NOEVIR Color of Life

EVERY SAT / 09:00-09:30

今、仕事も家庭も自分磨きにアクティブな生き様を実践する女性達。そんな女性達がいつまでも輝く心と勇気を失わず、体も心も健康な毎日を送るため、各界を代表して活躍する女性ゲストが自らの言葉でメッセージを送るのが、このノエビア カラーオブライフ。「生きること、輝くこと、そして人生を楽しむこと」をテーマにした、トークや音楽、話題、情報などが満載です。

TOKYO FM

NOEVIR Color of Life

EVERY SAT / 09:00-09:30

唐橋ユミ

今、仕事も家庭も自分らしく、いきいきと生きる女性たち。いつまでも輝く心を失わず、心も体も充実した毎日を送るため、各界を代表して活躍する女性ゲストが自らの言葉でメッセージを伝えます。“生きること、輝くこと、そして人生を楽しむこと”をテーマにした、トークと音楽が満載のプログラムです。

Guest岩崎宏美さん

岩崎宏美さん

「天まで響け!! 岩崎宏美」をキャッチフレーズに「二重唱(デュエット)」でデビュー。2作目の「ロマンス」で第17回日本レコード大賞新人賞をはじめ、数々の新人賞を受賞。その後「思秋期」「聖母たちのララバイ」など数々のヒット曲を生み出す。1987年にはミュージカル「レ・ミゼラブル」(ファンティーヌ役)に出演。また2006年にはラスベガスにてバリー・マニロウと共演、2007年にはチェコフィルハーモニー管弦楽団とのコラボ・アルバム「PRAHA」をリリースするなど、海外での活動も積極的に行ってきた。2020年4月25日でデビュー45周年を迎えた。

人生を変えた挑戦

2023/01/28
岩崎宏美にとって人生の分岐点がミュージカルへの挑戦。

1987年、レ・ミゼラブル。

「これお話し頂いたのではなくて、オーディション。スター誕生以来のオーディションかな。でも、このレ・ミゼラブル、私にとっては三つ目だったんですね。一番初めがロックミュージカルハムレットと言って、桑名正博さんと一緒に中野サンプラザで行いました。その時に、自宅は江東区にあるのに中野サンプラザに行くともう一つ家族ができたみたいに、なんかすごいあったかいものがあると思って。歌い手っていつも一人だから、なんかこう仲間がいる。ュージカルやりたいって」

岩崎宏美はミュージカルのために人生をかけた。

「私の事務所は舞台はダメって言う所だったので、25歳の頃に独立して自分の事務所を作って、で、屋根の上のバイオリン弾き、森繁久彌さんがおやりになった時の最後の三カ月、ホーデルという役で帝劇に通ってました。その時も嬉しくて、定期持ってね。地下鉄の。で、照明の人が“私定期買ったんだ”って言ったら、定期入れ買ってくれて。その時に大きいポスターがあって、レミゼラブルオーディションって出てたんですよ。私はもう東宝の作品に出てたので、第1オーディションの書類はオッケーで、第2で東宝の方の前で歌うのもオッケー。第三からのオーディションだったんですね。第三からのオーディションが外国のスタッフの前で英語の曲一曲、とレミゼラブルの曲を歌うって言う。すごい、もう怖気づいちゃって。もうねピアノの横に印のついてるところに立たなければいけないんですけど。緊張してそこまであと一歩が出なくて、それでここで歌ってもいいですかって言ったの覚えてるんですよね」

この作品がきっかけで、運命的な出会いもする。
ミュージカル俳優の今 拓哉と結婚。

「出会った印象は、劇団四季出身の真面目の男の子だったんですよ。それで、なんかずいぶん真面目だなっていうのは印象に残っていて。終わってもすぐに帰るし。あの飲み会だけは来るんですけど、なんか終わるとすぐいないっていう印象があったんですね」

そんな彼と舞台での接点とは?

