NOEVIR Color of Life

EVERY SAT / 09:00-09:30

今、仕事も家庭も自分磨きにアクティブな生き様を実践する女性達。そんな女性達がいつまでも輝く心と勇気を失わず、体も心も健康な毎日を送るため、各界を代表して活躍する女性ゲストが自らの言葉でメッセージを送るのが、このノエビア カラーオブライフ。「生きること、輝くこと、そして人生を楽しむこと」をテーマにした、トークや音楽、話題、情報などが満載です。

TOKYO FM

NOEVIR Color of Life

EVERY SAT / 09:00-09:30

唐橋ユミ

今、仕事も家庭も自分らしく、いきいきと生きる女性たち。いつまでも輝く心を失わず、心も体も充実した毎日を送るため、各界を代表して活躍する女性ゲストが自らの言葉でメッセージを伝えます。“生きること、輝くこと、そして人生を楽しむこと”をテーマにした、トークと音楽が満載のプログラムです。

Guest千住真理子さん

千住真理子さん

2歳半よりヴァイオリンを始める。全日本学生音楽コンクール小学生の部全国1位。NHK交響楽団と共演し12歳でデビュー。日本音楽コンクールに最年少15歳で優勝、レウカディア賞受賞。パガニーニ国際コンクールに最年少で入賞。2002年秋、ストラディヴァリウス「デュランティ」との運命的な出会いを果たし、話題となる。コンサート活動以外にも、講演会やラジオのパーソナリティを務めるなど、多岐に亘り活躍。また、チャリティーコンサート等、社会活動にも関心を寄せている。2020年はデビュー45周年を迎える。著書は「聞いて、ヴァイオリンの詩」(時事通信社、文藝春秋社文春文庫)母との共著「母と娘の協奏曲」(時事通信社)「千住家、母娘の往復書簡」(文藝春秋社文春文庫)など多数。

次の瞬間に素敵な出来事が待っていると信じて

2023/09/30
2歳半でヴァイオリンに出会い、
人生のパートナーとして歩み続けてきた。
そんな彼女がヴァイオリン以外に興味を抱いているものとは?

「基本的に興味はヴァイオリンにしかないんですけど、そのヴァイオリンのためにやっていることはあるんですが、それが今一番あの集中しているのは水泳で、1キロからそれ以上。2キロぐらい。2キロ半ぐらい泳ぐこともあります」

時には演奏会が終わってから疲れをとるために泳ぎに行くともいう。

「行く前は疲れていて嫌だ嫌だと思うんですが、その時に 自分にこう言い聞かせるのは、私は、このストラディバリウスを弾き続けたいよねって思うんですね。そうすると体が資本だよねって思うんですね。
体を鍛えて元に戻して明日も弾けるようになるためには、今日どうしても私は行かなければならない。50Mでもいいから泳げなければならないって思うんですね。それで、まず行って。じゃあ、わかった。私は今日は50mにしようって思って、プールの中に入る。それで何とか25行って、50行くと。もう1往復できそうだと思うと、もう1往復する。そういう風にもうちょっとできる。500あるいは800、泳げたりする。そうやって何とか自分を騙しながら、いつも泳いでます」

そして、千住真理子が第一線でステージに立ち続けられたのは身近な存在の刺激もあった。
2人の兄、画家の千住博と作曲家・千住明の存在。
千住真理子にとって2人の存在とは?

「そうですね。やっぱり会うと嬉しいです。お互い自分のことをベラベラしゃべって、それでパッと別れるぐらいの感じしか、時間がないですね」

では、こどんなチャレンジをしたいのか?

