NOEVIR Color of Life

EVERY SAT / 09:00-09:30

今、仕事も家庭も自分磨きにアクティブな生き様を実践する女性達。そんな女性達がいつまでも輝く心と勇気を失わず、体も心も健康な毎日を送るため、各界を代表して活躍する女性ゲストが自らの言葉でメッセージを送るのが、このノエビア カラーオブライフ。「生きること、輝くこと、そして人生を楽しむこと」をテーマにした、トークや音楽、話題、情報などが満載です。

TOKYO FM

NOEVIR Color of Life

EVERY SAT / 09:00-09:30

唐橋ユミ

今、仕事も家庭も自分らしく、いきいきと生きる女性たち。いつまでも輝く心を失わず、心も体も充実した毎日を送るため、各界を代表して活躍する女性ゲストが自らの言葉でメッセージを伝えます。“生きること、輝くこと、そして人生を楽しむこと”をテーマにした、トークと音楽が満載のプログラムです。

Guest大橋純子さん

大橋純子さん

北海道夕張市生まれ、小学生の頃からポップスに興味を持ち、短期大学在学中には北海道大学軽音楽サークルでバンド活動をする傍らラジオで深夜放送のDJを務める。1974年6月デビュー、1977年『大橋純子と美乃家セントラルステイション』として「シンプル・ラブ」のヒットで日本人離れした歌唱力と音楽性が認められ、その存在を世に示し た。その後「たそがれマイ・ラブ」「シルエット・ロマンス」「愛は時を越えて」等、ソロシンガーとしての不動の地位を築いている。

”好き”が自分を動かす

2020/10/17
憧れの東京で最高の仲間と出会いバンド活動をスタート。
しかし、またしても理想と現実のギャップが待っていた。

「大橋純子と美乃家セントラルステーション。私は世の中の人に知ってもらいたいと思いましたけど、なかなかそうはいかず。企画モノでソロシンガーとしての私に、ドラマの主題歌と言うねオファーが来たんですね。後に大ヒットになる【たそがれマイ・ラブ】なんですけども。実はこれ歌いたくなくて今じゃないだろうって私は思ったんですね。私の中では歌謡曲色が強い曲に思えたんです。だからできれば今じゃない。今は大橋純子と美乃家セントラルステーションなんだというものがあったんです」

ドレスを着てたそがれマイ・ラブで歌番組に出る。
コンサートツアーではパンツルックで
大橋純子と美乃家セントラルステーションとしてステージを駆け回る。
二束の草鞋の結果は観客席に現れた。

「コンサートのお客さんの層が少しずつ変わってくるんです。これまでは、ギター少年とか音楽好きな若者とか比較的高ヤング層が多かった。男の子も結構多かった。それが徐々になんですけど、コンサートに子連れの奥様とか、女の人が増えてきたな、それも歳の頃はヤングミセスぐらいの30代とか40代とか、子供連れてる人もいるぞみたいなだんだん客層変わってきたの」

ライブでは、たそがれマイ・ラブを歌わず、
今度は会場に足を運んだ客とのギャップを感じ始める。

「この違和感にだんだに切なくなってきちゃって、仕事は続くしずっとツアーやりながらレコーディングしてと何年間かそういう生活してきたんですけれどもね。耐えられなくなってきてある時一回休業しよう。で、自分で決めるんです」

大橋純子が休養の場に選んだのはニューヨーク。
エネルギーで満ち溢れる街で充電すること2年弱。
日本への帰国のきっかけをつくってくれたのも音楽だった。

「コンサートいっぱい見ていた中で、スティング。ソロになってワールドツアーに出た、そのワールドツアーがニューヨークのラジオシティというホールでありまして、見て、ものすごい素敵なコンサートだったの。最後の方になるとね会場中がスティングの歌って簡単じゃないんですよ。あの歌を客さんがね、合唱してるんです。その中にいて私はすごい感動して、もこれは絶対私はあそこに立ちたい。私は歌手として立ちたい。立つべきは私。とかと思ったねこれほど強くね、歌手になりたい戻りたいと思ったときが無くて、これで私は帰ろうと思ったんです」

歌手デビュー46年。続けられて来た秘訣とは?

「歌うのが好きなのかな?実はここ2年ほどご音楽活動を休業してまして、復帰したとき、歌えてよかった。それと歌うことがこんなに楽しい、愛おしい。ずっと歌っていたいって思ったんです。この気持ちだったんだなーって思います。続けてこれたのは」
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妥協しなかった理想の形

2020/10/10
生まれ育った北海道から東京へ。
そして、プロデビュー。
音楽人生の分岐点となった東京での生活とは?