「会話する機会はありましたよ。あのファンティーヌっていう役は、ファンティーヌって前半のもう20分ぐらいで亡くなってしまう役なんですね、その後は顔を汚して、しまのズボン履いてピエールっていう少年でバリケードとかで走り回ってんですよ。その時に、彼は途中からアンジョルラスっていう革命家のリーダーになったので。あのアイコンタクトもしてましたし、頑張ってるの今ちゃんと思ってやってましたから」

やがて2人は惹かれ結婚に至る。
岩崎宏美にとって、今 拓哉の人生は刺激的なものだった。

「とにかく本が好きでねで6畳ちょっとキッチンが付いているぐらいのところから、引っ越してきた割に信じられないぐらい荷物がいっぱいあって、本棚いっぱいになるから本があったんですよ。そのために私が本棚買ったぐらい。でこれどうやってその狭いお部屋に置いといたのって言ったら、段ボールで天井まで積み上げてたって言ってました。図書館とかそういうとこ行けばいいのにと思いましたね」

では岩崎宏美は10年後はどんな自分を想像しているのか

「姿形はちょっと変わっても、気持ちとしてはあまり変わってないと思うんですよね。ただ、60代になって考えることも多くなってきたし、自分の体調も少しずつ変わってきているので。あの元気でいなきゃいけないなっていうのと、でも10年先輩にあの由紀さおりさんとか、あと学校の先輩の森山良子さんとかいらっしゃるので、皆さん見てるとすごい元気だから、そこを目指して頑張ります」
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野口五郎とのデュエット

2023/01/21
日本歌謡界の第一線を走り続けている岩崎宏美。
近年は積極的に様々な挑戦もしている。
野口五郎とのデュエットもその1つ。

「ゴロリンって呼んでおりますけれども。一応4年先輩、年齢的に二つしか違わないんですけれども。4年って大きいですよ。去年は12箇所プレミアムコンサート回らせて頂いた時もほんと楽しかったです」

野口五郎とのレコーディングも新鮮な感覚に包まれたという。

「レコーディングで初めてディレクションしていただいて、私47、8年歌ってますけれども、ディレクターにこうやって歌ってくださいとか言われないまま放し飼い状態だったんですねで。音程がずれてるところとかは直されますけれども。こういう感情で歌ってくださいとかまったくなかったんですよ。それが五郎さんがスタジオに入って来られた時に、何言うのかなと思ったらぶりっ子して歌ってくれるって言われたの。その言葉にドキドキして、歌が変わったんですよ」

初めてデュエットを組んだ相手・野口五郎の存在とは?

「私は歌を必死に歌ったわけですよ。コンサートツアーもずっと毎年行っていまいた。色々話ししていくうちにどんどんなんか氷が溶けていくみたいに前と同じに歌わなくてもいいんだって言う風な気持ちになってきてね。そんなに気張らなくていいんだよって。うちのコンサートにも何回か足を運んで下さって、あの色々アドバイス頂いているうちになんかすごい楽になった。ほんとすごい鎧を取った感じ今」

その野口五郎とアルバムをリリースした。
タイトルは「Eternal Voices」。
タイトルの意味は永遠の歌声。

「二人ともここまで頑張ってきたのでね。それを形にしました。これはどちらからやりたいねって、一応声をかけてくださったの五郎さんなので、アルバム作りながら、宏美ちゃんね今度どんな歌を歌いたいって言われた時に、私シャンソン歌いたいんですよねって言ったら、いいねって言っても二つ返事で」

歌謡界を引っ張ってきた2人がタッグを組んだ。
まだまだ2人は第一線で走り続ける。
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歌うことの喜び

2023/01/14
岩崎宏美がデビューした当時の芸能界とは?

「全く違うと思います。なぜかと、マネージャーの方とか、あと取材を受ける方とかもみんな同じお部屋でそれぞれがやってる姿私たちは見て学んだので、新人は手前に座らなければいけないとか、いろいろもそういう見て学ぶことがたくさんあったんですけれど。今はみんな個室に入るじゃないですか?当たり前のようにスタイリストが付き、ヘアメイクが付いていますよね。私達はくるくるドライヤーを持って、各自、どうらんを塗ってね。全部自分でお化粧するわけですから。メイクさんついていたのはひばりさんとジュリーぐらいです」

当時はどんなスケジュールだったのか?

