NOEVIR Color of Life

EVERY SAT / 09:00-09:30

今、仕事も家庭も自分磨きにアクティブな生き様を実践する女性達。そんな女性達がいつまでも輝く心と勇気を失わず、体も心も健康な毎日を送るため、各界を代表して活躍する女性ゲストが自らの言葉でメッセージを送るのが、このノエビア カラーオブライフ。「生きること、輝くこと、そして人生を楽しむこと」をテーマにした、トークや音楽、話題、情報などが満載です。

TOKYO FM

NOEVIR Color of Life

EVERY SAT / 09:00-09:30

唐橋ユミ

今、仕事も家庭も自分らしく、いきいきと生きる女性たち。いつまでも輝く心を失わず、心も体も充実した毎日を送るため、各界を代表して活躍する女性ゲストが自らの言葉でメッセージを伝えます。“生きること、輝くこと、そして人生を楽しむこと”をテーマにした、トークと音楽が満載のプログラムです。

Guest仲道郁代さん

仲道郁代さん

第51 回日本音楽コンクール第1位、ジュネーヴ国際音楽コンクール最高位、エリザベート王妃国際音楽コンクール入賞。ピッツバーグ響、バイエルン放送響、フィルハーモニア管、ドイツ・カンマーフィル等、海外のオーケストラと共演多数。CD はレコード・アカデミー賞受賞CDを含む「仲道郁代ベートーヴェン集成~ピアノ・ソナタ&協奏曲全集」「ドビュッシーの見たもの」他。著書に『ピアニストはおもしろい』(春秋社)他。
ベートーヴェン没後200周年の2027年に向けて「仲道郁代 The Road to2027リサイタル・シリーズ」を展開中。
一般社団法人音楽がヒラク未来代表理事、一般財団法人地域創造理事、桐朋学園大学教授、大阪音楽大学特任教授。令和3年度文化庁長官表彰、ならびに文化庁芸術祭「大賞」を受賞。

そのひと時を大切に

2023/05/27
仲道郁代は2017年にデビュー30周年を迎えた。
この年に10年先を見越したプロジェクト発足する。

「30年、奏活動を続けさせていただいて。ふとね、これからの私はね。一体どういうふうに何に向かって進んでいくんだって考えたんですね。ピアニスト仲道郁代は一体何なのかということをこれからの10年で見つけたいと思ってって考えたのが仲道郁代the road to2027というリサイタルのシリーズなんです」

春のシリーズ、秋のシリーズと2つシリーズがあり、
全部で20回のコンサートが組まれている。
2027年は演奏活動40周年でもあり、ベートーヴェン没後200年にもなるという。

「ずっと研究して続けてきたそのベートーヴェンを核としたシリーズ。ベートーヴェンの音楽の哲学的な意味をポストプレイベートーヴェンの作曲家の作品を取り入れながら演奏してくシリーズと秋はピアノの魅力とかピアニズムの魅力を開拓していくシリーズ、2本柱となっています」

ベートーヴェンに関してはベートーヴェン研究でも知られた
作曲家の諸井誠と徹底的に解釈に取り組んだ。

「もう亡くなられて長くなられたのですが、楽譜ってありますでしょ。楽譜って音符という記号で描かれているじゃないですか?それを音にするんですけど、どう読むのか?その記号を。ということの読み方を徹底的に教えていただきましたね。ド・ソって書いてあったらド・ソは単なるド・ソという音じゃなくて、ド・ソに意味があるのね。哲学のようになんとか何である。なんとかであるからして、ゆえになんとかである。みたいな形で構成されているので。だから、説得力があるの。音楽ってただただ、音が連なってるんじゃなくて、私たちの無意識の中にねちゃんとこう影響を与えるように技があるんですよ。作曲の作品の中には。
でその技をどうやって読み解くのかということをそのベートーヴェンを使って徹底的に学びました」

仲道郁代は人生を振り返りこう語る。

「私ね、今年還暦という年になったんですね。なんか、還暦っていうと感慨深いんですけれども。こんなにね色んな機会をいただいて幸せだったなと思うと同時にやっぱりその機会の中でね、本当に至らない自分がいたなとか、本当に恥ずかしかったなと思うこともいっぱいあるんですけれども、そんなことも全部踏まえてね。あの、これからね人生のひと時、ひと時、その時、その時を大切にあの過ごしていきたいなと今思っています」

