NOEVIR Color of Life

EVERY SAT / 09:00-09:30

今、仕事も家庭も自分磨きにアクティブな生き様を実践する女性達。そんな女性達がいつまでも輝く心と勇気を失わず、体も心も健康な毎日を送るため、各界を代表して活躍する女性ゲストが自らの言葉でメッセージを送るのが、このノエビア カラーオブライフ。「生きること、輝くこと、そして人生を楽しむこと」をテーマにした、トークや音楽、話題、情報などが満載です。

TOKYO FM

NOEVIR Color of Life

EVERY SAT / 09:00-09:30

唐橋ユミ

今、仕事も家庭も自分らしく、いきいきと生きる女性たち。いつまでも輝く心を失わず、心も体も充実した毎日を送るため、各界を代表して活躍する女性ゲストが自らの言葉でメッセージを伝えます。“生きること、輝くこと、そして人生を楽しむこと”をテーマにした、トークと音楽が満載のプログラムです。

Guest未唯mieさん

未唯mieさん

1976年8月ピンク・レディーとして「ペッパー警部」でデビュー。
1981年3月まで4年7ヶ月活動。
8月「ブラームスはロックがお好き」でソロデビュー。
その後、舞台、ミュージカル、コンサート、TV等多岐に渡って活動。
現在も定期的にLIVE、舞台等を積極的に開催し、
2024年3月1日には目黒Blues Alley Japanで『未唯mieの日LIVE』を予定している。

自分を高める

2024/02/24
シンガー・未唯mie
音楽に向き合う日々とは

「喉と肌のために部屋の湿度は55度をキープするようにしています。声帯はすごく強いんですね。例えばステージがあるから先生に見ていただいたりすると、この鍛えた喉は多少のことがあっても壊れないとお墨付きをいただいています」

歌うための体調管理はお風呂で

「20代の頃はお休みだと一日中お風呂にいる人だったんですけど、60の声を聞く前までは、お仕事に出る前、4時間ぐらい?お風呂場に行って出かける感じでした。でも最近は、そこまで長くするのをやめたんです。ウェイトコントロールをお風呂ですると顔が痩せすぎちゃう感じがあって、これは良くないなと思って半分ぐらいに減らしました」

音楽活動を進めていく中で
ドラマー・村上“ポンタ”秀一との出会いが
大きな分岐点になったという。

「個人事務所になってから自分の音楽性とかの世界を探し続けていたんですけど、ポンタさんがプロデュースしてくださり、メンバーを集めてくださって、超一流のミュージシャンがどのように音楽を捉えているか、音を捉えていくかっていうのがすごくわかってきて、音楽の難しさ、深さ、楽しさを改めて感じることになって、本当に音楽ってすごいなと思いました。そして、今のボーカルスタイルを極めたいと
考えるようになって、自分の体を楽器にしたいし、良い波動を聴いてくださる方に伝えていきたい そう思うようになりました」

そして、もう1人、人生で忘れられない出会いがあるという

「ピンク・レディーでアメリカの番組を収録しているとき、日本人のカオリ・ナラ・ターナーさんがヘアメイクで入っていて、お休みの日、一緒にダンスレッスンに行ってくださったり、おうちに遊びに行かせていただいたり、色々なお話を聞かせていただいた中で、パートナーを選ぶときには、自分を好きになってから選んだ方がいいのよって言われて、類は友を呼ぶっていう言葉があるように、自分が素敵に高まって、素敵に高まった人と出会えて、そういう人と一緒に歩みを進められた方がいいっていう意味なんですね。私はまだまだだなってそのときに思って、自分がどんな素敵な人になれるだろうかという思いを巡らせました」

いつも元気でいられる秘訣とは?

「私は幸せとか楽しい方にフォーカスをするようにしているんですね。生きていればいろんなことがありますけど、くよくよしたり、悩んだりする時間は勿体ないので楽しい方向に思いを巡らせると元気になっていくと思います」
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リスタート

2024/02/17
人気絶頂の中、ピンク・レディーはアメリカに進出。
全米デビューシングルとなった「Kiss In The Dark」が
ビルボード総合37位に入るなど大成功を収めた。
しかし、異変は帰国直後の空港で待っていた。

「飛行機から出たタラップのところで、記者の方たちが大勢待ち構えていたんです。質問を受けようと思ったら“解散するんですか?”と、いきなり聞かれて。むしろこれからっていう感じのときに2人は仲が悪いんですかって」

ピンク・レディーは解散の意思のないまま時は進んだものの
世の中の動きは解散の色に染まっていった。

1981年3月31日 ピンク・レディー解散、
その一方で未唯mieにはソロデビューが待っていた。

「最初はソロで歌手になりたい、そして役者になりたいっていう思いから目指した芸能界だったんで、そこに立ち返ろうというふうに思ってのソロデビューでしたね」

1981年7月リリース
ソロデビュー曲「ブラームスはロックがお好き」、
作詞 阿木燿子、作曲 宇崎竜童。

「阿木さん宇崎さんが一生懸命携わってくださって、阿木さんは お百度回りに行ってくださるぐらい考えてくださってのソロデビューでした」

その後、未唯mieはもっと自分のやりたい音楽をするため
1987年、同世代のミュージシャン仲間から誘われ29歳で独立する

「自分の進みたい方向と、プロデューサーの考えていることが違うと自分の中でも明確になったんで、これはもう独立させていただこうと」

歌手活動もやりながら演技の道にも進んだ。
さらには絵本作家にも挑戦した。
2008年に出版された絵本「モコちゃん」

「いつか絵本を描きたいっていうのも夢だったんですね。朧げな夢を持っているところに書いてみませんかっていうご依頼をいただいたんでやらせていただきました。本当に丸々1年かけてストーリーを考えてキャラクターを考えて、絵の技法を工夫して1年かけて作りましたね」

シンガーとして、役者として、そして絵本作家として、
未唯mieのソロ活動は幅を広げって行ったのであった。
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ピンク・レディー

2024/02/10
高校3年の終わりに挑戦したオーディションで見事合格。
そして合格後、ケイと一緒に上京することに、そこでの生活とは?

