NOEVIR Color of Life

EVERY SAT / 09:00-09:30

今、仕事も家庭も自分磨きにアクティブな生き様を実践する女性達。そんな女性達がいつまでも輝く心と勇気を失わず、体も心も健康な毎日を送るため、各界を代表して活躍する女性ゲストが自らの言葉でメッセージを送るのが、このノエビア カラーオブライフ。「生きること、輝くこと、そして人生を楽しむこと」をテーマにした、トークや音楽、話題、情報などが満載です。

TOKYO FM

NOEVIR Color of Life

EVERY SAT / 09:00-09:30

唐橋ユミ

今、仕事も家庭も自分らしく、いきいきと生きる女性たち。いつまでも輝く心を失わず、心も体も充実した毎日を送るため、各界を代表して活躍する女性ゲストが自らの言葉でメッセージを伝えます。“生きること、輝くこと、そして人生を楽しむこと”をテーマにした、トークと音楽が満載のプログラムです。

Guest川上弘美さん

川上弘美さん

1958年生まれ。96年「蛇を踏む」で芥川賞、99年『神様』でドゥマゴ文学賞と紫式部文学賞、2000年『溺レる』で伊藤整文学賞と女流文学賞、01年『センセイの鞄』で谷崎潤一郎賞、07年『真鶴』で芸術選奨、15年『水声』で読売文学賞を受賞。’23年フランス芸術文化勲章オフィシエ受章。ほかの作品に『風花』『どこから行っても遠い町』『神様2011』『七夜物語』『なめらかで熱くて甘苦しくて』『大きな鳥にさらわれないよう』『某』『三度目の恋』などがある。

川上弘美の今とこれから

2023/11/25
川上弘美は
翌1996年に「蛇を踏む」で第115回芥川龍之介賞を受賞した。

「たくさんの方が芥川賞を取ると読んでくださるんですよ。桁違いに2桁か、3桁ぐらい違う方々が、蛇を踏むを読んでくださって。でも、その時に、あの編集者の方に言われたのは、今これは芥川賞だから売れるけれども、この先ずっとやっていくためには何て言うか、地道に一作一作、全身全霊を込めて書かないとだめだよって言われて、これは一時のことなので続けることが難しいんだよっていう風に言われました」

そして、2007年の第137回 芥川賞選考会から、
川上弘美は選考委員として参加している。

「選ぶ方が何かあのよくわかってるっていう風なもしかしたら印象を皆さん持ってらっしゃるかもしれないんですけど。選ぶ方は何にも全然偉くないんだなっていうのは、実感ですね。別に謙遜してるわけじゃなくて、読むと私これ書けないわってはっきり思います。どの作品も。よくみんな、こんなちゃんとしたものかくあって感心するばっかりです。嫌な謙遜に聞こえるかもしれないんですけど、はっきり言って書けませんね。だって自分と違う才能 自分と違う文体。自分と違う内容。それもたくさんの候補作読んできて、ですから、ちょっとなんて言うのかな?自分もとにかく同等です、そこは。自分と選ぶ方と選ばれる方は、もうみんなプロですから。本当は同等なんですよ」

そんな川上弘美が今、力を入れているのが
50代を超えてから始めた大人バレエ。

「ずっと隠していたんですけど恥ずかしくて。でも最近はもう言いまくっていて。あの 私、バレエ漫画を読んで育った。あらゆるバレエ漫画が大好きで素敵で、バレエを見るのも好きですし。でも自分がやろうとは夢にも思いませんでしたね」

そのきっかけとは?

「50代になったぐらいのある時、歩いてたら何にもないとこでつまづいたんです。これこのまま行くとどうするんだろう? なんか、運動しなきゃと思ったんですけど。それから何年もジムとか行きたくないしって思ってたら、ある日家にチラシが入って。で早速行って、そしたら若い方もいらっしゃれば、もっと年上の方もいらっしゃる。最初はゆっくりバレエっていう。バレエっていうよりも ストレッチから始まる。そうやってだんだんだんだんはまっていって、もう大変ですよ本当に」

体を動かすということは、書くことにおいても影響しているのか?

「体を動かすようになって初めて、筋肉っていうものについて書きました。バレエを始めるとジムにも行ったりするので、筋肉がつくと嬉しいっていう気持ちが初めてわかったんですけど、お話の中に筋肉の美しい男っていうのが出てきて、自分ながら嬉しいと。こんな人は書いたことがなかったと思いましたね」

小説家デビューから30年。
ここまで走ってこられた理由とは?

