NOEVIR Color of Life

EVERY SAT / 09:00-09:30

今、仕事も家庭も自分磨きにアクティブな生き様を実践する女性達。そんな女性達がいつまでも輝く心と勇気を失わず、体も心も健康な毎日を送るため、各界を代表して活躍する女性ゲストが自らの言葉でメッセージを送るのが、このノエビア カラーオブライフ。「生きること、輝くこと、そして人生を楽しむこと」をテーマにした、トークや音楽、話題、情報などが満載です。

TOKYO FM

NOEVIR Color of Life

EVERY SAT / 09:00-09:30

唐橋ユミ

今、仕事も家庭も自分らしく、いきいきと生きる女性たち。いつまでも輝く心を失わず、心も体も充実した毎日を送るため、各界を代表して活躍する女性ゲストが自らの言葉でメッセージを伝えます。“生きること、輝くこと、そして人生を楽しむこと”をテーマにした、トークと音楽が満載のプログラムです。

GuestEPOさん

EPOさん

東京都出身。
1980年に山下達郎の「DOWN TOWN」のカバーでデビュー。「オレたちひょうきん族」のエンディングテーマで一躍有名になり、数多くのCMソングやシンガーに楽曲を提供するなど作曲家としても活躍。
1988年にロンドンに渡り、ヴァージンUKと契約して海外で活動。
帰国後は等身大の音楽表現を続け、セラピストとしての資格も取得。
2025年で45周年を迎え、最新アルバム「EPOFUL」をリリース

音楽と自然に囲まれた豊かな暮らし

2025/10/25
今月1ヶ月に渡ってお話を伺ってきたシンガーソングライターのEPOさん。
今日は、EPOさんのライフストーリー、最終回!

◆ミュージカルで出会い、その日から家族に
現在、沖縄で自然に囲まれた豊かな生活を送られているEPOさん。
ご主人とはミュージカル「星の王子さま」で出会われたそう。

「同級生っぽい感じの人も一緒だったんですけど、おもしろかったですね。舞台の構成自体が、夫と私はそんなに変わらないシーンばかりで。でもオフステージでお話することが結構あって、家も近かったのでよく一緒に帰ったりして、いろんな話をするようになって仲良くなりました」

そして初デートはEPOさんからお誘いしたのだとか。

「実はその時、恋愛対象っていう感じではないなと思ってたんですけど、話が面白いし一緒にいてすごく楽しかったんです。その夏は2003年の夏で、本当にお天気が悪くて寒い夏だったので、千秋楽の翌日くらいから夏が戻ってくるっていう日で。私も海が大好きだから、この舞台が終わったら毎日海に行こうと思ってたんです。旦那さんは鎌倉に住んでたから『明日どうするの?晴れるってよ。葉山の海きれいだから遊びにおいでよ』って誘ったんです」

そして一緒に泳いだりご飯を食べたりして、想像もしていなかった展開に。

「その日から一緒にいるんです。もうその日から家族みたいになっちゃった。こんなことってあるんですね」

「なんか、亡くなった私のお父さんがOKした気がしたんです。それが大きかったですね。だって、会ったら絶対仲良くなるだろうなと思ったんです。」

◆沖縄への移住のきっかけ
現在、沖縄に移住されているEPOさん。そのきっかけは、沖縄でFM番組を担当することになったことから始まります

「それをきっかけに知り合いがたくさん増えてきて、番組で向こうに行ったら必ずご飯を食べたり、仲間が増えて・・・
そして、東日本大震災が起きて・・・
あの時、神奈川県で住んでいるところは海の真ん前だったんです。これ危ないかもしれないって話になった時に、友達が部屋を貸してくれて、それで1ヶ月疎開してそこで暮らすっていうことが始まりでした」