「共同生活だったんですけど、デビュー前は居候をしているお宅の掃除をしたり、お使いに行ったりとか、おばさんの言うことを聞かなきゃいけなかったんですけど、いつもお喋りしていたので、1人ずつやりなさいって怒られながらずっとお喋りしていましたね」

4月に上京、8月にデビュー。
すべてが急ピッチで進んでいた。

「6月にレコーディングしたんですけど、事務所の方から芸名が白い風船に決まったと言われて、自分たちの中では方向が違うと思いながら、でもデビューできるのだからっていう感じでいたのですけど、1週間2週間ぐらいしてから突然名前が変わったからって言われて、ピンク・レディーの名前を告げられたときにどれだけ嬉しかったことか」

そして、1976年 ペッパー警部でデビュー。
この曲が世に広まったのはしばらく経ってからだという。

「2曲目のS・O・Sをリリースした10月以降、賞レースにも参加をしていくんですけど、そこでペッパー警部を歌う場面もあって、そこからだんだん火がついてきた感じですね」

そして、世にいう1日仮眠45分というスケジュールに。

「そういうときもありましたね。帰りの車の中で1時間半後には出発だからねっていう感じで、結局ちょっとウトウトしたのが45分ぐらいだったみたいな」

ピンク・レディー時代の思い出のステージは
1978年の後楽園コンサート、そして、ラスベガスのショー。

「2年目で夢の武道館、3年目に球場コンサートだったんで、本当にどういうことなんだろうっていう感じだったんです。球場コンサートって天まで届けて歌っている感じで、星から来た2人っていう曲が私達にあるのですけど、本当にそんな気分でした」

ラスベガスでのショー、その思い出とは?

「あんまり緊張しないタイプだったんですけど、膝が笑うってこういうことなんだって初めて知って、ステージで何やったか覚えてないぐらい緊張していて、でも最後にそのスタンディングオベーションをしてくださったんです。前の方に座っていらしたすごく品のいい女性が手を出してくださって、握手だったかもしれないんですけど、私は何を考えたかネックレスを外して、女性に差し上げたような気がします。すごく嬉しかったんです」

演奏はスペシャルなオーケストラだった。

「フランクシナトラのオーケストラをお借りしたんです。私がソロでウィズ・アウト・ユーという曲を歌ったんですけど、その間奏が始まったときに白髪のおじいさんのフルートのソロが入ったんですね。そのフルートが聞こえてきたら感動しちゃって、でも次のサビから歌い出さなきゃいけないのが歌えないぐらいボロボロ泣き出しちゃって、フルートに感動して、なんか、演奏もこんなに違うんだっていう」

ピンク・レディー。
まさに怒涛の日々であった。
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歌いたい!

2024/02/03
未唯mieは今もなお月に一度はボイストレーニングに通っているという。
彼女のルーツとは?

「小さい頃は アニメソングを歌うお姉さんになりたいと思っていましたね。ファッションデザイナーとかあと美容師になりたいっていう3つの夢がありました」

そんな彼女が中学生の時、演劇に出会う

「引っ込み思案な自分を変えたくて、変身願望と言いますかね。それで思い切って演劇部に入ってみようと思って、そこから少しずつ変わったっていうか、演劇に出会って初めて舞台に立たせてもらった時にセリフに乗せて自分の気持ちを表に出せたような気がしてね。その時初めて自分の気持ちを表に出すっていうことなんだって」

その演劇が2人の少女を引き合わす。

「中学2年の時、演劇部の主役はケイにお願いしました。 姉妹のお話 なんですけど お姉さん役が意地悪なんですよ。それを誰かに振ることができなくて、私が自分でやることにして、姉妹でのセリフが多かったんで 一緒に練習するようになり、部活動だけじゃなくて学校から帰った後も一緒に練習したりとかするうちにいろんな話をするようになって それで目指すものが一緒だねっていう私は役者になりたくて ケイは歌手になりたいっていう話を聞いて一緒に頑張ろうって仲良くなってたんです」

そして、未唯mieにチャンスがやってきた。
オーディション番組の収録が地元・静岡にやってくるというのだ。
役者へのステップを知らなかった未唯mieは歌手のオーディション番組にエントリーした。

「クラスの子が今度 スター誕生 来るんだけど一緒に行かないって誘ってくれて、和田アキ子さんとかプロのゲストが 4組ずついらっしゃって 森昌子ちゃんのデビューコーナーがある時で、本番前の袖で和田アキ子さんが昌子ちゃんを膝の上に座らせてすごい可愛がってるのを目撃したんですね。歌手になったら先輩にこんな風に可愛がってもらえるのかって思ったんですね。そっから歌手になりたいと」

結果は不合格。

2人は同じ高校に進み本格的に歌手デビューを目指す。
同じボーカルスクールに進みチャンスを待った。
そして、オーディション番組に2人でエントリーした。

「高校生も3年生になってくると進路を決めなきゃいけない。私の両親からはもうそんな夢物語を追うのは高校生までだからって言われていたんで切羽詰まった状態でもうこれはオーディション番組で決着をつけないといけないと…」

高校生活の集大成として最後のオーディションと決めた。
それまで受けていたオーディションの反省点を生かした作戦に出た。

「静岡の素朴な女の子っていうのを演出して、白いシャツにサロペット。何も知らないですっていう顔をしました」

結果は見事合格。
その先には怒涛の芸能活動が待っていたのだった。
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