「やっぱり、あの全然先のことを考えずに、その時やってることだけ1個クリアして、何とかクリアするってことだけ考えてきた気がしますね」

川上弘美は10年先、どんな自分でありたいのか?

「正直言うと全然わからないし、あんまりありたいってことを考えないでいたいなっていう気もするんですよ。でも、やっぱり考えるとしたら、自分の個人的な思いを伝えるためではなくて、書いている小説自身の持つ想いを表現するために言葉を使い続けていられたらなっていうふうには思います。なんか、私ではなくて。なんか世界と一緒になるみたいな、そんなちょっと年いってそんな風な境地を目指したいなっていう風には感じるようになってきました」
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川上弘美のスタイル

2023/11/18
芥川賞作家の川上弘美。
小説を書くにはかなりの苦労を重ねたという。

「大学の時、書いたり。それから結婚してから書こうとしたけどなかなか書けなかったり。書いてみるんですけど自分で読み返すと面白くないということが続きまして、そうすると、自分で面白くないのが、人様が面白がってくださるわけないっていうのはわかるわけですよ」

その中、子育ての日々は続いていた。

「どうして神様っていう話を書いたかっていうと。当時、上の子が言葉の遅い子どもだったんです。周りの同い年の子たちは、みんな普通に喋り始めているのに、うちの子だけ何も言わないし。砂場に行くわけですよ。砂場デビュー。マイペースな子で、人となかなか交わらない。母親としてはものすごく心配なんですよね。この子がどういう風に成長していくんだろうって、いろんなことを感じた時期で」

その時、舞い降りてきたのがデビュー作「神様」の物語。

「その砂場での自分と息子の疎外感みたいなものを書いたのが、実は神様っていう話。自分と息子だけが違う何かの透明な何かに入ってるような、そんな日々をその小説に書いた時に、これ私初めて小説を書けたって思った、それが最初に書いた小説でしたね」

そして、この時に内容と文体が決まったともいう。

「変わっては行くんですけど、書くのが苦しいっていうのは、まず、そもそも私、あんまり人に伝えたいことってないんですよ。あの、もちろん思ってることはたくさんあるんですね。でも思ってることをこういう風に伝えたいっていうようなタイプではなくて、あわい言葉にならないことをどうにか小説の中に書き留めてみたい。でも、言葉にならないことなんで難しいんですよね。だから、寓話の形を取ったり、不思議な生物が出てきたり、色々やってみるわけですけど。最初にだからそれをどうやって書き始めるんだろうっていうのが一番苦しいところです」

1994年、第1回 パスカル短編文学新人賞に「神様」でエントリー、そして受賞した。
現在、川上弘美は、どのように小説と向き合っているのか。

「無計画に書かないと、書けないというそういう感じですかね私は。文章を書いて、2行ぐらい書くとそこから押し出されるように新しい何かが出てくる。その2、3行からまた新しい連想とかあこのこうなってくなっていう、そういう書き方ですかね」

作品の結末は最初から決まっているのか?

「確実に決まっていなくてすごくそれが引け目で、でも、ある日スティーブンキングの小説の書き方って本を読んだら、スティーブンキングも決まってないんですって、全然計画立ててないんですっていうのあれだけ緻密な 小説 書く作家がそうなら、私ごときがこれでいいんだっていう非常にあの肯定された気持ちというか、最後の5分の4ぐらいまで来たあたりで決まってると楽ですし、最後の最後まで決まらないこともあって、それとも七転八倒して頭を抱えて何日も悩んで、ようやく着地するみたいな」

念願だった作家デビューを果たし、
文章に向き合う中で、、、大切にしてゆきたい趣味にも出会った。
パスカル短編文学新人賞受賞した頃に始めた俳句だ。

「面白くてしょうがなくて、最初は仕事もありませんし。パスカル受賞した後も。ほぼ1年ぐらい俳句の方がたくさん作ってましたね」

俳句から学んだことは?

