NOEVIR Color of Life

EVERY SAT / 09:00-09:30

今、仕事も家庭も自分磨きにアクティブな生き様を実践する女性達。そんな女性達がいつまでも輝く心と勇気を失わず、体も心も健康な毎日を送るため、各界を代表して活躍する女性ゲストが自らの言葉でメッセージを送るのが、このノエビア カラーオブライフ。「生きること、輝くこと、そして人生を楽しむこと」をテーマにした、トークや音楽、話題、情報などが満載です。

TOKYO FM

NOEVIR Color of Life

EVERY SAT / 09:00-09:30

唐橋ユミ

今、仕事も家庭も自分らしく、いきいきと生きる女性たち。いつまでも輝く心を失わず、心も体も充実した毎日を送るため、各界を代表して活躍する女性ゲストが自らの言葉でメッセージを伝えます。“生きること、輝くこと、そして人生を楽しむこと”をテーマにした、トークと音楽が満載のプログラムです。

Guest由紀さおりさん

由紀さおりさん

幼少期よりひばり児童合唱団に所属。1969年『夜明けのスキャット』でデビューし、国民的ヒット歌手となる。1983年には映画『家族ゲーム』で毎日映画コンクール女優助演賞を受賞。1986年より姉、安田祥子との童謡コンサートで活躍。2011年には米ジャズオーケストラ「Pink Martini」とのコラボレーションアルバム『1969』を五十数か国でリリース、世界的ヒットに。「美しい日本の歌を次世代に歌い継ぎたい」という思いのもと、姉、安田祥子と活動を続ける。2012年紫綬褒章受章。

信念と情熱

2021/08/07
由紀さおりの歌手生活。
そのターニングポイントは
「40周年」という節目にあったという。

「何十周年っていうそこはまキーポイントになっていて、新しいものにチャレンジするってこと多いんだけれども、その40周年に向けて、な何人かの新しいスタッフに入っていただいて、みんなでミーティングした時にピンク・マティーニとアルバム作るってどうだろうねっていう話が出たの」

ピンク・マティーニとの出会いとは?

「チャイナ・フォーブスっていうピンクマルティーニの女性ボーカリストの方なんだけれど。私が歌ってる通りに同じように歌って、音色もとても近い方。でこんなふうに歌ってくれて嬉しいなって思ったのが、最初だったんです」

由紀さおりの歌を歌っている外国人シンガーがいる。
その歌い手・チャイナ・フォーブスが所属するグループこそが
ピアノ担当のトーマス・ローダーデールを中心に結成されたピンク・マティーニであった。

由紀さおりは、トーマス・ローダーデールとの共演に刺激を受けた。
そして、国境を超えた交流が生まれ、世界へと誘ってくれたのである。

「世界ツアーへ行く道筋をまた作ってくれて、アメリカツアーで、ワシントン、ニューヨーク、ボストンも行きましたし。ヨーロッパ行きましたし、最後はバーレーンっていうところで歌い。ロサンゼルスのハリウッドボウルでも歌いましたし。楽しい世界ツアーでしたよ」

歌手・女優として走り続けてきている由紀さおり。
これからの考え方とは?

「まあ人生100年という時代になって、本当にその100年を生きるだけの肉体をちゃんと作って、日々暮らしているのかなっていう、ここでもう一回リメイクをしないと100歳までは持たないなーっていう感じはすごくしてる。だから、ここ4年ぐらいパーソナルトレーナーについて運動してるし、骨密度もとりあえずは今の年頃としてはまあまあ大丈夫かなとか」

「この先いつまでハイヒール履いて歌えるかしらってすごく思う。やっぱり今私を三味線お稽古していて、あの唄と三味線の音のこの絡み具合ってのはねものすごく難しいということを直面していますので。でも、いくつになってもまぁ歳を重ねても、着物を着て三味線を抱えてるのは似合うかなと思って。いつからドレスからそうなるのかがちょっとよく分かりませんけれども、芸事は終わりがありませんのでね。女の幸せを捨ててこの道を選んできた私としては、芸事の終わりのない世界をどう生きていくかっていうことが今の一番大きな私の信念と情熱を持って、そこを生き抜いて行きたいなという感じですかね」
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母の言葉

2021/07/31
歌手・由紀さおりの人生において
家族の存在は多大なる影響を与えた。

幼いことから影響を受けた 姉の安田祥子。

「言い方も誤解があるといけないけど、良いも悪いもありましたね。やっぱりすごくあのクラシックを専攻した姉と私は大人の歌い手になりたいっていう時、クラシックは絶対競争したら勝てないと思ってましたから、やっぱりあのものすごいコンプレックスがありました。ただ童謡唱歌に関してはひとつになれたんですよ」

クラシックを選んだ姉・安田祥子。
歌謡曲を選んだ由紀さおり。
2人を一つにしたのは幼いころから歌ってきた童謡だった。
手引きしてくれたのはマネジメントをしてくれた母親だった。

「私は夜明けのスキャットの時にいずみ先生の事務所に我々の業界で丸抱えって言うんですけども、そういう風に契約するのうちの母は嫌がったんですね。それね動揺歌手時代にすごくいじめられたの。それでその母親は娘にやらせたくない仕事は断りたいと、そういうそのスタンスを自分で持ちたいと思って、それでは安田音楽事務所っていうのを作ってくださって、母が社長になってね。私はそこの所属タレントで動揺コンサートは私の会社事務所が主催でコンサートをやらせてもらうように、そこにお姉ちゃんに参加してもらうっていう形でした」

