NOEVIR Color of Life

EVERY SAT / 09:00-09:30

今、仕事も家庭も自分磨きにアクティブな生き様を実践する女性達。そんな女性達がいつまでも輝く心と勇気を失わず、体も心も健康な毎日を送るため、各界を代表して活躍する女性ゲストが自らの言葉でメッセージを送るのが、このノエビア カラーオブライフ。「生きること、輝くこと、そして人生を楽しむこと」をテーマにした、トークや音楽、話題、情報などが満載です。

TOKYO FM

NOEVIR Color of Life

EVERY SAT / 09:00-09:30

唐橋ユミ

今、仕事も家庭も自分らしく、いきいきと生きる女性たち。いつまでも輝く心を失わず、心も体も充実した毎日を送るため、各界を代表して活躍する女性ゲストが自らの言葉でメッセージを伝えます。“生きること、輝くこと、そして人生を楽しむこと”をテーマにした、トークと音楽が満載のプログラムです。

Guest増田恵子さん

増田恵子さん

静岡県静岡市出身。高校在学中に中学からの同級生ミイとともにヤマハのオーディションに合格。その後、特待生としてヤマハボーカルスクールに通い、歌手を目指す。ピンク・レディーの“ケイ”として「ペッパー警部」でデビュー。「S・O・S」「UFO」など数々の大ヒットを記録し、ピンク・レディー解散後はソロ歌手となり、「すずめ」「女優」などをリリース。現在、歌手にとどまらず女優としても活躍中。ソロデビュー40周年記念アルバムが 今年7月にリリース決定! アルバム収録曲の中から 新曲「Del Sole」が 先行配信されている。

一生 ピンク・レディー宣言

2022/05/28
ピンク・レディー解散、
その3か月後、増田恵子は女優という舞台にいた。

「大学生の役を山本陽子さん主演で、陽子さんの妹役で何ヶ月か出させていただきましたね」

その後やはり歌。
ソロ歌手としてデビューする。

「社長がどんな曲歌いたいって、どんな作家に書いてもらいたいって聞いてくださったので、ダメ元で言ってみようと思って、中島みゆきさんの曲が歌いたいって言ったんですね。そしたら本当に夢が叶って、みゆきさんから、弾き語りのデモテープが届いたんですよ。それがすずめ、何ていい曲だろうと思って、すごい嬉しかったですね」

ソロ歌手とデュオの違いにも直面したという。

「まったく違います。あのクッキーからずっとお互いに、お互いのあの歌い方ではなく、クッキーサウンドを作る。だからいわゆるピンク・レディーのサンドを作る意味で、あるし自分自身を殺して、お互いがお互いの声の間に自分の声を入れていくってか、パーツを埋めていくっていうか、そういう感じの作業なんですよ。
それがソロは何も誰かにはめて行かなきゃいけないものはなくて、自分の声だけで自分の思いだけで歌えるので、全く違いますね」

女優やソロアーティストとして活躍の場を広げる増田恵子。
プライベートでも大きな変化が訪れた。
44歳の時に結婚をした。

「びっくりしました。一生結婚しないと思っていたので。20代の時にすごい結婚願望があって、ある時も結婚しようと思ってた時があったんですね。それがシャボン玉のように消えてしまって、それ以来私はもう仕事一筋決めていたんですよ」

結婚後の変化とは?

「言葉は良くないですけど破滅的に生きてたのかなっていう、なんかこう生きてるっていう実感が欲しくて、ピンク・レディー自体があまりにもいろんな意味でハードだったので、なんかそのまんまできちゃったみたいなんでしょうね。なんか結婚したことでちょっと安定したのかな?根っこが生えた感じ?ちょっとどっしりと安定したかのな、心が安定したかなという気がします」

さらには、17年前にピンク・レディーを再結成。

「とってもわがままだけど自分たちのやりたい時にできるように解散やめようしようって言って、解散やめ発表したんです。これからずっと一緒ピンク・レディーでいましょうって言う」

10年後のビジョンとは?
「あまり考えたことがなかったんですけど、でも10年後も、その時は74歳になってしまいますが、10年後も今と変わらずあの歌えていたらいいなと思いますし、欲を言えばミニスカートを履いてペッパー警部を歌って踊れるの素敵だな。それも会場のみんなと一緒にそんな日が来たらいいなっていう風に思います」
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宝石のような経験

2022/05/21
ピンク・レディーの楽曲。
そのほとんどが作詞家・阿久悠、作曲家・都倉俊のコンビで手がけられた。

「とにかくスター誕生で私たちに対しての悪評をたくさん言ってくださった。すごい怖い先生なんですよ。未だに先生に会うと思うほんと直立不動なんですけど、デビュー前の自分に戻ってしまっていうか、そうですね初心をいつまでも忘れないでいられました。でもいつもお二人はあの大丈夫か?食ってるか?寝てるか?すごく心配してくださってましたね、いつも」

:振り付けは土居甫。

「お願いだから歌える振りにしてってお願いながらスタジオまで向かうんですけど。ドキドキだったんですよね。歌いやすい振り付けでも振りじゃないですよね。手振りじゃないので。だからね、振り付けの前はいつも、気分が落ち込んでいました」

日本列島を駆け巡ったピンク・レディー人気。
その人気は、海を渡った。

「デビューして多分3年ぐらいだったんじゃないかな?ちょっと早すぎて英語も喋れてないですし、海外で仕事をするというのも初めてでした。それもお客さんも全て日本から一人も連れて行かないで現地のお客様の前でコンサートをやりました」