「チャレンジというよりも。この楽器ストラデバリウス ディランティがまだまだね、いろんな音を隠してるような気がするんですね。なんか音の世界がまだまだ私が広げることができるんじゃないかなと思うと、もっともっと広げてあげたいな。そして、その広がった音を一人でも多くの方に生の音を聞いていただきたい。でそう思うとやっぱりあのコンサート活動。一生懸命やりたいなと思います」

千住真理子が好きな言葉がある。
「音に命あり」

「あの、これも私が挫折してる時に。もう本当名前を存じ上げない、ボランティアで訪れた老人ホームのご老人の方が初めて私に語ってくれた言葉なんですね。音には命がありますねっていうような。それでそういう短冊を書いてくださったんですよね。音に命ありっていう絵がついていてね。それが、私にとっては、とても心にしみて。本当に音に命があるし、なければだめだなと例えば、天才少女って呼ばれた時の私は、音に命があっただろうかって反省する時もあり。そして、今私が音を出すならば、命がなければ嫌だなって思うことがある。なので、私にとって一番大切な言葉です」

最後に千住真理子からリスナーへ。

「一つだけ、お話をしたいと思うのは、私がストラディバリウス デュランディに出会った時に、その5秒前まで出会うと思わなかった。電話かかってくる1秒前まで電話がかかってくると思わなかった。つまり、一瞬先のことは分からないっていうことですね。とってもすごくいいことが次の瞬間起こるかもしれない。明日ものすごく素敵なことがあるかもしれない。今日これから先、思いもよらない出会いがあるかもしれない。それは本当にそれがあるんですね。そのことを私は皆さんに伝えたいです」
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ストラディバリウス デュランティ

2023/09/23
千住真理子は40歳の時に運命の出会いを迎えた。
幻の名機ストラディバリウス デュランティとの出会い。

「1716年に制作されたストラディバリウスで、一人目の所有者が当時のローマ法王。二人目の所有者がその側近で、その側近はフランスのデュランティというお城の中にもちり帰り、そのお城の中で200年の長い間隠されていたんですね。でその後にスイスの富豪のもとにその楽器が渡りましたが、そこでも大切に保管されていました。そのスイスの方が富豪の方がなくなる時に遺言として、この楽器はこのままではいつまでたってもヴァイオリニストの手に渡らないと自分が無き後はこの楽器をヴァイオリニストの手に渡るようにという遺言を残されて亡くなられたので、それから世界中で何人か。4,5人の方に声がかかってその中の一人に私だったんです」

あの楽器に興味はないか?
運命の電話はスイスから突然かかってきた。

そんな貴重で高価なヴァイオリンを手にするなんて無理だ。
一度は断りをいれたが日本に持ってくるという。

そして、対面した。

「ステージを借り切って大ホール、小ホール。いろいろなステージを借りて、最初は中ぐらいのステージを借りて、そこに持ってきてもらおう。でそこにあの何人かの大人の方々がその楽器を守りながら持ってきて、ヴァイオリンケースをかばってあげたんですね。開けた瞬間この楽器からくる何とも言えないオーラのようないい意味での圧力がきてですね。ドキドキッとしましてですね。」

そして、弾いてみた。

「手に取って引き始めたらもう最後。この楽器は絶対はなしたくない。で、気がついたら3時間ぐらい弾き続けていました。まず生き物のような声がする。これ音って言いたくないんですね。声がするって思ったんです。何だろうこの声はどっから出てるんだろう?私の手の中からヴァイオリンのはずなのに なんか声がする。声がする。不思議な音がわーっと出るんですよ。これは違う。どうしよう。これはなしたくない。なんとかこの楽器が自分の元から離れないようにできないかということで相談して、最後の最後にお金が工面できてなんとか間に合ったっていう感じです」

こうして、幻の名機ストラディバリウス デュランティが
千住真理子の手におさまったのだった。

「この楽器から出会った瞬間に私は、私の人生はこの楽器に捧げようと思いました。そのぐらいの楽器なんですね。私は人生は、人生で楽しまないといけない、楽しまないといけないんだっていう。人間だったらこの楽器は他の人に譲らなければいけないと思いました。そのぐらいのすごい楽器なので、私は全人生を捧げてもまだこの楽器に対してやってあげられるかどうか。この楽器の最大限の音を私がだせるかどうか。
もう今でも本当にそう思いながら、この楽器に語りかけてる感じはあるんですけれど」

