NOEVIR Color of Life

EVERY SAT / 09:00-09:30

今、仕事も家庭も自分磨きにアクティブな生き様を実践する女性達。そんな女性達がいつまでも輝く心と勇気を失わず、体も心も健康な毎日を送るため、各界を代表して活躍する女性ゲストが自らの言葉でメッセージを送るのが、このノエビア カラーオブライフ。「生きること、輝くこと、そして人生を楽しむこと」をテーマにした、トークや音楽、話題、情報などが満載です。

TOKYO FM

NOEVIR Color of Life

EVERY SAT / 09:00-09:30

唐橋ユミ

今、仕事も家庭も自分らしく、いきいきと生きる女性たち。いつまでも輝く心を失わず、心も体も充実した毎日を送るため、各界を代表して活躍する女性ゲストが自らの言葉でメッセージを伝えます。“生きること、輝くこと、そして人生を楽しむこと”をテーマにした、トークと音楽が満載のプログラムです。

Guest田中美佐子さん

田中美佐子さん

島根県出身。短大在学中に劇団ひまわりに入団。1981年にドラマ『想い出づくり』でデビュー。翌年の映画『ダイアモンドは傷つかない』で主演を務めると、第6回日本アカデミー賞『新人俳優賞』を受賞。1995年に深沢邦之と結婚し、2002年に娘を出産。現在もドラマやバラエティ番組などに出演。ファンを増やし続けている。

女優・田中美佐子。還暦からのリスタート。

2020/09/12
田中美佐子の女優論。
その役作りとは?

「私、役作りやったことがないんです。結局その場に行って相手の人の声聞かないと、こういう芝居するんだって思ってから芝居をするので、自分の洋服を着たり衣装を着たりそのセットを見てこのぐらいのレベルの生活をしてるこういう人なんだなっていうのをまず知って、そっから行くので大体はもう何も考えずに台詞だけ頭に入れていくんです」

今、大切にしている言葉もドラマのセリフから。

「昔ドラマをやってる時に言った台詞であの【ちゃんと生きていく】っていうセリフがあったんですね。この台詞って結構多いんです。でも、すべてトータルして自分が何したいかって言うとやっぱちゃんと生きるしかないなって、ずっと考えていて。生きていく限り、やっぱきちんと生きていこうと。」

還暦というタイミングで、さらに1歩を踏み出した。
それは、それは大きな大きな挑戦だった。
事務所からの独立だ。

「令和元年に還暦だったんですね。令和元年に還暦になるってすごい記念すべきことなんじゃない?と思って、なんか一つやらかさなくっちゃと思ったんですよ。記念に残ることを。スカイダイビングとか何でも良かったんですけど、一番に出てきたのが独立だったんですよ。本当に一人でやるって事がどういう事かを60にもなって気づいてないってちょっと情けないなと思って、どういう仕組みでどうなってんのかっていうのも、もっと知りたいなと思う気持ちもあって独立しました」

その結果、田中の心境にも変化が表れた。

「還暦になってから女優業をやりたくなってきたんです。ちょっと女優業あんまり好きじゃなかったんですけど、待つからねあれ。もうさっきから同じことばっかり言っている。待ち時間が長い。でも、人がちょっと好きになってきたので、待ってる間も喋れるようになったし、楽しいから最近はもう本当に女優やりたくて、やりたくて」

今、新しいスタイルで仕事に取組み、
楽しくて楽しくて仕方がない。

田中美佐子の笑顔も
少女のように純粋なものだった。
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田中美佐子の人生観を変えた結婚と出産

2020/09/05
田中美佐子の結婚は世間を騒がすものだった。
付き人であった深沢邦之との
世にいう「格差婚」である。

「私より7つ年下で彼はまだ仕事もしてない状況でしたから、格差婚どころの話じゃなくて。
あの~、ほとんど私が面倒を見ていたっていう状況だったのかな?だからなんか100倍とか何倍とか10倍とか100倍とか収入が違うって言って二人で話したけど、いやいやそれ以上だよねって言う話をしていたんですよ。まぁ私が望んでたところはそのお金ではなかったんでしょうね」

衝撃の結婚から7年、
田中美佐子の人生観を変える出来事がさらに訪れた。

「愛おしい以外の何物でもなかったです。そのぐらい変わりました。1番はこの子。その瞬間からパパは3番か4番ぐらいになります。もう、子供生まれた瞬間からもパパのことどうだっていいぐらいに、こんなに人生で大切な物ってできるんだっていうぐらい変わりました」

自分の体調とも相談しながら
女優復帰を果たしたのは2005年のこと。

「ご恩返しとか感謝の気持ちも込めてやろうっていう気持ちはあったんですけど、もう忙しすぎて子育てが、体調も良くない具合も悪いしっていう中での復帰だったんですよ。お断りを一旦して、これじゃあ私失礼に当たるかもしれないからって言ったら、全部面倒見ますよと、言ってくださった人がいて、その人にも恩を感じてます」。