そこからEPOさんとご主人は1年かけて移住を決めたそう。

◆自然農法で野菜作り
沖縄では野菜作りもされているというEPOさん

「たまたま借りたおうちに庭と畑がついていて、そこで始めたんです。楽しくて。農薬を使わない、肥料を使わない農法で、最近本当に多くの方が興味を持ち始められているんですけど、菌を使った作り方があって、それで野菜を作るっていうやり方にチャレンジしているんです」
本当に美味しくて、強い野菜ができるのだとか。ブロッコリーやキャベツは、1回収穫したらそのまま土に置いておくとまた脇芽から出てくる、と楽しそうにお話されていました。

「ずっと肥料を入れなくても、最初にちょっとした手入れがあるんですけれども、その菌がとても強い土を作ってくれるんです。菌の力、計り知れない感じです」

また、自然豊かな環境で、様々な生き物との出会いもあるそうで、虫、鳥、様々な自然の音に囲まれているのだとか。
「本当に楽しいことしかしてなくて。だから昔のようなプレッシャーもないし、日記を書くように曲を書き続けて、採れた野菜で美味しいご飯をおうちで作って、夜は楽しく食べる。」

◆好きな言葉は、「全部うまくいった」
そんなEPOさんの好きな言葉は・・・「全部うまくいった」
「最初に言っちゃうんです。過去形にする。何かやろうっていう時に、いろんな障害みたいのが起きたりすることがあるでしょう?障害と感じるような出来事が起きるんです。でもそれはゴールにたどり着くまでに仕組まれていることというふうに思うようにしていて、その障害とも付き合うようにしてて。そうすると、ああこのためにあったんだってことが後で振り返って思うことがあるんです」

◆デビュー45周年、新たな活動へ
デビュー45周年を迎え、「EPOFUL」という記念アルバムもリリースされたEPOさん、45周年のライブを経て、EPOさんが一番感じたのは、
「待っていてくれている人たちがこんなにいたんだっていうことに、まず自分がとても安心したことと、自分の知らないところでいろんな人たちの人生のサントラになってたんだっていうことに気づかされたんです。私、自分のこと精一杯で、自分が大変大変って言ってたけど、でもファンの人たちからのSNSの投稿とか読んだときに、ちょっと感動して泣いちゃいました。みんながこんなに大事に聞いてくれたんだなって思ったら、そういう期待にももう自分が答えられると思って。20代の頃に大変だった自分も、こないだのライブですごく成長したし、元気になったんです」

そして、音楽活動としては、冬に立ち上がった新しいプロジェクトがあるそう。

「昭和の歌謡曲が大好きで、昭和のポップスも。私とボーカリストの濱田美和子さんと大滝裕子さん、ボーカリスト3人で『笑わプレシャス』というショーを作る予定があって。12月20日、21日の2日間、四国の松山でライブが予定されています。思い出深いその昭和の歌をそれぞれがカバーするんです」

さらに、来年、2月14日には、ビルボードライブ東京で、バレンタインデーのためのライブも予定されているとのこと。清水信之さん、佐橋佳幸さんも参加される、シティポップファンには嬉しいライブになりそうです。
ぜひチェックを!!
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ロンドンで見つけた新たな音楽の世界

2025/10/18
デビュー45周年を迎えたEPOさんのライフストーリー、
先週お話しいただいた、アメリカでのレコーディングのお話や、カーペンターズの楽曲を数多く手がけたロジャー・ニコルズの自宅を訪れたという奇跡的な出会いに続き、今週はEPOさんのキャリアにおける更なる転機についてお話を伺いました。

◆デビュー後の多忙な日々と、心の空白
デビューアルバムからヒットに恵まれたEPOさん。その後は半年に一枚のペースでアルバムを制作するという多忙な生活が続いたと言います。

「お友達にも会えないし、旅行にも行けない。スケジュールがびっしり入っているので、リラックスする時間もなかなか取れなかったんです。自分が何かものを作るために吸収したいと思うようなところにも行けなくて、すごく空っぽになっちゃった時期が多かったんですよ」