ストラディバリウス デュランティと出会い
楽曲との向き合い方、そして日々の生活も変わった。
これまで演奏してきたものとは音色、感覚が全然違うという。

「違いますね。もう全部どの曲もゼロからも全部リセットしてですね。あのフィンガリングと言って指使いとか、ボーイングといって弓の上げ下げの部分とかですね。あと色々な曲想、構成の仕方。演奏方法。全部変えなければこの楽器が弾けないっていうことがわかったので、もう全部変えてのあの演奏が新たにスタートをしました」

こうして千住真理子は
ヴァイオリニストとしての
新たな人生を歩みだしたのであった。
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ありがとう

2023/09/16
千住真理子は15歳の時
日本音楽コンクールで最年少優勝し注目された。
そして、20歳の時に大きな壁が立ちはだかった。

「ヴァイオリンという楽器は嫌いになったことはないんですよね。20歳からの2年間、ァイオリンをやめていたんですがその時期もヴァイオリンは好きだったんですね でも音楽をするっていうこととプロとしてステージに立つということは、の頃の私にとって違うことでプロとしての責任っていうのはどうやって責任を果たせばいいかっていうのが子どもの私にとっては難しくて解決できない問題でした。繊細っぽく弾かなきゃなんないと思えば思うほどステージの上に立った瞬間に何も弾けなくなって、弾けなくなればなるほど周りから色々なことを言われる ちょっとどんどんどんどん もう落ちていって もう 私は本当に引けないっていう もう最悪の挫折です それでもう本当に これじゃあ自分がダメになるな 人間として生きていけないなと思ってそれで ヴァイオリンを辞めるという決心に至ったわけです」

ヴァイオリンから離れた2年後、
千住真理子に声がかかったのは
NHKの大型報道番組からキャスターとしての依頼だった。

大型報道番組「ワールドネットワーク~世界は今」

「月に1回の2時間ぐらいの大型番組なんですよ。月に1回海外取材に言っているわけですね。10日間ぐらい取材に出て。帰りの飛行機の中でレポートを13枚 書かなければいけないんですよ。私が書いたものを元にしてスタッフの方がコメントを書いたり。番組を編集したりするわけなんですね。なんでそれがすっごい大変でした」

インド、シンガポール、アメリカ、フランス、ドイツ。
様々な場所を訪れた。
そして、得たものが多かったと言う。

「とってもじゃないけれども出会えないような方々と出会って。あるいは価値観の問題も世界も行くと様々な価値観があって、様々な考え方のメジャーがあって。それで例えばコップを見ただけでもね。例えば。こちらから見るときれいなお花のマークがついているコップだなと思っても。反対側から見ると何のマークもついていなかったりすることありますよね?そういう風に一つのものを見ることを見ることでも角度によって全然、見方が違う考え方が違う。そういうことを気がつくきっかけになったっていう意味では本当にあのいい勉強だなと思います」

時を同じく、あるオファーが舞い込んだ。

「実はちょうどそのあたりの頃からですね。ホスピスという場所がありますね。余命いくばくもない方々がある施設で時間を過ごされる。そのホスピスからお電話があって、ボランティアの方だったんですね。そのボランティアの方っていうのはホスピスの患者さんの夢を叶えるというボランティアだったんです。その夢ある一人の患者さんの夢が千住真理子の音を最後に聞きたい。千住真理子に会いたいっていうような夢だったという風に言われて。私はもうヴァイオリン弾いてませんからってお断りしたんですが、あの会いたいって言ってるんですよ。叶えてあげませんかっていう風に言われました。考え違いしていた。ヴァイオリンを弾きに行くんじゃなくて会うだけでもいいのなら会いに行きたい。そう思ってあのじゃあヴァイオリニストらしくヴァイオリンを持って行こうとなって、母に預けたはずのヴァイオリンを母は大事に押し入れにしまってくれていたんですね。それを一応持ってその方に会いに行きました。そしたら、その方は本当にやせ細った手で私を両手を握りしめてくれて、