全力で駆け抜け、日本に戻って解散宣言をする。

「戻って少ししてからですけれども、レコード大賞を取った年に紅白を辞退したところからなんとなく周りの冷たい視線をすごく感じていたんですね。当時はやっぱり紅白歌合戦をけるなんていうのはもってのほかだし、ましてやレコード大賞とったアーティストはそのまま車に乗ってNHKホールに行くっていうのがもう常識だったので、何か歯車がちょっと外れかかったんですよね。それがやっぱりあのなかなか修正できないっていうか」

迎えた後楽園ホールで解散コンサート。

「すっごい寒くって、みぞれだったんですよ。なんかこんな悲しいみぞれが降る日、ましては後楽園だしファンのみんなも来てくださるし、寒いし、なんかあまりにも悲しいと思って、後日にしたいと思っていました」

ピンク・レディーの4年と7ヶ月。
どんな時代だったのか?

「やっぱりとても濃い時間を紡いできました。4年7ヶ月ですし、私にとっても10年以上やっていた、それぐらいその責任感と根性と、とっても心を込めて、自分の全てを費やしてきたし、その時代で今後の人生が生きていくのにすごい道標にもなったし、大切なものを学んだだし、今の私を形成したすごい大きな礎になっているので、素敵な宝石箱に入っている宝石です」
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ピンク・レディー誕生

2022/05/14
ピンク・レディー。
そのデビューのきっかけとなったテレビ番組が『スター誕生!』である。

「ヤマハからデビューする予定だったんですけど、高校3年生の春になってもなかなかデビュー日が決まらなくて、それまでとは全く違った肌は一切全部隠して開襟シャツの長袖にサロペットというようなスタイルという二人でものすごい腹黒い作戦を考えて収録の一週間前にあった下見会で一生懸命アピールしました」

彼女たちのパフォーマンスを見て、
獲得の意思を示すプラカードを出したのは、
のちにピンク・レディーのマネジメントを手掛ける人物だった。

「一番前に座っていた相馬さんっていうプロデューサーさんがあげてくれて、合格したと思ったら嬉しくてね。何社があげてくれたのかは、その時は見てなかったんですよ。嬉しくて嬉しくて」

2人と相馬プロデューサーの初対面は一言で終わった

「僕は将来、君たちをアメリカのショービジネスで勝負させたいんです」

衝撃の一言で2人は決めた。
しかし、レコード会社から提案されたユニット名は「白い風船」。
納得はいかなかったが半ばあきらめていたころ、
相馬プロデューサーは吉報をもたらした。

「ピンク・レディーに決まったから!」

2人の人生は本格的動き出した
デビュー曲は「ペッパー警部」。

「とにかくソウルフルな歌を歌いたかったわけであのイントロを聴いた瞬間に鳥肌が立ちました。ヤマハにいた時は自分たちの曲がなかったんですね。人の曲を歌うしかなかった。自分たちのオリジナルの曲なんだこれって…今でも泣けてきます。楽曲もどこにもないような曲でしたし、振り付けがあったからこそこの三味一体になって、運命と言ったらバチがあたるぐらい本当に嬉しかったです」

ピンク・レディーを信じる人々が力を合わせ、
「ペッパー警部」は瞬く間にヒット曲となった。

「4月12日に上京してもう6月ちょっと前ぐらいからトリプルブッキングで2、3時間しか寝てなかったですし、とにかくなんかいつから売れたのかがよく分からなかったです」

ピンク・レディーの伝説は始まったばかりだった。
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ピンク・レディーへの礎

2022/05/07
増田恵子。
歌の原点は故郷である静岡県静岡市にあった。

「6歳違いの姉と3歳違いの姉がいて活発な女の子でしたね。とにかく歌が大好きで当時歌番組がすごく多かったので、大人の歌詞のよくわからない恋の歌とかを歌っていました。そしたら幼稚園の時に合唱コンクールみたいなのが静岡県であって、その幼稚園の年長さんで私も含め3人選ばれてそれで浜松大会まで行って優勝したんですけれど、担任の先生が山口先生って言うんですけど練習の時にいつも褒めてくれてその先生の一言で歌手になりたいっていう夢が決心に変わったんです」

小さな頃から歌手になることを決意していた増田恵子。
中学に進学するとそこで運命の出会いが待っていた。

「中学3年生の時に私はバスケットボール部だったんですけど課外クラブでスポーツをやっている人は文化系を選ばなきゃいけないというので、本当は合唱クラブに入りたかったんですけどなかったので演劇部を選んだのです。最初の日に急いで行かなきゃと思って走っていたら渡り廊下で声をかけられたんです。そしたら三つ編みした女の子が本みたいなのを胸に抱いてニコっと笑ってくれて“私、根本美鶴代、さっき演劇部で一緒だったですよね。これからよろしくね”」それがミイとの出会いでした。

コミュニケーションを重ね、
距離を縮めて行った2人は同じ高校に進学した。
その高校の近くにあったレコード店の張り紙が2人の運命を導いた。

「レコード店の一階から二階に上がる階段の壁に大きな黄色いポスターに真っ赤な字であなたもスターになれるって書いてあって、それぞれソロでオーディション受けて二人とも入賞、それからヤマハのボーカルスクールという所に通い始めたんです」

スクールでは「クッキー」というデュオでの活動を薦められ、
歌手としての道を歩んで行くことになった。
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