今日は、宮城県・南三陸町からのレポートをお届けします。
今月3月3日、宮城県南三陸町に常設の商店街「南三陸さんさん商店街」がオープン。東日本大震災からまる6年を経て、南三陸は復興へ大きな一歩を踏み出しました。

この南三陸さんさん商店街。仮設から常設へ生まれ変わるにあたり、大きなこだわりが一つありました。
それが、地元の杉を木材として活用する・・・というものなんですが、このアイデアを盛り込んだのが、建築家・隈研吾さんです。

◆日本を代表する杉 美人杉
杉は日本中に生えるんですが、それぞれの場所で微妙に色や香りが違います。南三陸の杉は美人杉と呼ばれくらい、ピンク色の美しい肌をしています。それを見せてもらって、良い香りを嗅いだ時、これを主役にして使おうと思いました。ですので、中心的な材料は美人杉です。杉は、切った時の肌が本当に人の肌みたいなんです。新国立競技場に日本各地の杉を使うので、色んな杉を見ましたが、南三陸のは美人度は高いですね。新国立競技場には日本各地の杉が使われると思いますが、この美人杉はやっぱり日本を代表する杉なので、使いたいと思います。
FSC認証といって、木の育て方や伐採など、全てが環境に配慮されていることを証明する認証がありますが、南三陸の杉はそれを取得しています。


隈研吾さんも一目惚れした、南三陸の「美人杉」。
町の面積のおよそ7割が森林という南三陸町では、この大切な資源を守り、そして次の世代へ残そうと取り組んでいます。
FSCというのは、環境に配慮して適切に管理された森だけが取得できる認証。2020年東京オリンピック・パラリンピックの関連施設ではFSCの認証を受けた木材が優先的に使われるそうです。

そんな南三陸の杉をめぐっては、この番組でも以前、実際に里山に入らせてもらったことがあるんですが、南三陸で林業を営む、佐藤太一さんにお話しをうかがいました。

◆これからもぜひ南三陸の杉を使っていきたい
さんさん商店街って、街の顔だと思いますが、南三陸は海の街とはいいながら、山も多いところで、そういう街に来たということを実感してもらえる空間になっていると思います。地元の木がそこに使われているのもそれに一役買っているという気はしますね。
ベンチとかテーブルにも杉の木を使ってもらっていて、それがとても触りやすい。たとえば広葉樹の木のベンチだと、ちょっとひんやりするのですが、さんさん商店街にあるイスにすわると温かみみたいなものが感じられるようになっていて、より杉の良さが伝わるようなものになっています。

これからも生涯学習センターとか、橋とか、そういういろんな建物が今後建っていきますが、それにも南三陸の杉が使われるようにはしていきたいと思っていますし、それを通して、南三陸に来ていただいた方にも木材に触れて頂ける場所になってほしいなと思っています。
これからどんどん暖かくなりますので、春といえばわかめがおいしくなってくる季節ですし、5月下旬くらいになればツツジも咲いてきます。ぜひ自然の恵みを感じれる南三陸に来ていただければと思います。



今回のお話いかがだったでしょうか。ポッドキャストでも詳しくご紹介していますので、こちらもぜひお聞きください!

【今週の番組内でのオンエア曲】
・翼はいらない / AKB48
・さすらい / スピッツ

今週も東北・宮城県東松島市の「奥松島 縄文村歴史資料館」のレポートです。
日本最大級の貝塚をはじめ、縄文時代の遺跡が数多く残る土地。東松島。
先週は、その貝塚の多くが海のそばではなく、一段高い「台地」のそばにあるというお話。そしてそれらの貝塚は、6年前の津波で流されることはなかったというお話をお届けしました。
過去、東北を何度も襲ったという津波。この地域に残る、その大昔の痕跡と貝塚を調べることで、まだまだ、私たちは学ぶことが多くあるといいます。
資料館の館長・菅原弘樹さんにお話を伺いました。