「会いに来てくれてありがとう」

「って言ってくれたんですね。でその方のためにちょっとでも弾いてあげたいと思ってあのバッハのG線上のアリアの初めの部分弾き始めましたけれども。弾けないんですよ。何ヶ月も引いていなかったからあの指は震えるし、あのうまく楽器を持てない。音程が取れない。最後まで引かずに途中でふっとやめて、あのお辞儀をしてヴァイオリンをしまっていたら、その方が私のところにやってきて。「ありがとう」と。目を真っ赤にして「ありがとう本当に私の夢が叶った。本当にありがとう」って私の目を見てくださるで。この方は本当に私にありがとうってくれるんだっていうのが、私はわかったんですね。でそのありがとうっていう言葉に実は私は救われました。そのありがとうって私でも言ってくれる人がいるんだ。そう思った時になんか生きてていいんだなと。あるいは、こんな私でもありがとうって言ってもらえる人がいたんだなって私こそありがとうって思ったんです」

この出会いがあり、千住真理子は音楽界復帰の一歩を踏み出したのだった。
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プロで居続けるための葛藤

2023/09/09
ヴァイオリニスト 千住真理子のプロデビューは12歳の時、
NHK 若い芽のコンサートでNHK交響楽団との共演したことだった。

「私は喜びましたが、両親はびっくりどうなっちゃうんだろうと。もう私の両親は音楽関係では全くなかったので、学者家系でしたので、後にヴァイオリンが高価な楽器かもしれないっていうことをどっかから聞いてきて、やめさせるなら今ならなんじゃないかっていう大騒ぎになったのはこのころです」

プロデビューの日について

「鮮明に覚えてますね。NHKホールがとても広いので真ん中に行くまで時間がかかるよと大人の人たちに言われてさっさと歩きなさいで。大股で歩きなさい。実はそのことでそのことがきっかけで、私は早歩きをする癖がついたんです」

プロデビュー後、千住真理子は天才少女と注目をされる。

「何かとてもくすぐったいような嬉しいような感じからは始まったんですが。後にその言葉がどんな重みがあるかというのがだんだんだんだん肩にのしかかってきて。周りの大人たちは 本当 天才 なんだろうなっていう目で見る。ジャッジする。そのように上手に弾けないとなんだ違うじゃないかという。ステージでは聴衆の2000人の方々がそういう目で見るわけですね。やっぱ、子供ですから 何とかそれらしくしなければいけないと思うとやっぱり1日10時間 12時間 だんだん 練習時間が増えてきて。なんとか天才っぽく弾けるための猛練習をするようになるわけです」

その中、忘れられない夏がやってきた。
15歳の夏。

「15歳でいわゆる大人のコンクールと私たちが言ってるコンクールが日本には一つありまして。プロデビューのための登竜門なんです。私は昔から憧れで出たかったんですが。江藤先生はプロなのに本当に出るんだったら優勝しなければみっともないよと。優勝しなければあなたプロから引退しなければならないよ、と」

夏休みにはプランを立てて1日14時間の練習時間を捻出。
そして予選クリア。第2予選もクリア。
そして、本番 本戦 をクリアして優勝した。

音楽の道に進もうって思ったのはこのころなのか?

「コンクールに出て優勝して。ただ、あんまりにも厳しいあの自分で自分を追い詰めたような生活をしてしまったことで、あのそのプレッシャーにちょっと10代でもう ヘトヘトになってしまって。こういう生活が一生続くのかなと。これはちょっと耐えられないなって。ヴァイオリンは好きだけど。プロとしてジャッジされることの悲痛な体験って言うのは耐えられない。そう思って、私は実は20歳の時にヴァイオリンをやめようっていう決心をしたんです」


応援してくれた母親もともに泣き、
そして、20歳の時にヴァイオリンと離れる決意をするのだった。

千住真理子は慶應義塾幼稚舎から始まり慶應義塾大学を卒業。
なぜ音楽高校や音楽大学へ進学しなかったのか?