「ディレクターが曲を決めるので、次はどんな曲が出てくるのかわからないわけですよ。当時は3ヶ月に一枚ずつ新曲出しているので、しょっちゅうレコーディングしてんですよ。ちょっと早いテレビ番組だと、ロマンスがそうだったんですけど、デビュー曲出してもすぐ次の曲をレコーディングしていていました」

名曲「聖母たちのララバイ」に出会ったのは
1982年、23歳の時。

「なんか世界観と言うか山川啓介さんの詞だったんですけれど、お父さんのための応援歌ということでお書きになっているので、戦士とか戦場っていう歌詞が当時の私にはちょっと全然ピンとこなくて。もうこれサスペンスだから仕方がないのかって思ってなかったんですよ」

火曜サスペンス劇場エンディングテーマ。
その反響とは?

「凄かった。私は火曜日は、大阪で生放送やっていたので、サスペンス見られないんですよ。だから一番いいとこで流れているところ見てないから、でも毎週火曜日は最終の飛行機に乗って、毎週大阪行っているので、でもやたらの時期にサラリーマンの方が私に声をかけるわけですよ。本当に、今歌っている歌が好きですとか、普段声なんてかかりやしないのにすごいんですよ。モテ期ってこういうことになっていうぐらい年上の方たちから声かけられていたの、それはもうサスペンス劇場のおかげです」

岩崎宏美が愛してやまないもの。
それはレコーディング。

「皆さんそうだと思います。スタジオにいる時間も楽しいし、私はスタジオにいる時間が楽しいから長くいても何とも思わないし。お腹つけば何か物を取ってもらってご飯食べたりするんですけど、妹の良美が私のレコーディングに遊びに来た時、みんなご飯タイムだったんですよ。そしたらすっごい妹が驚いて、レコーディングのスタジオはすごくスタジオ代高いのに途中でご飯食べてるなんて信じられないって言われて」

十代から二十代、三十代と経験を積んで行った岩崎宏美。
今でも十代のころに吹き込んだ曲を聴くという。

「しょっちゅう聞いていますよ。本当に真面目によく頑張っていたなと思いますし。不安がなく楽しんでいる。それが聞いていると今聞いてもなんかエネルギーになる。同じ声もちろん出ないわけですけれども。一生懸命だったんだなあと思うと愛おしくなりますよね」
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願えば叶う

2023/01/07
歌手・岩崎宏美。
彼女にとっての2023年とは?

「去年が忙しい一年だったんですよ。あまりにもたくさん仕事してしまったので2023年はもう少しのんびりやって行こうかなと思っております」

今もなお、日本歌謡界を走り続ける岩崎宏美。
その幼少期とは。

「東京の下町って今は変わりましたけれどもお家出る時にも鍵をかけないとかお買い物行って母も平気で鍵かけないで出ちゃう。未だに江東区に住んでいるんですけれどもご近所の年配の人たちはみんな私のこと知っているので宏美ちゃん今日休みなのとかあったかいですよ」

その当時、どのような形で音楽に触れていたのか?

「私たち子ども用に買ってもらった絵のついているソノシートみたいなものはたくさんあったので姉が聴きたいものだけを聴いていました。私と妹にはその針の落とし方が下手くそだから触らせてくれなかったんですよ。だから姉のいない時に私と妹で聴きまくっていましたね」

そんな岩崎宏美の名を世に知らしめたのがテレビ番組「スター誕生」だった。

「森昌子さんが中学生でデビューしたのを見て、いいのーと!思った理由は子供なのにこっちゃんが歌ってる姿っていうのもあまりに強烈で、私も小学校2年から歌は習っていたのですか歌手っていう職業が彼女の出現とともに自分の中に生まれました」

中学3年生の時にスター誕生を受けて高校1年生で決戦大会へ。
岩崎宏美は歌手デビューのチャンスをつかんだ。

作詞・阿久悠 作曲・筒美京平
デビュー曲「デュエット」
2作目「ロマンス」などこのコンビによる提供が続いた。

「2人とも好きな人!と思ってびっくりしたんですよ。私やっぱり運が強いと思ったんです。本当に運が強いと思っていました。それまでこうなりたいなと思ったことを確実に叶っていたんですよ。歌手になりたいなと思ったらなれたし、スター誕生に出たいと思ったらハガキが選ばれたり」

岩崎宏美の歌手人生はこうしてスタートしたのであった。
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