◆縄文人が住んでいた貝塚には、津波は及ばなかった
東北地方の太平洋側にある貝塚を調べてみると、東日本大震災で津波が及んだ貝塚はありません。それは縄文人が海と山との生活をする上で、一段高い台地の上に暮らしていたからです。里浜の発掘をした時に、低いところに津波の痕跡があり、4600年前と3500年前に津波が来たことを確認しています。今回4つの浜のうち、海辺の3つの浜が流されて、自分たちは助かったのですが、うちの浜だけは他の浜と立地が違っていて、貝塚があって自分たちの住む家があったということに、今回こんなことにあって、改めて気づきました。
里浜の人たちは縄文時代から繋がっていると思いますが、他の3つの浜はずっと安定して住む村は作られなかったようです。塩作りなど、季節的に仕事をするために集まった遺跡はありますが、定住はしなかった。島の中で定住したのはここだけです。それが近世以降に色んな所から人が集まり、漁業を中心とした生活を営むようになり、漁業をする上で便利な、海の近くに村を形成したのではないでしょうか。漁業集落はほとんど低いところにあります。
震災でを経験して思ったのは、自分たちが住んでいる場所がどういうところなのかということ。縄文人はちゃんとそれを意識して高いところで安全な生活を送ってきました。それは学ばなければいけません。私たちは縄文人よりもはるかに多くの情報を持っているのだから、危ないと分かっている土地に住んではいけない。それがあれば地形的なことも繋がるし伝わるし、災害の歴史も伝わると思うんです。


ちなみに、他の貝塚もつぶさに確認すると、内陸へ20キロ30キロ離れたところにも貝塚があります。それは、かつては、そこまで海だったことを表しているんですね。
関東でも、埼玉県の大宮や群馬で貝塚があるそうで、つまりそんな内陸まで海だったということなんです。それが川から運ばれた土の堆積で陸地になっていったんですね。
陸地が海側へ広がると、人々はさらに海に近いところで塩田をやったり、生活をするようになったそうなんです。
さらに、東松島・里浜の縄文人は、栗林を管理をしていたという話がありましたが、この地域の、元々の植物を調べることで、ここで暮らしてきた人々の生活スタイルが、より鮮明になってくるといいます。

◆海岸の松は”最近”のもの
宮戸島は非常に地形が入り組んでいて複雑です。植生をみてみると、縄文時代の山桜があったりします。松島は松で有名ですが、松は新しい植物。平安時代に松島湾は塩作りが盛んになり、陸奥国多賀城という役所の仕事として塩作りをして、沢山の人が動員されましたが、塩に必要なのは海水、煮詰める土器、それから薪です。浜という浜で、海水を煮詰めて塩を作る上で周りの木を伐採して薪にしてしまいました。そうすると禿山となるため、隣の浜に移動して塩作りをする、ということを繰り返すうちに、松島湾の海に面したところからは木がなくなりました。
松島湾は黒い土がなく岩。そして、これだけの塩がる。そういう環境で生えるのは松しかありません。花粉を調べると、丁度その頃に花粉が変わります。それまでは桜やケヤキやナラでしたが、塩作りを境に松に変わっています。
宮戸島・里浜は縄文時代は栗でしたが、その後はケヤキやナラがこの島の植生の中心になっていきました。その木は人々が生活する中で薪に使われたり、戦後すぐまでは山々が生活していく上でエネルギー源として大事で、それがこの島の生活を支えていた一面でもあります。


東松島はじめ「松島」という地名は、松の木という風景から生まれた地名ですが、それはつい最近、平安時代以降の話だったんですね。

最後に、この土地に残る 大昔の人々の生活の名残を見て、奥松島縄文村歴史資料館 菅原館長が思うことを伺いました。

◆縄文人を身近に感じること
縄文人はフグを食べ、ウニを食べ、道具作りでもこだわりを感じます。縄文人は壊れた釣り針も先の部分だけくっつけて修復しています。当時の天然アスファルトを接着剤にしていて、壊れた部分に溝を切って、たすきがけのように糸を巻いて修理するんです。
縄文人は、道具が壊れたら、捨ててすぐ新しいものを作るイメージがあるがそうではないんです。しかしもったいないという感覚は無いわけです。それが当然ですから。エコとかいい出したのは最近のこと。縄文人はあえてエコとは言いません。


今回のお話いかがだったでしょうか。菅原さんのお話はポッドキャストでも詳しくご紹介していますので、こちらもぜひお聞きください!

