井原正巳さんは、1967年、滋賀県出身。
高校時代まではフォワードの経験を持ち、筑波大学進学後にディフェンダーにポジションを転向。
大学2年生の時から日本代表チームに招集され、国際Aマッチは122試合に出場。
2002年に現役引退後は、北京オリンピック日本代表チームのコーチや、福岡、柏で監督を歴任。
Jリーグ通算297試合5得点をあげていらっしゃいます。
──井原さんといえば、1993年にJリーグが華々しく始まりましたけれども、そのJリーグの顔と言っても過言ではない、代表する選手でしたよね。
いや、そうでもないとは思ってるんですけど、ちょうどタイミングが良い時にJリーグが開幕したので、関わることができて良かったです。
──そんなJリーグが開幕した翌年1994年アメリカで開催されるワールドカップ出場権を懸けたアジア最終予選、勝てばワールドカップ出場が決まるという試合で、2対1でリードしながらも、後半アディショナルタイムに同点ゴールを決められ、惜しくもワールドカップ出場を逃してしまった、いわゆる「ドーハの悲劇」の試合にも井原さん出場なさっていました。“もう少しでワールドカップに手が届く”というところからすり抜けていってしまった。その衝撃はやはり大きかったですか?
大きいといいますか、本気でワールドカップ目指していましたし、この最後のゲームも“(日本は)勝てばワールドカップ出場”という中で、相手はイラクだったんですが、イラクは勝敗関係なくワールドカップには行けなかったんです。だから我々も、試合に臨む前は勝ったも同然のような思いでいたけれども、それが逆に甘さに繋がってしまったのかもしれないです。
そういう状況の中でのアディショナルタイム。掲示板に表示されている時間はゼロにはなっていたので、そこをしのげばレフェリーが終了の笛を吹いてくれるんじゃないか、という時間でしたし、“早く終われよ”ぐらいの感じだったんですよね。そこでコーナーキックから失点をしてしまって同点に追いつかれたことで、(ワールドカップ出場を競っていた)韓国は試合に勝っていたので、(日本は)ワールドカップ出場はならなかったと。本当に天国から地獄に落とされた瞬間でした。
──あの決まったシュート、ゆっくりとゴールに吸い込まれるから余計にショックだったんじゃないですか?
本当に“外れてくれ!”と思ったんですが、“これは枠の中に入っているな”という感じは自分の中でも見えましたし、入れられた瞬間に、まだ同点なんですけど、“もうこれで駄目だ”と思ってしまったところはありました。
──そして1998年フランス大会。いよいよここで初出場したわけですけれども、その時はどんな想いでピッチに立たれましたか?
ピッチに立った時は、このためにいろんなものを犠牲にして努力してきたので、“これがワールドカップか!”という想いでピッチに立ちました。自分がキャプテンだったので、一番最初にピッチに足を踏み入れられたのは本当に感慨深かったですし、鳥肌が立ちました。でも、いざピッチに入ってみると、落ち着いたと言いますか…。
──試合は落ち着いてできましたか?
はい。普段の試合と変わらないなと。もちろんフランスのピッチではあったんですが、観客席は日本人サポーターがほぼ占めていて、本当にホームのような雰囲気で試合をさせてもらえたので、最初にボール触ったらそこから緊張はなくなり、“とにかく日本のためにやろう!”という想いで戦いました。
──日本人選手としてワールドカップのピッチに一番最初に足を踏み入れたのは井原さんなんですね。歴史になったわけですね。
そうなんですよね。でも、その当時にキャプテンをやらせていただいていたので、その恩恵を受けたのかなとは思っています。ワールドカップを目指して、その前に2回チャレンジしたけれど出場できなかったので、ようやくフランスの切符を掴んでピッチに立てたということは良かったなと思いますし、そのピッチに立つには最後(試合に出る)メンバーに入らなければならないので、その競争もありましたし、そういう中で出場できたのは本当に良かったなと思っています。
──井原さんはクールな印象がありますけれども、激しいプレーをするということで「アジアの壁」と呼ばれていたとか。
自分ではあまり意識したことはないですし、そういう“壁”と言われるようなタイプではないと思っていたんですが、誰かが言ったのかそういう流れになってしまって、ちょっと恥ずかしい部分もあります(笑)。小学生とかに「アジアの壁だ」みたいに言われるのは結構ムカってくるんですけど(笑)、でも、何かそういうキャッチフレーズがあってもいいかなと思っています(笑)。
──そうやって、いろんな人に浸透する、覚えてもらうというのは嬉しいことでもありますよね。
そうですね。やっぱりサッカー選手はフォワードにスター選手が多くて、そういう選手に負けないようにディフェンスにも日が当たらなければいけないと思いますし、そういうところを引っ張っていければと思いながら現役時代はやっていましたね。
──井原さんは元々フォワードだったのに、大学に入った時にディフェンダーに転向されたんですよね。
転向といいますか、いきなりコンバートされたみたいな感じではあるんですけれども。ユース代表の時に、ディフェンスのポジションが空いたタイミングがあって、「ちょっとディフェンスをやってみろ」ということでいきなりディフェンスをやらされて、「なかなかやるじゃないか!」みたいな感じでした。
──“俺はフォワードをやりたいんだけど”みたいな戸惑いはなかったんですか?
