NOEVIR Color of Life

EVERY SAT / 09:00-09:30

今、仕事も家庭も自分磨きにアクティブな生き様を実践する女性達。そんな女性達がいつまでも輝く心と勇気を失わず、体も心も健康な毎日を送るため、各界を代表して活躍する女性ゲストが自らの言葉でメッセージを送るのが、このノエビア カラーオブライフ。「生きること、輝くこと、そして人生を楽しむこと」をテーマにした、トークや音楽、話題、情報などが満載です。

TOKYO FM

NOEVIR Color of Life

EVERY SAT / 09:00-09:30

唐橋ユミ

今、仕事も家庭も自分らしく、いきいきと生きる女性たち。いつまでも輝く心を失わず、心も体も充実した毎日を送るため、各界を代表して活躍する女性ゲストが自らの言葉でメッセージを伝えます。“生きること、輝くこと、そして人生を楽しむこと”をテーマにした、トークと音楽が満載のプログラムです。

Guest元ちとせさん

元ちとせさん

母親の薦めで三味線を習い始める。小学生の時に自ら島唄を習い始める。高校3年で「奄美民謡大賞」の「民謡大賞」を史上最年少で受賞。2002年2月6日メジャーデビューシングル『ワダツミの木』がリリース後2ヶ月を経てシングル・チャートで1位を記録。社会現象的な大ヒット曲となった。

一曲でも多く歌いたい

2022/12/03
元ちとせはデビュー間もない頃、
坂本龍一との出会いが人生の分岐点になったという。

「デビューしてすぐ、広島に行く機会がありまして、当時のスタッフが原爆資料館を観に行こうって連れてってもらったんですけど。ものすごい衝撃を受けたんですよ。デビュー前にちょっとこれ歌ってみてって言われた“死んだ女の子”っていう曲があって、当時は意味が分かってなかったんですけど、原爆資料館を見た時に、なんかすごくその曲をもう一回ちょっとチャレンジしたいって思いと、世界に聞いてほしいと思ったので。世界、世界、世界、世界と言えば坂本龍一だと思って、坂本龍一さんにお願いできないかなってダメ元でお願いしたら快諾してくださいました。アメリカでこの曲をとるっていう意味っていうことまで説明してくださったんです。なんか音楽ってすごいなって思って」

今年で歌手デビュー20年の元ちとせ。
この20年はどう流れたのか?

「早かったなって言う気持ちより、なんかすごく一つ一つ丁寧に自分のペースで歩かせていただいた20年だと思っていますし、やっぱり出会いと別れもねありましたし、なんかあのきちんと見失うことなく歩いてこれたかなと思っています」

3週に渡って振り返った自分の人生とは?

「振り返ればやっぱり、生まれ育った場所がスゴすぎたなって言うところの印象が強いかなと思いますけど、生まれ育った場所があったからこそ、こうして歌の旅ができているっていうのは、あらためて感謝するべきところですね」

では、10年後は、どんな自分を思い描いているのか?

「10年後ですよね。でもやっぱりこう、女性として歳を重ねていくっていうのはすごくいいことだと私は思っているので、明るくまあ笑顔の絶えない日々であってほしいですけれども、どうしても歌手として皆さんの前で唄を届けるっていうことが一つでも多くある10年後であって欲しいと思います」
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ワダツミの木

2022/11/26
高校三年生の時に史上最年少で奄美民謡大賞受賞、
すると元ちとせには数多くのスカウト話が舞い込んだ。

「自分がシマ唄をずっとやってきて、音楽を仕事にするっていう想像が全くできなかったですし。あの島にいるという選択もあったんですけど、母がそんなぬるま湯で生活していても島ためにはならないと、だから何か学んで来なさいって。なんか、美容師にはすごく興味があったので美容師になりたいなと思って関西の方に卒業してから」

関西で美容室に勤務、
元ちとせは体調を崩し、
一度、島に帰る決断をした。

「荷作りしていたんですね。島に戻るための。そしたら8時間かけて2年前に島にやってきた怪しい人の名刺が落ちてきて、手帳かなんかに挟んでたんですけど。この人って本当にこの会社があってこの名前なのかなって思ったんですよ。調べたくなって急に電話をしてみたんですよ。ちゃんとその会社の名前で電話に出てくれて、でも次は名前を確認だと思って、「この方いますか」って言ったら「私です」って言ってその方が電話に出たんです」

一本の電話から導かれるように音楽の世界へ。
元ちとせは親を説得し東京へ向かった。
そして、音楽活動は着々と進んで行く。

「この子に何を歌わせたらいいのかっていう模索するデモレコーディングっていうのをずっとやって、曲も作れないので色んな音曲をカバーして。レコーディングしてるところに今の事務所の社長が見に来て、コブシを回すなどの技法は使わず歌っていたら、ちょっとだけ聞いたら全然面白くねって言って、その人そこにあるお菓子食べてすぐ帰ってったんですよ」

