NOEVIR Color of Life

EVERY SAT / 09:00-09:30

今、仕事も家庭も自分磨きにアクティブな生き様を実践する女性達。そんな女性達がいつまでも輝く心と勇気を失わず、体も心も健康な毎日を送るため、各界を代表して活躍する女性ゲストが自らの言葉でメッセージを送るのが、このノエビア カラーオブライフ。「生きること、輝くこと、そして人生を楽しむこと」をテーマにした、トークや音楽、話題、情報などが満載です。

TOKYO FM

NOEVIR Color of Life

EVERY SAT / 09:00-09:30

唐橋ユミ

今、仕事も家庭も自分らしく、いきいきと生きる女性たち。いつまでも輝く心を失わず、心も体も充実した毎日を送るため、各界を代表して活躍する女性ゲストが自らの言葉でメッセージを伝えます。“生きること、輝くこと、そして人生を楽しむこと”をテーマにした、トークと音楽が満載のプログラムです。

Guest富田靖子さん

富田靖子さん

1969年生まれ。福岡県出身。1983年映画デビュー作となる「アイコ十六歳」で第8回日本アカデミー賞・新人俳優賞受賞。1989年「あ・うん」で「第13回日本アカデミー賞」で「助演女優賞」優秀賞を受賞。映画、ドラマで活躍し続けている。

人生の分岐点は今

2022/11/12
俳優・富田靖子にとって
人生の分岐点は「今」だという。

「いつ頃からこんなふうに思ったのかわからないんですけど。今が積み重なって、それが過去になって。過去に積み上げていたものが自分のその先、未来につながるので、今を大切にせず未来はないなと思うので、今が分岐点だって言うふうに。だからこの今を気負うことなく、嘘つくことなく。あるがままちゃんと歩みを進められたらなーって思ってます」

では、今を重ね続けた未来。
どんな作品に出演したいと考えているのか?

「なんでしょう?そういう作品に出会えるかどうかわからないんですけど、やっぱり心温まるものだったり、ファンタジー系が好きなので、大林監督の作品もちょっとどこかファンタジーを感じる作品だったと思うんですけど、是非ちょっとファンタジーを感じる作品に機会があればまた挑戦してみたいなとは思います」

4週に渡って俳優人生を振り返った。
その感想とは?

「改めてやっぱりお芝居好きなんだなって思いました。小学生の時に本当はバスケットボール部に入りたくて、クラブ活動をしていたんですけど、人数が多すぎてじゃんけんで負けて、演劇クラブに入ることになって、そこから演劇をやるようになって、それがなかったら果たして芝居をしていたかどうかわからないんですけど。不思議だなーって、小学校の時に自分の好きなものに出会えたことは本当にラッキーだったな、良かったなーって思います」

最後にリスナーへ。

「外に出たくない、ちょっときついなって思う時こそ、あの外に出ることをお勧めします。外の空気で体が、細胞がリフレッシュする事って絶対あると思うので、そういう時こそ、ちょっと玄関を出るところまできついけど、思い切ってそこは玄関から一歩素敵な靴を履いて、あのお散歩に出かけることをお勧めします。可愛いワンちゃんに出会うかもしれないし、猫にも会えるかもしれないし。なんでもない一歩が次の一歩をポンって背中を押してくれると思うので」
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オンとオフの切り替え

2022/11/05
「アイコ十六歳」、「さびしんぼう」で主演を務め
その後も数々の作品に出演した。
当時の生活とは?

「あっという間に過ぎていったように思います。映画の撮影これだけ10代にやらせていただいたにも関わらず、あまり覚えていないっていう、忙しさのあまり記憶がちょっとこう抜け落ちているような感じでもあります。その変わりに作品が残っているって言う感じです」

駆け抜けた10代。
自分の作品を見ることはあるのか?