仲道郁代からリスナーへのエール。

「男性とか女性とね、なかなかあのどう分けるのかとか色々ありますけれども、 やっぱり生活の中でこんな風にしたらもっと素敵じゃないかなとか思えることがあった時にね。細やかにそれを実現していきたいなと思えたら素敵だなと思います。それにはやっぱり、だんだんエネルギーもねいりますけど、なんかちいさなことから楽しめるということが、私は大切にしたいなと思っています」
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娘のために

2023/05/20
仲道郁代さん1987年にプロデビュー。
20代は全力で駆け抜けた。

「もう必死でした。レパートリーも増やしていかなければならないし、あのいろんな演奏の機会をいただいて、もう挑戦に次ぐ挑戦で。なんて私は至らないんだと思いながらも毎日過ごしてましたね」

そして、プロデビュー10周年の年には娘を出産する。

「デビューの東京の演奏会が11月5日でね。うちの娘が10年後のね11月6日に生まれたので。まさに10周年のなんかその時は陣痛に苦しんでたっていう」

大きな分岐点だったという。

「そうですね。生活がね。その後、自分のその演奏会の準備のための時間ではなくて。子育ての時間になりましたから、子供否応なしじゃないですか。お腹すいたとか、眠いとか、不快だとかね。いろいろ。
だからね、体力的にはすごく大変になりました。ただ、じゃあその間ちょっと演奏活動から離れていればという考え方もあったのかもしれませんけれども、舞台から長く離れるってすごく怖いんですね。もうあのまたそこに私は戻るだけのエネルギーと気力と精神力が保てるだろうかという怖さがあって、あの子育てしながらも続けたいというので産んで1ヶ月で復帰しました」

ピアニストとして世界を駆け巡る中、
忙しい中でも娘とのコミュニケーションは最優先で考えたという。
中学、そして高校卒業するまで毎日お弁当を作っていた。

「そうなんです。もうね。けして自慢できるお弁当ではないんですけれども。頑張りました。やっぱりコンサートって夜遅く帰ってきたりとか移動で地方から遅かったりするので。朝がね、辛いんですけれども。
朝起きたらご飯が炊けてなかったとか、あの食材がなかったという夢はよく見ました。友達のお母様からね。こういうの冷凍しとくといいのよとか、こういう冷凍食品があるとかね。なんとか乗り切ったかな?」

そして忙しいスケジュールの中でも行事には積極的に参加をした。

「幼稚園とかね小学校のね、運動会とか、遠足とか音楽会とか、本当に楽しかったですね。コンサートと被ると大変なので。でもそういったね。あの何日にそういうのが行われますというのは年間予定表ってなかなか出てきますでしょ、学校から。その前に上の学年の方とかに、いつ頃だったって聞いて、そこはとにかくスケジュール入れないようにと事務所にお願いをし。目星をつけて開けておくとか、色々技を駆使しました」

健康でいられたのも娘のおかげだと感謝している

それはね、やっぱり娘、ちゃんとご飯食べさせないといけないから。栄養のバランスを考えなくっちゃと思って、あの過ごしたことが私にも良かったかなと思います」
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自信が進ませてくれたプロへの道

2023/05/13
大学1年の時に日本音楽コンクール ピアノ部門で第1位
しかし、そこからが厳しい道のりだったという。

「暗黒の時代 いただいた後がつらかったですね。1位という肩書きがあり、演奏の機会を頂いて演奏して、いか自分が足りないかということを突きつけられるんですね。自分の中でも私は演奏していていいのだろうかとかなんかいろいろ わけがわからなくなりまして それでもっと勉強しないといけないと」

そして、彼女はドイツへ渡った。

「大学2年生の途中ぐらいでしたかね。ドイツへ留学しました。クラシックの歴史のあるヨーロッパに行きたいと思ったんですね。ヨーロッパの中でもベートーヴェンであるとかシューマン、ブラームスであるとかそういった作曲家の歴史のあるドイツでドイツ音楽を学びたいということとミュンヘンの音楽大学に、シューマンについて素晴らしい先生がいらっしゃいまして、その先生にあのつきたいと思って ミュンヘンの国立音楽大学へ留学しました」

ドイツでの生活とは。

「国際コンクールを受けようと思って準備があったので、ひたすら練習するような生活だったんですけれども、ドイツってピアノの音を出すのが音楽の文化なる街なのに結構厳しくて郊外に住んだんですが、スタンベルグ湖という素晴らしい湖のある自然の豊かなエリアの近くに住んでました」