シマ唄の技法を封印し歌っていた元ちとせ…
その考えは、当時の社長の提言で変わった。

「シマ唄の歌い方は自分が作ってきたものだったので、そのこぶしと裏声を使って唱えた時に自分の中ですごく納得がいったんですよね。自分の歌い方がこれなんだなーって何で封印してたんだろうって思って、楽しくなってきたらその面白くないって言っていた人が面白いって言い出して」

とはいえ…すぐさまデビューが決まるわけではない。
CDショップでアルバイトしながら事務所の先輩方のコンサートについて行って、
手伝えることがあったら手伝っていう生活を2、3年ほど送った
歌手デビューを目指し奄美大島から東京へ。
そして、メジャーデビュー曲「ワダツミの木」と出会う。

「この曲を作ってくれた上田現ちゃんって言うレピッシュのキーボードをされてた方なんですけど、その方とは、インディーズ時代にオリジナル曲を作ってくださったのが初めてで、現ちゃんとの作業がすごくずっと長かったので、現ちゃんとの曲でっていうのがも馴染みがすごくあったんですよね。違和感もなかったですし。、それこそメジャーデビューとかがよくわかってなかったんです。その曲があるって言うことが嬉しくてひたすら歌ってたっていう思い出が大きいですね」

「ワダツミの木」
この曲のヒットにより出身地の奄美大島が注目された。

「知らなかった人が知ってくれたっていうのはもちろんだったんですけど、あのそれまでに島から出ていた私たちの先輩が君がデビューするまで自分たちは堂々と奄美大島出身だって言えなかったって言ってたのがもう衝撃で、シマ唄歌ってきてよかったっていうのと、島が誇れる場所だとか素晴らしい文化があるって言うことを伝えていかなきゃいけないなっていう覚悟が出来たました」

「ワダツミの木」を歌って20年。
元ちとせにとってこの曲の存在とは?

「音楽に正解はないって教えてもらってるので、受け取る人たちもその日に聞くワダツミは毎日違ってたと思うんですけど。いろんな人にね愛されていろんな方が歌ってはくれてるんですけど、やっぱり私が歌うワダツミが一番いいねって言ってもらえるように歌い続けないといけないなっていうのは思いますね」
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奄美大島

2022/11/19
奄美大島。
元ちとせはこの地で生まれ育った。

「奄美の中でも私が生まれ育った場所は本当に小さな小さな集落だったんですよ。通っていた小学校は私が卒業するまで全校生徒4人でしたし、プールもなかったのでは海か川で泳ぎを学んでいました。ちなみに全校生徒4人中、私、三姉妹なので3人が家族でした」

島で育った・元ちとせ。
小さなころから音楽は身近なものだった。

「音楽番組はすごい好きでしたね。テレビ見ながら一緒に歌ったりとか、8トラっていうカラオケが家にあってお姉ちゃん達は歌う側で私は観客って言うことをよくやらされていました。お父さん達とかお母さん達がお仕事から帰ってくると広場に集まってブルーシートを敷いて各家庭の持ち寄り料理があって、三味線の音を聴いていると言うのはほんとに日常でした」

音楽に包まれた環境で育った元ちとせ。
最初に学んだ音楽は三味線だった。

「小学5年生になってからですね。教室に行くまで40分ぐらいかかる町にあるんですが、週に1回、町に出られるって言うその甘い誘惑に乗って始めました。おじいちゃんおばあちゃん達の楽しみになっていてその集落のちょっと引いてよって言ってくれるのがやっぱり嬉しくて」

すると、「歌う」ということについて意識が変わる出会いがあった。

「三味線を習うために教室に通っていたんですけど、その教室の中に島唄を歌う4つ年上の先輩がいまして、高校1年生から2年生の時に日本民謡大賞って言う全国大会があったんですけど、静かな奄美の民謡で予選から勝ち上がり優勝する姿を見ていて私も日本一になりたいって思っちゃったんです」

自分も歌いたい。
その思いが強くなり中学校2年生の鹿児島の県大会で優勝。
史上最年少で奄美民謡大賞を受賞した。

しかし、高校2年生の時だった。

「高校2年生の時まで本当に島唄が好きで時間が空いていれば三味線弾いて誰かに歌を聞いてっていうのやっていたんですけど、高校2年生の時、友達と遊んだりすることに夢中になって、あんまり練習してない中で大会に臨んだんですけど何の賞も取れなかったんです。師匠がいつも厳しいんですけど その時、何も言わなかったんです。なんてことしちゃったんだろうと思って、ラストチャンスだと思い高校3年生で奄美民謡大賞を取れなかったら一生島唄歌ないって決めてそこからも猛練習しました」

その歌声は東京の音楽関係者に届いた。

「東京のレコード会社の方から連絡があり8時間以上かけてわざわざ来てくださった二人がいるんですよ。長時間かけてきてもらって30分も居なかったと思いますね」

この出会いが歌手デビューへとつながって行くのである。
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