文田健一郎選手は、1995年生まれ、山梨県のご出身。
中学生の頃から本格的にレスリングと向き合い、お父様が指導者を務められる韮崎工業高校へ進学。
高校時代からグレコローマンの選手として、全国大会で優勝を続け、日本体育大学に進学後、世界選手権で優勝するなど活躍し、東京オリンピックでは銀メダル、そしてこの夏のパリオリンピックでは悲願の金メダルを獲得なさっています。
──まずは、パリオリンピック金メダル獲得おめでとうございます!
ありがとうございます。
──前回の東京オリンピックでも見事銀メダルを獲得されましたけれども、その東京で悔しい思いをしてそこからの3年間、どういう部分を強化しようと取り組まれたんですか?
“足りないものは何だったんだろう”とすごく考えたんですが、やっぱり決勝まで行ってそこで勝ち切れないということは、たまたま決勝まで(自分より強い選手と)当たらなかったから銀メダルだったけれど、組み合わせ次第では1回戦で負ける可能性もあったんだと。もう本当に自分のことを1か0だと思っていたんです。
それまでは、僕はグレコローマンスタイルの魅力でもある投げ技が得意なので、“投げ技を出してグレコローマンの魅力を俺が伝える!”みたいな気持ちでレスリングに取り組んで(東京)オリンピックに挑んだんですが、(東京オリンピック後は)その考え方をやめて、 魅力を伝えるとかじゃなく、徹底して勝ちにこだわるスタイルで戦おうと。
もちろん魅力を伝えたいという気持ちもあるんですが、まずは勝つことが何より大事。目的と手段を履き違えずにしっかり目的を持って、その目的を果たすために何が必要なのかということを考えて取り組むようになりました。
──パリでの決勝戦、金メダルがかかった戦いで(ポイント)先行しましたけれども、ポイント差は僅差でしたよね。 終盤、どんなことを考えながら試合をされていましたか?
終盤は東京オリンピックの決勝のことを思い出していました。
東京オリンピックの時のあの悔しさが自分の中に湧き上がってきて、後半の残り3分の時点で僕が勝っていたんですが、もう“魅力を伝える”とか、“ここからさらにポイントを重ねる”とか考えず、(観客が)見ていて面白くなくてもいいので、相手にポイントを許さずしっかり守り切って、最後に僕の手が上がっているように勝ち切ろうということだけを考えました。
──そして、試合終了した瞬間、金メダルが確定した瞬間のお気持ちは?
やっぱりほっとしたという気持ちが大きいです。
もっと喜んで涙を流したり叫んだり感情的になるのかなと思っていたんですが、その瞬間は本当にほっとしたというか、涙も出ず、正しい表現かわかりませんが、何か、自分の中での東京オリンピックが終わった気がして。
──ようやく区切りをつけることができた。
“(東京オリンピックの)銀メダルを自分のものにできた”というか。
パリオリンピックまでは、(東京オリンピックで銀メダルに終わったことは)やっぱり悔しい結果だし、メダルは見たくなかったし、できるだけ目のつかないところにしまっていたんですが、あの悔しさがあったから、あの銀メダルがあったから、パリでは「金メダルを獲れた」とやっと言えた。
僕の中では、今回の金メダルよりも東京の銀メダルの方が思い入れが強くて、悔しかったし、見たくなかった分すごく好きになったというか、すごく大切なメダルになりました。
──自分の思い出の1つですもんね。
そうですね。 僕の妻は、僕がずっと「悔しい」と言って(銀メダルを)しまい込んでいた期間もたまに出してこっそり磨いたりしていたそうです。妻もパリに行ったんですが、行く直前に、(メダルに)「もうすぐ愛してもらえるからね」と声をかけてパリに来たらしく…。
僕はそれを全然知らなくて、パリオリンピックが終わった後にその話を聞いたんですけれども、すごく反省したというか、妻はこの東京オリンピックのメダルにも価値をちゃんと見いだして大事にしていたのに、僕はないがしろにしていたので、ちょっと子供だったなと(笑)。
──その“悔しさをバネにする”というのは、アスリートとして当事者として必要なことだったんだと思います。そしてこの3年間でお子さんも生まれて、また守るものができて、それも大きかったんじゃないでしょうか?