「あります。これは明らかにあって俳句って短いですよね?だから、あの自分が作った俳句、人が読んでもきっとわからないだろうなって思って、句会に持っていくと、自分が持ってるより深く読み込んでくれるんですよ。自分で思ってなかったところまで読んでくれるって言うのは一種の誤解ですよね。本当に美しい、嬉しい誤解。そういうのも含めて、そっかこう作品は自分の手を離れたらもう読者のもので、その読者の方は本当に読むのが好きだとしたら、自分の思うように深く読んでくれるんだっていう信頼感がそこでできました。だから、私あのどちらかっていうと、文章を削いでいく方なんですけれども、たくさん説明しないでも分かってもらえるっていう、信頼感をそこでもらったので、それであの自分の文体がますます決まっていったなっていう気がします」
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SF研究会での出会い

2023/11/11
芥川賞作家・川上弘美はお茶の水大学に進学。
文学部ではなく理学部・生物学科に進んだ。

「そのころ本を読むのが大好きで当然、自分は文学部に行くのかしらって思ってたんですが、高校2年生ぐらいの時に、どうやら文学部に行くと原稿用紙100枚分の卒論を書かなきゃいけないって聞いて、それ無理って思って。そもそも好きなのに作文は大嫌いで書くのが、1枚を埋めるのももう四苦八苦っていう人間だったもんですから、それは無理だなと思って」

当時の川上弘美は理系にも目が向いていた。
さらには父親が生物学の研究者だったことも影響した。

「ある日曜日の2,3時間教えてもらったら、すーっと全部わかったんです。さすが この人プロだわって思って、その時から生物が面白くなりましたね」

そんな川上弘美のキャンパスライフとは?

「私はやっぱり小説の方に目が向いていたので、図書館とあのSF 研究会っていうのに入ったんですけど、その部室で過ごしました」

そこで運命の出会いが待っていた。

「文学研究会とかあるかしらと思ったらなくて、文学というか物書くだったら、SF研究会かなと思って行きましたら、部長が1人しかいなくて。実はその部長も、漫研の部長で。漫研を創立した方で、その方がSFも好きだったので。その部長が湯田伸子さんっていう、後にあのプロの少女漫画家になって、大島弓子さんのあのアシスタントをずっとしてらした方なんですが、その方が漫研とSF研の部長として、私たちを引っ張っていた。その時に柴門ふみさん、漫画家の。漫研だったんですよ。私は、1学年下で、SF研で同じ部室で」

湯田伸子は大きな存在であった。

「柴門さんは、大学に入るまでリボンしか読んだことがなかった。それで、湯田さんがそれだけじゃダメよ。もっと、いろんな文学的な少女漫画あるんだから、読みなさいって言って、教育してもらって。それで、作品仕上げたことがなかったの。Gペンを使うこととか教えてくれたし、私たちSF研には、同人誌の作り方を教えてくれたんです。もし、湯田さんがいらっしゃらなかったら、私も柴門さんもこういう道に来なかったかもしれない。それほど大きい存在」

SF研究会で小説を書く楽しさを覚えた川上弘美。
大学卒業後の希望の進路は、当然のように「本」に関するものだった。

「もうその気になっていて、それで大学4年生ぐらいの時に、SFの雑誌のアルバイトに行って。そこで、校正作業をしたり。自分のものも少し載せてもらったり。あの、いわゆる大きい商業雑誌ではSFマガジンとかではなかったんですけど、半商業誌で、2人ぐらいでやってるようなところに、そうやってアルバイトで雇ってもらったんで。もう、私はこの道しかないって思っていたんですが。まあそんなにあの甘いものではなく」

その後、小説家にはならず、中学・高校の生物科教員になる。
きっかけを与えてくれたのは学生時代の親友だった。

「私の自慢の友達がいて、それで彼女が優秀なもんですから、私の母校の先生があなた、うちの学校の教師にならない?って言ったんですけども。研究者の道に入っていたので、あの山田さん。私旧姓山田って言うんですけど。山田さんがなんだかフラフラしてますし、彼女は就職できるかもしれませんよって進めてくれて。で、その彼女のおかげで教師になれたんです。どういう人生でしょう」

川上先生の授業とは?

「私、理科の授業は結構良い授業をしたと思います。理科とか生物を教えるって言うことに関しては、情熱はあったんですが。担任をしていて、担任をしているクラスの子との心の通じ合いがない教師でだめですよね。もう。私として頑張っているつもりなんですけど、どうもピントが外れてる」

教員として多忙な4年をすごした後、
ようやく大好きな小説が書けるようになったという。

「教員生活の後、結婚して夫があの転勤があったので、学校はやめざるを得なくて。そして、あのそこで、子供が生まれる前、時間がいっぱいあるので、また書こうと思って。でも、書けなかったんです。小説ってね。なんか書けなかったですよ。私、若い頃。人間に深みがない。今があるってわけじゃないんすけど。やっぱりまだ人生の経験自体が浅かったのかなって思います」
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ゼロから作る他の下