ちょうど代表選手に残れるか残れないかという選考合宿みたいなキャンプでそのポジションになったので、「(ポジションは)どこでもいいので残りたいです!やります!」みたいな感じでチャレンジしました。
──あれから27年が経ったわけですけれども、今回のワールドカップのアジア予選は世界最速で出場を決めて、まさに“日本強いな”という手応えがありますが、井原さんから見て日本代表はどうですか?
我々が最初にワールドカップに出た時から比べると雲泥の差といいますか、代表選手たちはほぼ全員、海外のトップリーグで活躍している選手ばかりですし、選手層も厚いなと思います。予選は勝って当たり前の中で戦いながら、まずは出場権を獲得し、(代表の)目標が「ワールドカップ優勝」に変わってきているので(笑)。もちろん高すぎる目標だと感じる部分もありますが、目標を高く設定しないと実際に到達することはできないと思いますし、我々の頃は出場することが目標だったわけで、それがベスト16まで行って、今度はそのベスト16の壁を破ろうというところで、今はベスト4、優勝に目標が変わってきているので、そこまで行ける力が付いてきているんじゃないかなと思います。
──井原さんがフランスワールドカップに初めて出て思ったことを日本代表の選手が脈々と受け継いできたからこその、今の日本代表の強さなのかなと思いますけれども。
そうですね。やはり海外への移籍がどんどん増えてきて、そこで活躍することが日本代表のレベルを上げることや勝つために必要なことでもあると思います。もちろん、JリーグはJリーグで、今まで通り、どのチームも日本のサッカーのレベルを上げるために底上げをしつつ、代表チームはそうやって強くなっていくことが大事だと思います。今はそこ(海外)で活躍する選手がほぼ全部のポジションで出てきているところが日本の強さだと思いますし、あとは、それをいかにまとめるかというところについては、森保監督(の采配)。
──逆に(良い)選手が多すぎて、“どの選手を使おうか”と頭を悩ませている状況なのかなとも思いますけれども。
森保監督とはドーハの時に(選手として)一緒に戦っていますが、森保監督が就任されてからこれだけの結果を残していますし、もちろん、カタールワールドカップの時は残念でしたけど、スペイン代表やドイツ代表を破っているわけです。そういう中で次の大会に一番乗りで出場を決めて、これは本当に期待が持てるなと思っています。
──今大会ではどの程度まで行けると思っていらっしゃいますか?
もちろんチームの目標は高いと思いますし、全員が「優勝」というところを口にしたりしているので、そこを目指してやっているとは思います。対戦相手やグループ分け、試合場所などの要素はありますが、力的には決勝トーナメントへは余裕で行けるんじゃないかとは思っています。ベスト8は必ず超えてくれるんじゃないかなと思いますね。
──この番組では、ゲストの方にCheer Up Songを伺っています。井原さんの心の支えになっている曲を教えてください。
爆風スランプの「大きな玉ねぎの下で~はるかなる想い」をお願いします。
──こちらを選ばれた理由というのは?
僕が90年に社会人になった時に、その年の新人賞をいただいたんですが、その当時は、“リーグ戦の表彰式の時に各チームで誰か1人出してカラオケを歌う”というのがあって(笑)。「お前は新人で新人賞を獲ったんだから歌え」と言われて…僕、音痴なんですよ。その時に、当時は爆風スランプさんの歌を聴いていたりしたので、その歌を選んだんです。めっちゃ恥ずかしかったです(笑)。
来週も井原正巳さんにお話を伺っていきます。お楽しみに!
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