【今週の番組内でのオンエア曲】
・Lego House / Ed Sheeran
・Hello ! / YUKI
先週に引き続き、東北・宮城県東松島市の「奥松島 縄文村歴史資料館」のレポートです。
日本最大級の「貝塚」がある土地。そしてこの地域の貝塚からは、縄文人が何を食べ、何を考えて生活していたか、まさに彼らの暮らしそのものが詰まっています。
今日も、貝塚から分かる縄文ライフ、一緒に覗いてみましょう!
資料館の館長・菅原弘樹さんに教えていただきました!

◆山と海と共に暮らしていた縄文人
ここの貝塚は、台地の高いところの斜面に形成されています。家の周りの端っこに貝塚が作られているんですが、家の台所のそばでアサリや魚の骨、動物の骨を捨てるという感じなんですね。ですから今回の津波も10m以上きていますが、津波の来ないところに縄文人は住んでいたんですね。縄文人は山のものも大切にしていました。里山・里海という言葉がありますが、まさに縄文人は里山里海を大事にして、その中で自然とともに暮らしていたということなんです。
これだけ貝殻と魚がたくさん出土していると、魚介類だけ食べていた感じがしますが、人骨を調べると山の幸を利用していたということがわかるんです。魚介類は多いですが半分近くは植物質の食べ物を食べていて、土の中の花粉を調べると栗の花粉ばかりなんです。ということはそこが栗林だった証拠です。栗は縄文人にとって重要で、実もそうですが、家の建材としても丈夫でいい材料なんです。竪穴住居は土屋根だとわかっていますが、その土を屋根にかける。その時の柱は栗の木なんです。つまり、縄文人にとって栗は非常に重要だったことが分かります。縄文人はちゃんと栗の木を管理をしていました。下草を切って太陽の光があたるようにして、あまり密生しないようにしていました。密生していると実がつかなくなってしまうから、管理してあげないといけない。遺跡から出る栗は大きさが揃っているんです。また、栗はアク抜きが必要ない。粉にして食べれば保存が効きます。
もう少し後の縄文の中期になると栃の実も利用するようになります。栃の実はかなり食べる部分が多いのですが、アク抜きが必要で、ちゃんとその作業をやっています。縄文人は魚介類、旬の魚を獲っていますが、もう一方でちゃんと山を管理していたことも分かっています。家を高いところに作って、周辺に里山をもって、そこに家を作って生活していたんです。
現在の日本の食文化は、ほとんど縄文人が作った食文化や伝統の上に生活が成り立っていますね。日本の基層文化は縄文だといえます。


我々日本人は4000年前から、ずーっと里山とともに生きていたんですね。
ちなみに、奥松島の縄文人はじめ本州の縄文人は、栗の粉を使ったクッキーやパンを食べていたため、世界の狩猟採集民と比べて、「虫歯率」が高かった、なんて話もあります。
そしてもう一つ。縄文人たちの貝塚は、私たちに大切な教訓を伝えてくれているんです。

◆縄文人の防災意識
貝塚は村の台地の斜面にあります。斜面の下には津波は来ていますが、縄文人が住んでいるのは一段高いところなので津波はほとんど及んでいません。今回も10mの津波が来ましたが、それより一段高い所ということがあったんじゃないかと思うんです。里山・里海を活かした生活、自然と共生する生活をしようと場所を選ぶと、台地の上なんだと思います。それが近世くらいになって、漁師の生活になると山には住まず、海のそば、船のそばに暮らす。今回の津波では江戸時代以降にできた海のそばの集落はみんな流されてしまいました。一方、縄文以来の高台 里浜はほとんど流されなかった。これは里浜だけでなく松島湾全体にいえます。松島湾にはたくさんの貝塚があるが、対岸や松島の貝塚もその時期はどういうわけか一段高いところに移っています。そして同じ時期に低いところに移っています。おそらく気候が寒くなって海が引いたときに少しでも海に近い所によっていったんだと思います。ただそれでも絶対に海のそばではなく一段高い台地の上で生活しているんですが、目の前に津波が来るのを見るとより高いところに。そういう防災意識はあったんじゃないかなと思いますね。


今回のお話はポッドキャストでも詳しくご紹介しています。
こちらもぜひお聞きください!