そんな中から引き出して想像して作っていくという、とても大変な時期だったとEPOさんは振り返ります。心の栄養も取れず、やがて体調を崩すようになったのだとか。

「心と体は繋がっているので、あまり幸せじゃなかったんです。プロにならなかったら毎日楽しかった、日記を書くように作った曲というのがあったのに、会議でそういうものを出すと『ちょっと商業的に弱いね』という話になってボツになっていく。その連続で、じゃあどうやって曲を作ったらいいのか、何のためにやってるのかよくわからなくなっちゃった」

曲を作るというアウトプットばかりで、インプットができない状況。その苦しみは24、5歳でレコード会社が変わった後も続いたと言います。

◆ロンドンでの出会いと、音楽的自由の獲得
25歳以降、制作チームとのせめぎ合いが続く中、EPOさんにロンドンでレコーディングする機会が訪れます。

「向こうに行った時に、ものすごく刺激を受けたんです。イギリスのアーティストたちが自己表現を楽しんでいる制作状況や、ヒットチャートを見ていると、ワン・ツー・プラスチックスのような人たちが入っていたり、面白いチャートだったんですよ。こういう世界で仕事したいって思い始めました。売れることばっかりじゃなくて、本当に音楽的なものを、歌手として幸福だと思える作品を作って歌いたいって」

そして28歳の時、EPOさんは日本の事務所をすべて辞め、ロンドンに移住することを決意。
きっかけは、ロンドンでのレコーディング中に出会ったプロデューサーたちの言葉でした。

「プロデューサーたちに言われたことは、『僕らが君の声を聞いてイメージする世界はポップスではない』ということだったんです。『もうちょっと人の心に寄り添うリラックスできるものだったり、そういうアプローチがすごく向いてるんじゃないか』と。そして『日本でやっていたような音楽ではない』と言われたんです」

それは、まさにEPOさん自身がもっと音楽的な世界を作っていきたい、歌手として幸福感があるものをやりたいと思っていた時期でした。スティーブという名の2人組のプロデューサーと制作したアルバムは、すでにその新しい方向性の匂いが出ていたと言います。

「外に答えを求めるんじゃなくて、自分の内側に答えを求めていいんだって、それが一致したんでしょうね。そばにいる人から言われたい言葉でした」

楽しくなった曲作りは、まさに日記に戻ったよう。子供の頃からやっていた、生活のいろんな断片の中にある自分の新鮮な覚書を、そのまま音楽に表現できるということを許されたのだとEPOさんは語ります。

「気分としては、もう子供の頃の自由に音楽を作っていた時の私に戻った感じでしたね」

◆ショーロクラブとの運命的な出会い
ロンドンで自由な音楽制作を楽しんでいたEPOさんですが、中東戦争が始まり、向こうに戻れなくなった時期があったと言います。そのまま日本のレーベルに移籍し、活動を再開。そこで訪れたのが、第4の分岐点となるショーロクラブとの出会いでした。

ある日、ブラジル人アーティストのライブを見に行ったEPOさん。そのバッキングメンバーがショーロクラブのメンバー、笹子重治さんと秋岡欧さんだったそう。

「素晴らしい演奏だったんですよ。奏者たちがのびのびと自分の故郷の歌を歌いあげて、『こういう人たちと音楽やりたい』って思いました」

そのうちに、またも引き寄せられるように、一緒にライブをすることに!
初めてショーロクラブのサウンドを聞いた時、EPOさんは確信したと言います。

「私これから歌っていきたいのって、こういう演奏とその中に入っていく歌だって、体の底から思いました。もうすぐこの人たちとレコーディングしたいと思った」

新しいセンスを得たEPOさんは、ボーカリストとして大きく成長したと語ります。

「彼らと活動したことは、私のボーカリストとしての成長をものすごく助けてもらえた。感謝感謝ですね」

その後、ショーロクラブのメンバーと中南米ツアーに出かけたEPOさん。その経験は、音楽に対する考え方に大きな影響を与えたと言います。

「とても印象に残っているのは、どの会場にいてもみんな歌うということ。私のこと知らないでしょう?でもリピートできるフレーズは、会場中が一緒にスキャットで歌ったりするんです。それに感動して泣きそうになりました」