「音楽の仕事を東京へ行ってから探したり、あたったりしておりました。たまたま人から紹介されて、ほんの2ヶ月、、、1ヶ月ぐらいかな?ちょっと歌ったりしてバイトをしてました。その間にたまたま、私はの運命の出会いと言いますか、今のパートナー、佐藤健と出会うことになり、そこでヤマハ音楽振興会というところでアルバイトも紹介して貰って、夜歌う仕事から音楽関係の昼間のアルバイトに変わりまして、そこから健全なる音楽生活に入るわけです」

大橋純子が引き寄せた強烈な縁。
それは、今後の人生を左右する人々との出会いであった。

「所属したのが LM 制作室って言う、今で言うヤマハの音楽祭、それの前身みたいなライトミュージックコンクールというのが最初あって、それの譜面の整理とか、全国から送られてくる曲のカセットテープとかを全部集計、選曲して譜面を作り直して、録音し直し、デモテープまた作り直す部署だったんですね。後に、大編曲家の先生になる萩田光雄さんとか船山基紀さんとか、その方々が、まだ学生時代にいらして、非常に音楽環境が良い中で、過ごさせていただきました。ここですごい音楽のエッセンスをいただきましたね」

その恵まれた環境は音楽センスを磨き、
さらに実戦の場でもあった。

「振興会には色んなミュージシャンも出入りしてましたし、一般の人も出入りしてましたけど、その中でミュージシャンを募るのも簡単だったんで、仲間集めてそれでそこでスーパーマーケットっていう7人編成のバンドを作って、色々やってるうちに渋谷のライブハウスに出ようとなる。そっからトントンと話が進んで、日本ホログラムという会社で私はデモテープを作ることになり、デビューに至るんです。あっという間の出来事で、半年、7、8か月の出来事でした」

音楽仲間にも恵まれ、いよいよプロデビュー。
そのスタートは100%満足の行くものではなかった。
    
「当時は音楽業界はほとんどアイドルだらけ、みんな譜面を持って歌番組出ていく。歌の仕事で出て行く。なんか自分が思ったのとちょっと違うぞ、だんだんなんかこれは違うやっぱり私は自分のバンドで馴染んだこの音で、ここで歌いたいっていう風になってきて、一旦辞めさせてもらったんです」

思い悩む大橋純子の前に現れたのは「北島音楽事務所」の関係者。
そこで念願のバンドを作り2年目にして
自分の理想的としていた形にできたのであった。
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人との出会いが「音楽を連れてくる」

2020/10/03
北海道夕張市で生まれ育った大橋純子。
人生初のステージは夕張炭鉱が最盛期の頃だった

「幼稚園のステージで町内会の敬老会ってのがありまして、私が小学校四年ぐらいのだと思います。花笠音頭と王将を歌いました」

歌ということに関して多大なる影響を与えたのは3人の兄だという。

「三人三様で一番上の兄はラジオを弄ったりするのが好きだったんで FENを聴いていました。だから洋楽物を覚えましたね。2番目の兄はなぜかインストルメンタルのが好きでした。3番目すぐ上の兄はモータウン系でシュープリームスとかプラターズとかを聞いてたんで。そういうのを私は襖越しに盗み聴いていました」

自分が初めて見つけたジャンルスはボサノバ。
高校生活3年間はボサノバ一色だったという。
色々なジャンルに触れてきた大橋純子。
大学時代に出会ったのは「ロック」であった。

「東京の大学行きたかったですでもさすがに親はそこまで出してくれない。唯一家の近所に母の実家があったんですが、母の弟のお嫁さん、血はつながってないけど私のおばさんです私に応援してくれてたのみんながいないところでね、そんなに大学行きたいんだったら聞きなさいおばさんは、もし受験料ないんだったら出してあげるから進学とにかく受験しなさいでも応援してくれたんです」

家族一同の反対を押し切り札幌へと出た大橋純子。
北海道大学の軽音楽クラブに加入した。

「そこに行って歌うのが楽しくてもう本当に週に何回も通っておりました。軽音楽クラブで渡されたアルバムがジャニスジョプリン。見たことも聞いたこと。いきなりハードロックの洗礼を受けそっからのほぼ一年弱ですかねクラブ活動時代ロックにはまっておりました」

大学時代にはラジオDJにもチャレンジ。

「自分の好きな音楽かけていいよって言われたんでロックをかけました」

のちに北海道初のロック番組と呼ばれたのであった。
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