【今週の番組内でのオンエア曲】
・ドライブ / ホフディラン
・狩りから稲作へ feat.足軽先生・東インド貿易会社マン / レキシ
今週は、東北は宮城県東松島市から、この土地で数千年前に暮らしていた私達の祖先・縄文人のお話です。
今回、取材したのは東松島市にある「奥松島縄文村歴史資料館」。宮城県は、千葉県・茨城県に次ぐ 貝塚の多い土地で、特に松島湾沿岸は貝塚が集中する土地として知られています。また、資料館のある宮戸島には、『里浜貝塚』という日本最大級の貝塚も残っています。その大きさはなんと・・・640m✕200m!!
ということで、資料館の館長・菅原弘樹さんにお話を伺いました。

ここは縄文時代は海だった場所で、すぐ近くで縄文人が長く住んだ場所なんですね。7000年くらい前からここに住み始めて、縄文時代ずっと4500年間くらい住んで、その後もここの島にずっと住み続けて現代までつながっている場所なんですね。
この島の広い範囲で貝殻が落ちていて、一緒に縄文土器が落ちていて、動物の骨や魚の骨があって、それを見るとただの貝殻ではなくて縄文人が獲って捨てた場所であり、日々の生活を送った場所の痕跡だということが分かるんですね。

 ここにあるのは、実際に発掘調査をして3mくらい掘ったもの。まっすぐ掘ってできた壁を剥がしてきたものなんですね。縄文人が日々生活していた物、簡単に言えばゴミが積もったものなんですね。これはまさに縄文人の生活の積み重なりが分かる場所なんですね。縄文の貝塚から出てくるものを調べると、我々現代人が食べているものとそんなに変わりません。ただ動物はちょっと違います。牛じゃなくて鹿、豚じゃなくて猪、鶏じゃなくて鴨やキジの肉を食べていたんですが、少なくとも魚介類は私達と全然変わらないものを食べていたことが分かるんですね。発掘前は、おそらく一番多いのはマグロだったり大きなスズキかなと思っていたんですが、実際調べてみると3分の1以上はイワシだったんですね。なんとなく縄文人って勇壮に魚を取っていたイメージがありますが、実はそうじゃなくて、その季節に沢山やってくるイワシやアジを村総出で獲って、安定的に食料を確保して、大きな魚はお父さんの太公望的な、男を自慢するようなものだったんですね。そんなことって貝塚を掘るまではわからなかったんですね。
ここに見えている貝は、ほとんどアサリなんですが、これは1年のうちの春を意味しています。いまも潮干狩りは春じゃないですか。縄文人も春に獲っていたことが分かっているんですね。というのも、木の年輪は1年に1本ですが、貝殻も1日に1本成長線を残すんです。それを調べると、このアサリがいつの季節に獲られたかがわかるんです。一年の中でも冬は成長しないので、そうやって調べると、春の層だということが分かるんです。この層は2m〜3mありますが、じつは20〜30年分くらいなんです。ですからここに住んだ縄文人の20〜30年分の生活が詰まっているんです。

 この貝塚からは人骨も見つかっています。さっき「ゴミ」とお話しましたが、縄文人にはゴミという感覚はないんですね。自然の恵みを頂いて、それを土に返すんですよね。食べかすも神が宿っていて、土に返すことでまた恵みとして戻ってきて欲しいという再生を祈る場所でもあるんです。ですから自分の身内が亡くなると貝塚に埋葬するんです。壊れた土器や食べかすが出てくると現代人の感覚ではゴミ捨て場というイメージですが、実は縄文人の意識の中では「全てのお墓」というイメージがあるんですね。
 あと、縄文人は犬を飼っていたんですが、それは狩りをする狩猟犬としてです。縄文時代は旧石器時代と違い、非常に効率よく狩りができるようになったんですが、それは弓矢の発明とともに、犬を飼うようになったということが大きいんです。それまでは槍をもって動物に正面から向かっていたんですが、犬を使うことによって、獲物を追い立てて、行き詰ったところで遠くはなれたところから弓でひく。そうすると安全で効率的に獲物をとらえることができたんですね。ですから、犬はパートナーとしてかわいがっていたし、ちゃんとお墓に埋葬しているんです。そこから、犬は他の動物とはちょっと別の生き物だったということが分かるんですね。


今回のお話いかがだったでしょうか。ポッドキャストでも詳しくご紹介していますので、こちらもぜひお聞きください!

【今週の番組内でのオンエア曲】
・Geronimo / Sheppard
・お犬様 feat. 尼ンダ / レキシ
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高橋万里恵
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