「ないです、ほとんどないです。あのリバイバルで、映画が公開されるときに舞台挨拶をするという時は一応見ておこうと思って見るんですけど、そういうことがない限り見ることはないです。私にとって大切な作品は、自分の出ていない作品なので、色んな作品を見て自分がどんな作品を求めているのか?自分はどんな音が好きでどんな映像が好きということを探していることの方が多いです」

今は、韓流ドラマに夢中だという。

「『ウ・ヨンウ弁護士は天才肌』が大好きで、私はこういうドラマこういう世界観が好きだっていうのを改めて確認して、自分が好きな芝居を確認しながらやっぱり私は芝居が好きって言って、また次の日に撮影に行くっていう感じです」

お芝居が好きで好きで仕方がない。
そんな彼女の人生の分岐点は
10代の最後に半年間の夏休みを過ごしたことだという。

「後にも先にもこんなにあの真剣に遊び続けたことは無いと思います。19歳ぐらいの時に高校卒業したぐらいから連続ドラマをやらせていただいたり、映画をやらせていただいたりっていう日々が続く中で、あのなんか止まってしまったんです。なんか砂時計の砂が全部落ちきった感じで、それをひっくり返してまた時を刻むっていうことが自分の子をひっくり返す力がなくて、どうしたもんかなとボーっとしていたらマネージャーさんたちがやってきて、休むかっていって半年間の休みに入ることになりました」。

カラオケで友達と歌を歌ったり、
ファストフードのお店に入ったり、
高校時代にできなかったことを取り返した。

「高校卒業して仕事を持ったり大学生になった子達とちょっと夜深い時間までお菓子食べながらお話ししたり、なんでもない毎日を半年間やり続けました」

半年間の休みを経て砂時計が動き始めた富田靖子。
富田靖子が俳優人生を振り返った思い出深い作品とは

つかこうへい「飛龍伝'90」
地元福岡県の物語 ドラマ「めんたいぴりり」
井上ひさし原案の舞台「母と暮らせば」

富田靖子は台詞をどこで覚えているのか?
「母と暮らせば」の時を振り返る。

「再演の時はすぐに覚えられたんですけど、初演の時が2週間ぐらい布団の中に丸まって覚えました。
布団の中に入ってうおぉぉぉって思いながら、あの暗い中丸まって覚えてました。なんかあの蚕が繭の中にいる感じで、丸まってもう覚えられるんだろうか人はとか思いながら、でも覚えられました。
人は、覚えられるんだなーっていうのを体験しました」

犬と散歩をしながら覚える時もあるという。

「風景感じながら、音楽聞いてるふりをしてイヤホンを入れて、何かの本を読んでるかごとく台本読みながら、その時には半分ぐらい入ってるので、あんまり台本を見てないんですけど、一応手に持って、犬がゆっくり、まあゆっくり歩くので、ゆっくりに合わせてのんびりのんびりセリフを入れて言ってます」
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時には、立ち止まることも必要

2022/10/29
富田康子のデビュー作 映画「アイコ十六歳」
この作品の2年後1985年に公開された映画「さびしんぼう」もまた
富田靖子の人生にとって分岐点となる作品となった。

「ファンの方とお会いする時にサインしてくださいって持って来られるパンフレットの数がナンバーワンに多いのがこの作品で、デビューしてもう何十年ってなるんですけれど、2年目にしてそういう作品に出会えたこと、大林監督の作品に関われたことこのやっぱり自分にとって大きいことだったんだなーって年を重ねるたびに思います」

高校の冬休みの期間に撮影した「さびしんぼう」で一人三役を演じた。

「当時はそんなに大変なこととは思わず撮影をしていたんですが、今にして思うと、私よくやったわと思いますね」

メガホンをとった大林宣彦監督との思い出も色濃く残っているという。

「こうやって!とは言われたことはあまりなく、今日もよろしくねって言って握手して始まって、監督が1度、大声を出したのをすごく覚えていて、犬が港をテクテク歩いて、フレームの中に入ってきたんです。助監督が慌ててワンちゃんを退かしに行こうとしたら、監督が“ダメそのまま”と言って、尾道のそのまま風景を残したかったらしく、突然然入ってきた犬のお客様もウェルカムでした。監督の思いの中でちゃんと動けている。そんな不思議な現場でした」

中学生で芸能界デビューし走り続けた富田靖子。
学業とのバランスは、、、。

「神奈川県立の高校に通っていました。映画のお仕事は夏休みと冬休みしかしていなかったので両立というほどでははい普通の学生生活もちゃんと満喫していました」

しかし、同級生と悩み事は共有できなかった。

「同級生には当時自分の悩みを話すということはなかったです。高校の友達と本当に仲良くなれたのは卒業して彼女たちが仕事というものを持った時に初めて自分が抱えている仕事のこととかを話せるようになりました」