「あなたみたいな、今、騒がれてる子が音楽高校に来てしまうと僕たちも教えにくいし、周りの子供たちに対しても良くない、となんか来ちゃだめよと。江藤先生に言われてですね。で必要なことは、僕が教えるからと音楽学校で教えるようなことは僕が全部教えるから、あなたはあのこのまま慶応行ったらどうかと言われました」

そして、もう1人、助言をしてくれた人物がいる。

「漫画家、アニメーションの手塚治虫先生と仕事をさせていただいたことがあるんですね。映画 火の鳥 2772という映画で。その時に、手塚先生に相談したんですね。そしたら、真理子ちゃん。僕は、医学の道とアニメーションの道と両方あの行きましたと。どちらかが迷っ時たどちらかの道が僕を助けてくれましたあなたも大変だと思うけれども 2つの草鞋を履くことによって、2足のわらじを履くことによってどちらかが迷った時に必ずあなたの助けになるから、とても大変だと思うけれども。慶応を進むことを推薦します。っていう風に言ってくれて。で、私は手塚治虫先生を大変尊敬していたので、結構決心ができて、慶應女子高。慶応大学に進むことにしました」

そして、思い悩む日々を救ってくれたのも慶応の同級生だった・

「お友達に恵まれました。もう本当に慶応の友達っていうのは本当に寄り添って、私が悩んでいると一緒に悩んでくれて、泣いていれば一緒に泣いてくれて、怒れば一緒に怒ってくれてね。もう本当にあの大切な時間を 私のために一緒に費やしてくれても本当に友情って言いなって今でも友情は続いてますけれども」
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すべては出会いから

2023/09/02
千住真理子とヴァイオリンとの出会いとは

「出会いというかヴァイオリンを始めたのが2歳3ヶ月です。実は私の2人の兄がヴァイオリンを習っていて、兄のヴァイオリンが羨ましくて近寄っていていたずらして、それで私がヴァイオリンに興味を持っているっていうことを知った母がちょっと早いけれど と言って習わせてくれるようになったのが2歳3ヶ月だったということをあとから聞きました」

コンクールに出場できるのは小学校4年生から。
プロになるつもりは全くなく毎日練習していたわけではなかったという。

「どちらかというと下手な部類の子どもでした。ヴァイオリンの先生のおさらい会では、お姉様方とお兄様方と一緒にみんなで合奏するっていうイベントはあって、一緒に混ぜてもらいましたけどね とにかく とにかく引けなかったですね あの 自分でもなんでこんな音がするんだろうっていう記憶はありましたね」

しかし、1972年 第26回全日本学生音楽コンクール東京大会 小学生の部で第2位
そして 翌年には同じ 全日本学生音楽コンクール小学生の部で全国第1位を受賞する。

「その辺りから火がつきました。小学校3年の頃に 同年代のヴァイオリン教室の友達が天才少年とか、天才少女って呼ばれている人たちがいたんですよ。同年代のその子たちがみんな コンクールに出るって言っていて ああいいな、私も出たいって言ったら先生がとてもおかしそうに笑われてね。出たいんだったら出てもいいよ みたいな。それが馬鹿にされてるのが子どもながらわかるんですよね。その辺りから メラメラとこうね 私は馬鹿にされたくないっていう気持ちがに火がついて一生懸命練習するようになりました」

そして、この優勝がきっかけとなり
千住真理子が一生の恩師と仰いでいる江藤俊哉先生に師事することになる。

「小学校5年の時に1位になって それで それがきっかけで小学校6年になった時に NHK から声がかかったんですね それは何か って言うと NHK「若の芽のコンサート」っていうのを行うのでという話になったんですね。びっくりですよね。デビューなんて考えたこともなかったので」

師匠・江藤俊哉との日々を次のように語る

「江藤先生に教えていただくようになりました。本当にお腹が痛くなりました。毎回レッスンで家に帰ると泣きながらやりましたね 一生懸命練習してコンクールで1位になったっていう感覚があったんです。 だから 本当に一生懸命練習しないと うまく弾けないって自分でわかっていたので ちょっとサボると先生にも怒鳴りつけられるほど怒られるんですよね 下手だっていうことで それが怖くって怖くてもう先生のレッスンについていくのはもう やっとやっとでしたね」

食事の食べ方に始まり、
演奏はもちろん、ステージでの立ち振る舞い。
すべてを学んだ。
そして、この時の学びが
千住真理子の礎となっている。
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