大きかったです。(子供も)応援に来てくれるんですけれども、負けている姿を見せたくないので。
子供が生まれてからもいろんな大会に出場して、勝つことも負けることもあったんですが、実際に子供が応援に来てくれた大会ではまだ1回も負けていないんです。
パリオリンピックにも子供が応援に来てくれたので、やっぱり勝つ姿しか見せたくないし、(子供に)金メダルをかけたいと思いましたし、そういう、自分の中ではなく自分の外にモチベーションができたことは自分にとって大きな出来事でした。
──そして、日本勢がグレコローマンスタイルでオリンピックの金メダル獲得というのは1984年のロサンゼルス以来と。この「グレコローマン」というのは、「ギリシャローマ式」という意味なんですか?
そうです。「グレコ」がギリシャで「ローマン」がローマで、レスリングが始まった最初のスタイルというか、実はフリースタイルよりも歴史があって、昔はレスリングと言ったらグレコローマンでした。
──女子はグレコローマンがなくてフリースタイルしかないので、(レスリングといえばフリースタイルの)いわゆる高速タックルというイメージになっていますけれども、このグレコローマンは、下半身への攻撃ができない?
そうです。腰から下への攻撃が禁止されていて、(レスリングと聞いて)イメージするタックルだったり、足をかけて足払いみたいな形で攻撃をすることは一切禁止で、上半身だけで組み合って、投げたり相手を押し倒したりする競技です。
──1984年から金メダルを獲れていなかったということは、いわゆるスピードというよりは力勝負みたいなものになりがちということなんですか?
そうですね。フリースタイルよりもフィジカル面、体力、それこそ力、パワーという部分が顕著に出やすい競技ということもあるんですが、日本の場合、レスリングが入ってきたのがアメリカからで、アメリカはすごくフリースタイルが盛んで、逆にグレコローマンが全くないんです。
北アメリカではフリースタイル、ヨーロッパではグレコローマンが盛んなんですが、日本は(先に)フリースタイルがアメリカから入ってきたので、高校までグレコローマンの試合がなく、小さい頃からフリースタイルをやって大きくなっていくので、グレコローマンを始めるのはフリースタイルで勝てない選手や高校からレスリングを始める選手が多いというのが現状なんです。それでこれまで勝ち辛かったのかなと思います。
──今回のパリオリンピックの舞台で、文田健一郎選手らしさは出せましたか?
出せたと思います。
もちろん投げ技が出たということも嬉しいですが、東京からの3年間は、すごく自分とレスリングの向き合い方が変わった時期というか。
それまでは“投げなきゃいけない”とか“投げない”とか、すごく(投げ技に)こだわって振り切ってレスリングをしていたんですが、最終的に行き着いたのは、もっと自由に…投げたいと思えば投げればいいし、投げる必要がないと思えば守ってもいい。全部がグレコローマンの魅力だと気づいたんです。
なので、“投げなきゃいけない”とか“守らなきゃいけない”とか考えず、自分の思うように、今までやってきたレスリングを全部出すぐらいの気持ちでマットに上がれば自然と戦えるんだ、ということを意識して出場しましたが、1回戦から決勝まで自分が追い求めたレスリングができている内容だったので、普段はあまり自分の試合を振り返って良かったなとは思わないんですが、今回のパリオリンピックについては全試合、自分が納得できるいい試合だったなと思います。
──手応えがある試合が続いたからこその金メダルだったのかもしれませんね。この番組は毎回ゲストの方にCheer up songを伺って文田健一郎選手の心の支えになってる曲を教えてください。
Creepy Nutsさんの「のびしろ」です。
東京オリンピックの後にリリースされたんですけれども、本当に落ち込んでいて、この先どうなるのかわからないという時にこの曲が流れてきて、 “伸びしろしかない”というか、“自分にも伸びしろがたくさんあるのかもしれない”と思えましたし、(パリオリンピックまでの)3年間、そういう気持ちで臨んでいました。
パリオリンピックのテーマソングは各社いろいろあるんですけど、“フミタケ”はもう3年間ずっとこれで、今回のパリオリンピックもこれがテーマソングだったので(笑)、この曲を選びました。
この曲を初めてテレビで流すというタイミングでテレビを妻と2人で見ていたんですが、気づいたら2人でめっちゃ泣いていて(笑)。「やっぱりいい曲だね」なんてことを言いながら2人で泣いていたことをすごく覚えています。
──素晴らしい奥様に支えられていますね。
本当にそこはすごく実感しますし、金メダルの半分は妻のおかげだと思っています。
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