芸能と学業。
その生活にバランスを崩したこともあった。

「ひと月ぐらい学校に行かなくてブランコに乗っているところを会社の人に発見されて学校に行っていないことが分かってしまい担任の先生に怒られて、ただその時は何で行かなかったのか理由はなくて、その時に先生も当時のマネージャーさんも学校に行ってと泣きながら言われました。その後、普通に学校に通うようになってなんか静かに戦っていた感じがしますね。学校から出てしまうとやっぱり仕事をしていたので置き場がなかったのかなぁと今にして思えば、立ち止まる事って必要だったのかもと」
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富田靖子

2022/10/22
俳優・富田靖子。
彼女は福岡県で幼少期を過ごしていた。

「遠い山の上にお家があって学校まで特に中学校までは40分ぐらいあってちょっと遠かったので帰宅の時、カバンが重いのでみんなで電信柱から電信柱までじゃんけんして負けた子があの持って走って持って走ってということをやりながら長い道のりを退屈しないようにみんなで帰っていました」

活発な少女は芸能界に憧れを抱いていた。

「ちょうど私たちの時は薬師丸さんが野生の証明やセーラー服と機関銃、原田知世さんが時をかける少女でデビューされて映画が公開されるたびにバスに乗って1時間かかる所の映画館へ。中々頻繁には行けなかったんですけど本屋さんが近くにあって、当時の雑誌にはオーディション情報がいっぱいあって、お芝居することがとても身近に感じてこれ受けてみないなんて期限がもうないよーとか終わったよーなんて言いながら本当に学生生活の一部だったように思います」

最も憧れていたのは薬師丸ひろ子だったという。

「神です。神です。セーラー服と機関銃の LP 盤、音だけが入っているものでそれを聞いてみんなでひろ子さんのセリフを聞いて、みんなで憧れて、その数年後に自分がそんな仕事をするとは夢にも思ってなかったんです」

そんな彼女が映画の主役に抜擢されたのは14歳の時だった。
デビュー作は映画「アイコ十六歳」

「オーディションの締め切りギリギリだったので慌てて送ったらなんかそのままスルーと一か月後ぐらいにはもう決まって2ヶ月後には撮影だったので、博多弁しか喋ったことのない私が名古屋弁という触れたこともない言葉を覚え大きいカメラの前で芝居をするというとんでもないことになっていました」

主役決定に至るまでのオーディションとは?

「私は最終オーディションの後に合流したので、もうみんな真剣でレベルが全然高く気合が違っていたので最初はとても怖かったです。みんなについていくのに必死でした。言葉も標準語も喋れず名古屋弁でも喋れず、博多の自分の言葉で押し通していたので、なんか受かりそうな気もしていたのです。松下由樹ちゃんがいて身長が当時170近くあってその背の高い女の子の役にほぼほぼ抜擢されるのはもうみんな全員分かっていたんですけどもし彼女の身長が160センチぐらいだったら、彼女があのアイコ役を射止めていたと思います。それぐらいずば抜けて光り輝いていてすごくそれを羨ましく見ていました」

14歳の少女を芸能界に送り出すこと。
両親はどう思っていたのか?

「大反対でした。受験生だったんです。受かった後に気付いたんですけど、私、受験生で高校受験があるのに夏休みに映画の仕事はダメでしょって。その中、叔父が好きなことをやらせてあげて欲しいって父に助言してくれて、この作品だけっていうことで。もう行ってしまったらこっちのものと思って今に至るっていう感じです。現場での出来事ですが、後々自分が女優の仕事を続けていって聞いたんですけども佐藤二郎さんとお仕事した時に靖子ちゃんの斜め前にアイコ十六歳のとき座っていたんだって」

その撮影の日々とは?

「分からないことや14歳の自分では乗り越えられない課題も多く、今だったらそれはそれで乗り越えられないことがいいんだよって思えるんですけど、当時はその課題をクリアしなきゃいけないっていうことばかり考えていて、なんか空回りしていた自分を思い出します。アドバイスの中で、アイコになるんだよ
それが疑問だったんですアイコになるってどういう事?みたいな、今だったらそれを大きな意味でいろんな角度から受け止められるんですけど当時はひたすらあのどうしていいのかわからずパンパンでした」

こうして富田靖子は演技の道へと進んで行った。
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