ミュンヘンに渡り、心境の変化もあったという。

「心の中はずいぶんと変わりましたね。音楽と対話して 時代の美術であったりとか文学がどういうものであるかとか歴史の中で、それが一体どういうものであるかというね。改めてとっても感動してなんて素晴らしい世界だろうとね 素直に思えたの。私もそうやって 一歩一歩。音楽と共にね 歩んで行けるんであればどんなに幸せなことだろうと思うことができたんです」

留学中にジュネーブ国際音楽コンクール最高位に輝き、
エリザベート王妃国際音楽コンクールでも入賞した。

「国際コンクールという場で評価していただけたということはとても励みになりましたね。ドイツの生活の中で 何でしょうね 人の前で演奏をしてあそれで良かったと思ってくださる方がいらしてまた聞きたいというねに言っていただいてまた次がつながっていくということを繰り返していくことができたらどんなに幸せだろうと思えたのがこの頃で それが すなわち あのプロということなんだなと思いました」

そして、プロの道へと進んで行った。

「何を持ってどこをデビューというかというのはなかなか難しくて、私の中ではここがデビューって決めています。帰国して定期的に演奏活動をこれからしていくぞと決心し環境が整い演奏活動を始めたのが1987年でその時を デビューと定めています」
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ピアノとの出会い

2023/05/06
ピアニスト 仲道郁代。
彼女が今、力を入れて取り組んでいるのが「ベートヴェン」

「今ずっと力を入れて取り組んでいる作曲家です。苦悩から歓喜へと言われていますでしょ 生きる ポジティブな力をくれる作曲家なんですね。なんか人間ってやっぱり素晴らしいんだと思わせてくれる音楽なので取り組んでいますね」

その仲道郁代がピアノを弾き始めたのは4歳のころだった。

「習い始めたのは4歳で最初はオルガン教室というのがあったんですよ。オルガン教室に半年通ってそれからピアノの先生にピアノを習いに通い始めました。その頃、子供がちょっと楽しめそうな曲とか、小学1年生の時はかごめ変奏曲というのがあって、日本の太鼓のリズムみたいなのを両手で弾くのが難しくて練習してたらできるようになってなんかすごい嬉しかったことも覚えてます」

クラシックに関しては家族で好んでいたともいう

「母は私がお腹の中にいた頃に毎日グリーグのピアノ協奏曲を儀式のように毎日かけてたとかね 授乳の時には 必ず レコードでモーツァルトのアイネクライネナハトムジークをかけてたとかね。すごい真面目な人だったんですね そんな中で育ったみたいです」

そして、彼女の人生観を変えたのがアメリカ・ミシガンへの移住だった。

「中学1年生12歳の時に行きました カルチャーショックでしたね やっぱりアメリカに行くと文化が違う。全て大きい、飲み物を頼んでもすごく大きいとかね。家も大きい、自動車も大きい、人も大きいとかありました。通っていた学校がすごく 音楽が盛んな公立の中学校だったんですけれども 毎日1時間、コーラスか ブラスバンドの授業があって全校生徒みんなで一緒に歌ってね。絆も深まりますよね。そんな中で日本人である私は一体何なんだろうとか色々考えさせられましたね 言葉が最初、全くできなくて先生がピアノ弾けるんだって?ちょっと弾いてみてっておっしゃって弾いてみたらクラスみんなでスタンディングオベーション。日本での子供の頃と音楽をきっかけに私の世界が広がったということも大きな出来事でしたね」

その後、親元を離れ日本に帰国、桐朋学園大学1年在学中に
第51回日本音楽コンクール第1位、増沢賞を受賞した。

「コンクール というのはね。そこにコンクールがあるから、そこに山があるから登ろうみたいな感じでね。一生懸命頑張って受けてたんですけど あの1位という賞をいただいて あ 嬉しいなって思っていたら演奏の機会をいただくことができるようになってでもね コンクール受けてる時はそこまで考えてなかった。賞をもらえたら嬉しいなってやってたので じゃあ 改めてね 人の前で演奏するということはどうなことであろうかとか それに関わる責任であるとか考えるようになったらね 怖くてとてもじゃないけど私そんな人の前で まだまだ 演奏させていただく それもそのある時 ふと見たら新聞とかいろんなところにピアニスト という見出しで書いてあって、色々 そうやって気がついて暗黒時代になっちゃったんです」
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