事務所の社長としての母親は厳しかった

「中途半端は許してもらえないって感じ、姉とずっと歌っていつも母は楽屋に行って、いろいろチェックしてくれるんですけども。姉も私も一回も褒めてもらったことはないの。今日は良かったわなんて絶対言わない。それでも頑張ったのにね、なんて姉と私とね。何で褒めてもらえないのかしらねーなんて言って何でなんて言うと”だって私がいいって言ったらあんたたちそれ以上は努力してないでしょ?って”」

母親の言葉で今も心に残るものがあるという。
山中鹿助が言ったという言葉だ

「憂きことのなほこの上に積もれかし限りある身の力ためさん」

良いことも悪いことも、生涯続く、それをどう受け止めるか。
それをどう次につなげるか。

歌手業に邁進する一方で広げた活躍の場が俳優業だ。

「あの挫折したじゃない?高校の時に。それで私はもう歌だめだと思ってね。女優になりたいと思ったの。今思うとこの10曲、私の歌謡曲を歌うとするじゃない?そしてそこに息づく女の人は10人のタイプの違う自分の中の想像の中の10人の女の人がいつもいると思って歌ってんですよ。歌はやっぱり語れって言うじゃない?芝居は歌えって言うじゃない?とセリフはやっぱりシンガーソングライターになれるわけよ。呼吸とか間合いとかって言うののは自分で作れるじゃない?でも歌の場合はもうテンポが決まってリズムが決まっているが決まってるから、そこの中で心情を語るっていうことは、どういうことかなっていうのはいつも自分の中では大事に歌ってるつもりなの」
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やりたいこと。やりたいと思う気持ち。

2021/07/24
17歳でソロデビュー、
しかし、うまくいかない日々が続いていた。
その中、舞い込んできた深夜番組のテーマソングの依頼。

「いずみ先生から深夜放送の夜のバラードという番組のテーマ曲なんだけど歌ってくれないかなって言われて、歌ったのが歌手のないワンコーラス部分のあれが番組のテーマ曲でした。当時深夜放送は花盛りでそこで私もそういう番組のテーマ曲を歌っしてもらうことになりました」

そのオープンんぐこそが
再デビュー曲となる「夜明けのスキャット」だった。
芸名「由紀さおり」としてのスタートである。

「名前変えて誰が歌ってるかわかんないが名前にしようよって、いずみ先生をおっしゃって、先生は色が白いから雪のような白いからゆきっていうのはどうかって?そうしたら、うちの母親が雪は溶けてなくなるから、この業界に向いてませんってクレームをつけて、さおりはうちの母の着物の着付けの先生を始めたばかりだったんですけど、しゃにおるって夏の着物の、しゃってのあるじゃない?で、紹介される1時間ぐらい前に名前が決まりました」

そして、この曲で紅白歌合戦に出場することになるのであった。

「人生はやっぱり出会いだと思いますね。それは自分から求めて行って出会えるものと、ま自然発生的に自分の仕事の延長線上にそういう出会いがあったり、やっぱりやりたいこと、やりたいと思う気持ちは自分にあってそこに進んでいくと自然に出会えるような気がします。自分から求めていくってこともすごく大事だし、求めて行ったその先にそういう仕事があってそこにかかってる人がまた何かを、私に来を引き合わせてくれるって言う。そういうことはずっと繋がって今に至っているのかなと思いますね」
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気づいてもらうことが前に進む秘訣

2021/07/17
由紀さおりと音楽の出会いは
引っ越しという転機で訪れた。

「仕事関係で横浜に移り住んだときに近くの幼稚園でひばり児童合唱団がお稽古していたんですね。姉は合唱団に入ったんですけども私はそれに連れられて小さくて一人で留守番ができなかったから母親が私の手を引いて姉のお稽古に通ってたんだけども、アピール力が私にすごくあったら帰ってくると母親の前で一生懸命、姉がお稽古していた歌を歌っていたんですね。だったら入ったらどう?ということで入団したんです」

ひばり児童合唱団で歌の世界に魅せられた
幼きころの由紀さおり。
高校生になる頃には歌い手として大きな分岐点を迎えた。

「NHKの歌のおねえさんに合格しまして、そこの音楽監督ってか音楽の担当してらした越部信義方がCM ソングをたくさんお作りになってらしたんですねそれで CM をやってみないかっていうお誘いを受けてもう中学3年生ぐらいでしたかしらね学校の制服を着てそのまま放課後、部活を辞めてスタジオに行くというような生活がそれから300曲から400曲ぐらいは歌ってたと思うの」

高校は洗足学園に進学。
1965年に本名・安田章子の名前でデビューした。

「全然だめでもう悲惨でしたねもうあの挫折はちょっとない大人の仕事ってこんなに厳しくて切ないもんだっていうことは本当にどん底に突き落とされた感じでしたね」

そんな中でも由紀さおりは
コマーシャルソングは歌い続けた。
この地道な活動がのちに実を結ぶことになるのであった。
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