2023/11/04
作家・川上弘美の執筆は午前中からはじめるという。

「10時ぐらいから昼ぐらいまで書いて、お昼1時間ぐらい ご飯とお休みしてまた5時まで書くという そういう感じです。今 自分で言いながらちょっと嘘が入っているんですけど 書く部屋にはいるんですけれども 6時間 書き続けているかのように言いましたが 実働は2時間弱っていう感じですね 書いているのは。書いているのに集中できるのは10分ぐらいかな。どんどんどんどん書くということはできなくて10分ぐらい書くと はーって疲れちゃって20分ぐらい休んでっていう その割合ですね。書くのは疲れますよ」

最新著書「恋ははかない、あるいは、プールの底のステーキ」もそうやって作られた作品だ。

「一番長い題でもうすでに自分で覚えられないんですよ そしたら編集者の担当の方が、恋ははかないあるいはプールの底のステーキ なので 恋ステ っていう略を考えてくださって やり取りは全部恋ステ恋ステ 案の定 今でも覚えられません」

川上弘美が好きな言葉「あわい」

「淡い色の淡いっていうのではなくてちょっとあの昔風の言葉で、人と人との距離とか間とかそういうものが好き 好きというのかな、人と人だけではなくて物事って例えば恋をするの恋って言うと、もうこういうものだってなんとなくイメージがありますよね でも本当は自分が恋をした時 それに収まったかって言うとそれに収まらない部分が一番大変なところだったかなっていう気がするんですよ。人間関係も友達って言った時に いわゆる 思いつくような友達関係じゃない 微妙な心のやり取りそれが何か辛い時もあれば ものすごく楽しい時もあれば でも 言葉にできない それは何だろう そこの曖昧な間 何か間にある目に見えない 言葉にできないものっていうのを“あわい”っていう言葉でわりと私小説の中で表してきたような気がするんです」

川上弘美の幼少期とは?

「私4月1日生まれ なんですで4月1日っていうのは学年の一番年下ですから、一番年上のお姉さんと1年近く離れていると本当にもうみんなの後から よちよちついていく 感じな上に1年生の途中まで アメリカに行って帰ってきたので4年生になってローマ字を教わった時初めて あいうえおかきくけこ っていう規則的にひらがながあるんだってことを知って、授業にあまりついて行けず、3年生の時にちょっとあの1学期ほど休む病気をしまして その時に母が読み聞かせてくれました。字だけの本はすごいハードルがあってそこを超えられずにいて児童文学全集を買ってもらっていたんですけど1冊も読まずに全部ほっといたのが病気で他にすることがなくて飲んでもらったら面白かったんです」

すると、本好きになって歩きながら本を読んでいた。
そして、中学高校の時は、いわゆるサブカルチャーに興味を抱く。

「中学校の時に 杉田二郎さんが好きだったんだっていう友達に連れられて お祭り行ったらそこの小さな舞台で杉田二郎さんとバックバンドの2人が歌ってたんです そのバックバンドのコーラスがものすごい綺麗でびっくりしたらそれ今のオフコースなんです。なんとか聞きたいと思って 当時 フォークソングが全盛期でしたからハガキを出すとタダで行けるっていう公開放送のようなものが結構 東京はあって、おはがきを出しまくってオフコースが1曲歌うのだけにも頑張って行ってるみたいな大ファンで ファンクラブ 募集って書いてあったのですぐに入って 第1期の100 何十人の中に入っているんですよ」

その中、大きな出会いがあった
中学の時に出会った理科の河野先生。

「地学を教えてくださったんですけど、夏休みの宿題だったのかな 冬休みかな?気象通報ってありますよね ラジオ 色々な地点の風向きと風力をどんどん言っていって、それによって予報をするっていうそれを2週間分 ラジオを聞いて毎日、書きなさいっていう宿題を出した先生だったんです。私たち天気予報って もうできてるものだと思っていたんですけれども 実はこうやっていろんな地点を結んで風力図とか色々書いて 明日の天気を予報するのだっていうことを 初めて教えてもらって、それも昔ですから録音とかできないのでその場でその書き込んでいくわけです 二度と繰り返さないので もうなんていうか 本当に緊張しながら天気図を書くっていう宿題をした時に学ぶってこういうことなんだって初めてわかった気がして」

教科書に書いてあることを覚えるのではなくゼロから作る。
その喜びをこの時知ったのであった。
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