守るべきお子さんの存在。
支えてくれた深沢邦之。
かつての仕事仲間。

多くの人とつながりがあって
今の田中美佐子がある。
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女優へと導いてくれた芸能界の巨人

2020/08/29
女優・田中美佐子。

思い入れのある作品は?という問いかけに
浅野ゆう子と共演した「ママチャリ刑事」と即答した。

「『ハートに火をつけて』っていう唯一私が出させて頂いたトレンディドラマがあって、ゆう子さんが主役でね。”美佐子さんの芝居が好き”って言ってくれて、何回かドラマに呼んでくれたんです。なんかもっとずっと頑張ってれば、ちゃんともっと対等に芝居ができるようになれるんじゃないかっていうのがあった時に『ママチャリ刑事』でなんとなく、対等にお芝居が向かい合ってできるようになりました、自分も経験を積んでね」

数々の作品に出演し続けた90年代。
それは女優という道を芸能界の巨人が導いてくれたからであった。

「萩本欽一さんですね。実はマネージャーさんが同じで、お会いする機会があったんですけど、会った瞬間きんちゃんが”うん?どうしたのこの子?”みたいな感じだったんです。そしたら”あれだね。この子はね、あれだねあの~いいんじゃない?女優で”って。心の中で、勝手に人の人生、女優でいいんじゃないとか言わないでよと思ったんですよ。だから凄い悔しかったのは覚えています。そういう風に思われた瞬間に第一印象すごくダメだったんだっていうことにも気づいて、それからその1年間必ず挨拶するとき笑おうって決めたんですよ」

笑顔の毎日を繰り返した。
そうすることで仕事が舞い込んできた。
笑いの巨匠・萩本欣一が気づかせてくれたのであった。
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わずか2分 無言のオーディション

2020/08/22
島根から大都会東京へ。
短大に進学し英文科に通っていた田中美佐子。
寮生活を続ける中、同じ寮生にヒントをもらう。

テレビとかに出たいなら劇団に入れば?

「劇団ひまわりに入ったんですね、レッスンはしていたんですけど、元々島育ちで自分が人見知りだったっていうことを忘れていて、人前で何かするっていうことがものすごい恥ずかしいのに、みんな手上げて『やります!』とかっていうわけですよ。前にどんどん出て行く人たちの中、いつも後ろに取り残されてるような。ああいう人間になりたくないと常に思っていました」

その東京で運命的な出会いがあった
人生で初めて見た映画の監督 藤田敏八さんとの出会いである。

「渋谷で今パーティーやってて、藤田監督がいるから」「あっ、あの赤ちょうちんの監督?」

「パーティ会場で待っていたら、なんかものすごい酔っ払った人が来たんですよ。その人が私の前のソファに座ったんです。田中美佐子ですつってマネージャーさんが紹介してくださって、これが赤ちょうちん撮った人なんだなーって私はちょっと見てたんですけど。しばらく座って一服して『行くわ』みたいな感じで行っちゃったんですよ」

その1か月後。

「マネージャーさんから電話があって『敏八さんが敏八さんが お前を主役で使う』って言って、びっくりしたんですけど、狐につままれた状態のまま撮影に入って、撮影もそのまま結局ほんとに?ほんとに?って感じで終わりました」

初めての作品、
それが「ダイヤモンドは傷つかない」
田中は日本アカデミー賞新人俳優賞を受賞するのであった。
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女優・田中美佐子の礎を築いた天真爛漫な少女時代

2020/08/15
女優・田中美佐子。
島根県・隠岐諸島で生まれ育った田中、
自然を相手に考え、動き、そして成長した。

「映画館とかボウリングではなく自然が相手でした。鳥を捕まえたり、釣りもしてました。目の前の海だったのでもう裸同然で裸足で、バケツ一杯になって、釣りすぎ注意みたいな。今こっちにいるとその生活をしてたってことが信じられないです」

そんな環境の中、
テレビ、ラジオのエンタテイメントに興味は…

「不思議なんですけど物心ついた頃から、あのブラウン管の向こう側に私が行く人なんじゃないかって勝手に思えるようになっていたんです。さほどテレビ見たわけでもないし、行くんだろうなぐらいの感覚でぼんやりとした感じで」

全てが詰まった島での生活。
この島から出るということは
人生の全てが変わるくらい衝撃的な出来事だったという。

「中学三年生の時に父が急に転勤になったんです。松江に。それはそれも本当に切なかったですね。それで映画を見てみたい、私が出る場所に行ってみたいって思ったんです。そこで見たのが藤田敏八監督の赤ちょうちんだっだんです。刺激的でしたけど」

ただ、田中は島と比べて都会である松江であっても
ブラウン管の向こう側にいる人にはなれる場所ではないとは思っていた。
松江での高校生活を終えると…その道は待っていた。
東京へ。

「あの辺の人はほとんどが大阪に出るんですけど、私の場合はたまたま兄が東京の大学にいたので、兄がいる東京以外は駄目って言われたんですよ。これはもう絶対的に自分の中で導かれたなと思ったんです」
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