街角を歩いていても音楽が聞こえ、カフェでお茶を飲んでいると楽器を持った人たちが入ってきて演奏を始める。本当に生活と共に音楽があるという環境に、どの国も満ちていたのだとか。

「日本に帰ってもこんなふうに音楽やりたいなと思いました。生活の中から湧いてくる音楽を」

◆心理学との出会いと、さらなる変化
30代後半、EPOさんは心理学と出会います。きっかけはヒプノセラピー(催眠療法)を受けたこと。解放できなかった感情が出てきて、本当の自分の感情をリリースできたと言います。

「すごく楽になっちゃって、『自分ってこんな思い込みで作ってきちゃったんだ』と思ったんです。もうちょっと深く自分と向き合う時間を作って勉強したいなと思って、セラピストとして開業の資格を取りました。そこからは自分のプロセスプラス、同じような悩みを持っている方たちの話を聞くという仕事に変わっていったんですね」

この経験は、制作活動にも大きな影響を与えたとEPOさんは語ります。

「カーペンターズのカレンが好きで、彼女は英語で歌っているのになんで気持ちがわかるんだろうって、子供の頃からずっと思っていたんです。英語はわからないんだけど、あの人が伝えてくれることが全部わかるし、心も体もすごい反応していた。私たちが持っている感情と歌をどういうふうにつなげていくのか、歌をどういうふうに歌うとこの歌詞や言葉や大事なことがお客さんに伝わるのかということを考えるようになりました」

デビュー45周年のアニバーサリーを飾るニューアルバム『EPOFUL』にもこんなEPOさんの音楽の変化が見られます!
ぜひチェックを!

来週も引き続き、EPOさんのライフストーリー、伺います。
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山下達郎さんとの出会い、そしてデビューへ

2025/10/11
今週もシンガーソングライター・EPOさんのライフストーリーをお届けしました。

◆人生の第二の分岐点となった山下達郎さんとの出会い
デビュー直前の19歳。アルバムの完成が間近に迫った頃、レコード会社での会議で「シングル向きの曲がない」という課題に直面していたEPOさん。

「人に聴かせるために作ってなかったんですよ。だから当然ヒット曲とかシングル向きの曲とかそういうものを意識してなかった。どうやったら書けるのかよくわからなかった」と当時を振り返ります。

会議室の廊下で途方に暮れていた時、目の前を山下達郎さんが通りかかったのだとか・・・

「心のどこかで誰かが『今だ』って言ったんですよ。『今だ、達郎さんに声をかけよう』って」

勇気を振り絞って声をかけたEPOさん。「私は中学の時からシュガーベイブの『ダウンタウン』が大好きで達郎さんの大ファンです。是非『ダウンタウン』を私にカバーさせてください」と直訴。驚かれたものの、山下さんは快く承諾してくださったそうです。

「本当にミラクルでしょう。そんな人に会えるって、そんな想像もしてなかったんですよ。待ってたら達郎さん通り過ぎちゃうもんね。でもやっぱり『今だ』っていう心の声が聞こえたから」

◆『ダウンタウン』のカバーで掴んだチャンス
憧れの存在だった山下達郎さんとシュガーベイブ。そのカバーがデビューアルバムに収録されたことで、注目を集めることとなったEPOさん。
デビューアルバムに収録されたその他の曲は、高校時代に日記のように書いていた楽曲ばかり。「恋愛もしてないのに恋愛の歌も作りましたけど」と当時を振り返ります。

