高い山にいって神様になります。
 ですから、人間は山との関わりでつながっているんだということが日本人の精神性なんです。山抜きにして日本人の精神は語れません。そして2000年前からそういうことを知識だけじゃなく体を通して、自然と関わりながら教えられてきたことなんです。みなさんは自然が神様だということは知識として知っていると思いますが、自然がなぜ神様なのかということはわからなかいと思います。それは、自分で食べ物を探して食べなきゃならない頃はみんな山、川、海で命をつないでこれたんです。そうするとおのずと手を合わせる。その手を合わせた先は神様ですよね。私はそう思うんです。



山伏というと、頑なであまりお話もしないで、ひたすら修行している、そんなイメージでしたが、星野さんのお話とてもおもしろいですね。とくに自然がなぜ神様なのかというお話はとても印象的でしたね。

来週も星野さんのお話をお届けします。お楽しみに。

【今週の番組内でのオンエア曲】
・情熱 / UA
・宝物 / 風味堂
今週は、先週に引き続き、作家で環境活動家のC.W.ニコルさんのインタビューをお届けします。
東日本大震災で被災した、宮城県東松島市野蒜地区。ニコルさんはこの土地で行政や地域の方々とともに、豊かな森が子どもたちの心にもたらす力を活用する学校、「森の学校」を作る計画に取り組んでいます。

◆森の学校づくりのきっかけ〜C.W.ニコルさん
十数年前から、トラウマを受けた子どものためのプログラムがあります。いじめや虐待を受けた子ども、ダウン症の子どもたちなどを生きた森に連れて行くと心の窓が開くんです。
東日本大震災後、家族や友だちをなくし、つらい思いをしているひとたちを森に招待しようとしたとき、一番最初に手を挙げてくれたのが東松島でした。3日間子どもたちは森で遊び、大人たちは色々なことを話し合いました。その後、津波で破壊された学校を山側に移動するにあたって、東松島市からアドバイスをしてくれと言われたんです。移設先の山は暗い藪だったので、明るい森をつくるための手伝いをしました。また、校舎を木造にすることや、森のなかで勉強、遊びができるよう森と学校をひとつにすることを提案しました。


こうして東松島市はニコルさんのアドバイスを受け、野蒜地区の高台にある森を手入れして、そこに学校を作るために動き出しました。この計画は単純に森のなかに学校をつくるわけではありません。森そのものを子どもたちが学ぶ「教材」にしようというものなんです。

◆森を教材に〜C.W.ニコルさん
丁寧に間伐をすれば、その谷間はすごく音が通るようになります。森には独特の音があり、本当の音の良いスタジオみたいになるんです。そこで音楽や劇、朗読などをできるようにしようと思いました。音楽は森で始まったんですよ。考えてみてください。楽器は木や動物の皮で出来ていますよね。それは森にあるものですね。人間の心には森が必要なんです。森のなかで、電気の力を使わずに天然の音で音楽を奏でると森は喜ぶんです。これは何回も実験しましたが、いい音楽を演奏した後、拍手をしないで10秒待つと、鳥は鳴くし、木も動くのがわかります。森は音楽が大好きなんです。また、震災では津波の後に凍えて亡くなった人が大勢いました。焚き火がたけなかったんです。だから、子どもたちに正しい、安全な焚き火の炊き方を教えるつもりです。雨の中でも焚き火は炊けるとか、そういうサバイバルも教えますが、一緒に「酸素ってなに?」、「二酸化炭素ってなに?」、「煙はどうしてできるの?」、「炎ってなに?」とか、そういう科学も一緒に教えることができます。科学も、自分の生活の中にあると感じてもらえます。また、地理も教えられますし、湧き水が出る理由、川がある理由、動物がいる理由など、色んな可能性があります。


確かに、理科も、社会も、図工も、音楽も、体育も森のなかで全部勉強できるということなんですよね。学校の勉強は、なにをいつまでに教えなければいけないという学習指導要領がありますが、どうやって教えるかは決まっていません。そこで森を教材にしようというのが「森の学校」です。
作家であるニコルさんは森の授業で使うための教科書の執筆にとりかかっているそうです。ただし、森の学校の完成は2018年の予定。まだ数年かかります。
そこでニコルさんはいま森を必要とする子どもたちのためにツリーハウスをつくりました。

◆ツリーハウス〜C.W.ニコルさん
僕は小さい時から大きなツリーハウスに住むことが夢でした。ツリーハウスの夢をもつ人は結構いますよね。森の学校ができるのは2018年ですから、今の東松島市の小学生たちは卒業してしまうので、この新しい森の学校に行くことができません。そこで、森のなかに夢のあるツリーハウスをつくってあげようと考え、日本で一番有名なツリーハウスクリエイターの小林崇さんに頼んで、地元の木を使って4階だてのツリーハウスをつくりました。ツリードラゴンと名づけました。

ツリーハウス
写真(提供):一般財団法人C.W.ニコル・アファンの森財団

とてもおもしろいデザインで、実際に入ってみるととてもワクワクするんですね。このツリーハウスを支えている木は山桜ですね。ツリーハウスのなかで生きている木があるんです。いちばん上のステンドグラスの窓がある小さな部屋は、まだ完成する前に小鳥が巣つくってしまって、子どもを育てたんですね。できあがる前に住人が入ってしまった(笑)。下の部屋は大きな天然の石があるのですが、その石を削って暖炉をつくりました。
僕たちは子どもの基地にしようと考えたのですが、地元の人が結婚式に利用したり、いろいろな用途で使います。とくにお年寄りはいろいろと思い出すものがあったみたいです。だから、このプロジェクトでいちばん良かったことは、子どもたちとお年寄りが会話をするようになったことですね。

ツリーハウス
写真(提供):一般財団法人C.W.ニコル・アファンの森財団

このツリーハウス、とても大きいですね!このツリーハウスは地元の子どもたちも木を運んだり、木の皮を剥いだり、大人と一緒につくったんだそうです。
森の学校の完成予定は2018年。ニコルさんはこの学校を日本一の学校にしたいと話します。

◆森の学校を日本一の学校に〜C.W.ニコルさん
海も見えるし、森もあるし、自然もある日本一の学校をつくりたいと思っています。”いい学校”じゃダメです。日本一の学校をつくるんです。いまの若い親は子どもたちのことをすごく心配しています。ですから、いい自然のあるところで一流の教育ができる学校を選ぶと思うんです。ひょっとしたら、子どもの教育のためにその街に行くということもあるかもしれません。
木造の建物といっても、近代的な技術を使えば火事や地震についても安全です。それにインフルエンザとかアレルギーはコンクリートの建物よりも圧倒的に少ないんです。また、ハイテクを使えば、その学校は日本中の学校とつながることができます。僕は決して現在の技術を否定しているわけではありません。ただ、基本は自然にあります。


ニコルさんはツリーハウスの話をする時、とても熱っぽく語っていらっしゃいました。
この取材時に「ツリーハウスで遊ぶ子どもたちはどんな様子でしたか?」と伺ったところ、自分も一緒に遊んでいたので覚えてないとおっしゃってました。ニコルさんはご自身のことを73歳の子どもといっていましたが、確かにツリーハウス、とても楽しそうですし、みんな憧れがありますよね。
こういう中に学校があって、子どもたちが育っていったら、とてもいい教育になりますよね。


写真(提供):一般財団法人C.W.ニコル・アファンの森財団

インタビューの様子はポッドキャストでもお届けしています。
こちらもぜひお聞きください!
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高橋万里恵
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