『ダウンタウン』は後に人気バラエティ番組のエンディングテーマに起用され、そこでEPOさんの名前を知った方も多かったといいます。

◆アイドルだった?自分の立ち位置がわからなかった時代

デビュー後の反響に、かなり戸惑いもあったというEPOさん。

「友達が『EPO、こんなの見つけたよ』って、デビュー当時の写真を送ってくれるんですけど、そこには河合奈保子さんとか当時の同じ歳にデビューしたアイドルの人たちがいっぱいいて、青春雑誌の表紙になったことがあって。そこに私も一緒に写っていて」

バスケットボールのユニフォームのような衣装を着て、7、8人で撮影した表紙。さらには「オールスター大運動会」にも2年ほど出演。体育大学出身だったEPOさんはリレーでアンカーを務め、「EPO早い!EPO早い!抜いております!」と実況されていたそう。

「自分の立ち位置がよくわからない時期っていうのもありましたね、正直言うと」

◆プロになることの厳しさとCM音楽からの学び

デビューから半年で2枚目のアルバムをリリース。

「プロになるっていうのはこんなに大変なことなんだと思いました。それまでは自分の日記をつけていれば良かったけど、今度は人に聴いてもらうためにいかにキャッチで楽しいポップを作るかっていうことを、その時からゆっくり勉強し始めた感じでした」

そんな中、EPOさんにとって大きな学びとなったのがCMソングの仕事でした。

「実は私はどんな音楽に影響を受けていたかっていうと、アメリカンポップスもそうだけど、日本の大作曲家の人たちのCM音楽が大好きで。15秒の中でどこが一番キャッチーで商品を紹介できるかっていうところにすごく印象的なメロディーが来るっていうあのやり方は、子供の頃に聞いたそのCM音楽で勉強した気がする」

一方で、「売れなきゃいけない」というプレッシャーを感じると、どう書いたらいいかわからなくなることも。

「テーマを与えられて『この商品を売るために』っていうことであれば振ってできちゃう。自分のためにはできないんですよ」

◆アメリカでのレコーディングと刺激的な体験

2枚目のアルバムはニューヨークとロサンゼルスでレコーディング。教会の中がスタジオになっている場所で、ハロルド・ウィラーというアレンジャーのもと、オーケストラのダビングを経験しました。

「もう素晴らしい音で、皆さんキレもすごくいいし。日本でももちろん生の体験をしてましたけれど、そのリズムの良さと音の良さはもう感動しました」

興味深いのは、竹内まりやさんと同じタイミングでアメリカに行き、ロジャー・ニコルズさんの家を訪問した時のエピソード。まりやさんに曲を書いてもらう際に同行したEPOさんは、ロジャーから印象的な言葉を聞きました。

「『君もこんなにアルバムがヒットしたら、庭付きでプール付きのおうちは何軒か買えたのかな』って。アメリカはやっぱり桁が大きいので、ヒットするだけでそんな風になるんだって思いました」

しかし、そうしたアメリカでの経験も、「ヒット曲というのはどうやって作ったらいいのか」という迷いを解消するものではなかったといいます。

来週は、その後のEPOさんの活動について伺います。
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洋楽との出会い、学生時代の音楽活動

2025/10/04
今月はシンガーソングライター EPOさんのライフストーリーをお届けします。

スタジオに現れたEPOさんは、日焼けした肌に白いTシャツが映える姿が印象的。沖縄に住むepoさんは、毎朝海で泳ぐことを日課にしているそう。

「海って私、薬って呼んでるんです。海はすごく元気になるんですよ。疲れが取れるし、すっきりして午後からお仕事っていう日々ですね」

朝から午前中いっぱい海で泳ぎ、お昼過ぎから仕事という生活。意外なことに、沖縄の友達で一緒に海で泳いでくれた人はほとんどいないのだとか。

◆45周年で訪れた心の統合

今年で活動45周年を迎えたepoさん。東京と大阪で開催されたコンサートは、発売とともに完売となりました。

「のんびり活動してたので、チケットがちゃんと売れるかどうかも心配してたんです。でも、みんなに覚えてもらえたことがまずとっても嬉しかった」

実は、ポップスをやっていることが苦しい時期もあったというepoさん。自分の好きな方向性の音楽を作り続けているうちに、どんどん充実してきたと言います。

「45周年で統合されたんですよね。目の前にすごくたくさんの方たちがいらしたので、本当に感謝の気持ちがあふれてきて。あの時はごめんって、本当に謝ったんですよ」

◆音楽との出会い〜シュガーベイブの衝撃

epoさんが音楽と出会ったのは10歳頃。海外のラジオ放送局から流れるアメリカントップフォーティーを聴き、カーペンターズやビートルズなどを好きになりました。

そして、人生の分岐点となったのがシュガーベイブとの出会い。

「中学の時、バレーボールの練習が終わって帰ってきた土曜日に、東京FMで森田健作さんの番組でシュガーベイブが流れたんです。その1か月はずっとこの曲を応援しますって、間に合うように家に帰ってくるっていう、そんなことやってました」

フォークブームの一方で、山下達郎さん率いるシュガーベイブ、ユーミンさん、大貫妙子さんといったアーティストが出てきた時代の空気感が、epoさんの音楽性に大きな影響を与えました。

◆すごい高校時代〜清水信之、佐橋佳幸との出会い

音楽を本格的に始めたのは高校時代。先輩たちとバンドを組んで文化祭に出ていましたが、この高校が驚くべきメンバーを輩出していました。

2学年上には、今や音楽のパートナーとなった清水信之さん。後輩には佐橋佳幸さん、さらにその下には渡辺美里さんもいたといいます。

「軽音楽部が禁止されてたんですよ。だから音楽のクラブはなかったけど、みんな音楽大好きで、それぞれにバンドを組んで学祭だけ盛り上がるっていう感じでしたね」

その頃から作詞作曲をしていたepoさん。「日記を書くように曲を書いていた」と振り返ります。プレッシャーなく、自分の日常の中の覚書のような感じで曲を作っていたそうです。

◆体育教師になるはずだった

高校生の時、コンテストで代表に選ばれたepoさん。しかし当時はメインで歌を歌っておらず、曲を作るのとピアノ担当とコーラスだったといいます。

「私はその時に体育の先生になるはずだったんですよ。すごく運動ができるので、先生が推薦してくださって、ゆくゆくは東京女子体育大学っていうところに入るんです」

将来のことを考えると、親も含めて「音楽なんかやってる場合じゃない、ちゃんと大学に行って先生になりなさい」という状況だったそう。しかしコンテストに出たことがきっかけで、たくさんの方から声をかけられることに。

ある日、アルバイトでCMの仕事をいただいた時、曲を作ってくださったのが大滝詠一さん、バッキングのコーラスが元シャネルズという豪華な顔ぶれ。「最初からすごいでしょう」とepoさんは笑います。

「この頃、教訓にしてるんですけど、決めててもちょっと別の流れがやってくるときがあって、それが分岐点ってことなのかもしれないけど、どっちが面白そうかなっていうことを自分がすごく知ってるでしょ。楽しそうな方に曲がるんですよ。それが私の場合、音楽だった」

親は泣いたそうですが、自分の心の声に従った決断でした。学生時代は、朝8時半から授業を受け、昼間は先生になるための勉強。夜は音楽のアルバイトという二足のわらじ生活だったと振り返ります。

◆ニューアルバム「EPOFUL」リリース

活動45周年を記念して、セルフカバー曲も含めたニューアルバム「EPOFUL」が10月1日にリリース。写真家レスリー・キーが撮影を担当し、アートワークも手がけた色鮮やかな作品となっています。

レスリー・キーは実はepoさんのファンだったそうで、14歳の頃に日本の企業で働いていた時、職場で流れていたepoさんのカセットで日本語を覚えたというエピソードも。

色とりどりの衣装に身を包んだ、さまざまな表情のepoさんが収められたアルバム。その中には「泣いてなんかいない」という、ちょっと強がりな女の子の歌も収録されています。

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来週は、epoさんのプロデビューについて伺います。
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