NOEVIR Color of Life

EVERY SAT / 09:00-09:30

今、仕事も家庭も自分磨きにアクティブな生き様を実践する女性達。そんな女性達がいつまでも輝く心と勇気を失わず、体も心も健康な毎日を送るため、各界を代表して活躍する女性ゲストが自らの言葉でメッセージを送るのが、このノエビア カラーオブライフ。「生きること、輝くこと、そして人生を楽しむこと」をテーマにした、トークや音楽、話題、情報などが満載です。

TOKYO FM

NOEVIR Color of Life

EVERY SAT / 09:00-09:30

唐橋ユミ

今、仕事も家庭も自分らしく、いきいきと生きる女性たち。いつまでも輝く心を失わず、心も体も充実した毎日を送るため、各界を代表して活躍する女性ゲストが自らの言葉でメッセージを伝えます。“生きること、輝くこと、そして人生を楽しむこと”をテーマにした、トークと音楽が満載のプログラムです。

Guest荻野目洋子さん

荻野目洋子さん

1968年12月10日生まれ、千葉県出身。小学4年生でちびっこ歌番組に出演。その後スカウトされ、5年生でグループ「ミルク」を結成し、レコードをリリース。中学2年の終わりに歌手になることを本格的に決意。中学3年から歌手としての準備、さらに、オーディションで受かったアニメ「みゆき」の声優の仕事を始める。高校1年の春、歌手としてデビュー。17歳の秋にリリースした7枚目のシングル「ダンシング・ヒーロー」で初のベストテン入り。その他に代表曲は「六本木純情派」や「コーヒー・ルンバ」などがある。

笑っていられる時間を大事に

2022/12/31
2001年にプロテニスプレイヤー辻野隆三選手と結婚。
子育ての日々を過ごす中、愛娘達は母親が芸能人という認識はあったのか?

「最初は全然分かってなかったと思うんですね。私家で自分の曲とか一切書けなかったので。でもだんだんテレビ番組とかで80年代の特集をする番組が増えていってチラチラ出始めたんですね。私の過去の映像が。
そのうちだんだん私も子供が大きくなるにつれて、お仕事増やした感じだったので。でも本格的に認識したのはやっぱりあのリバイバルヒットと言うか、大阪の登美丘高校の皆さんが踊ってくださって、すごくバズったり、平野ノラさんがコントの出囃子で使ってくださったりとか、そういった時だと思います」

2017年にダンシングヒーローリバイバルヒット。
大阪府立登美丘高等学校ダンス部が
バブリーダンスを踊った動画が YouTube で注目された。

「あれは突然の出来事だったので。私自身が一番驚きましたし、こんなことがあるんだなーって。キッチンで何か作っていた時、平野ノラさんが出演されている番組とか流れていて、へーって思いながら面白いって感じでいたんですけども。登美丘高校の皆さんの動画がバズった時は誰しもが思ってなかった展開だったと思うんですね。あれよ、あれよという間にすごい再生するになって。あの時はもう本当に何が起きたのか自分でもよくわからなかったです」

再生回数は1億回以上。


「もうそんないってますか。すごいな。他人ごとになっちゃうんですけど。この時の裏話としては当時私娘二人が受験生だったので。すごくなんかの大変でお弁当作りもそうですけど、朝お弁当作るけど、夕方にも塾に届けになれたかしてて。忙しかったですね。テレビ番組のオファーも一気に増えたんですけど。その合間に一回帰ってご飯作ったりとかもしてましたし。それでまたあのスタジオ戻ったりとか。マネージャーさんも大変でしたけど。本当にこの業界のお仕事ってすごいですね。ジェットコースターみたいです」

4週にわたって人生を振り返った感想とは?

「割と若い時から前を向いてがむしゃらに走っていくタイプなので、たまにこうやって振り返る機会を与えていただくとまあまあいいかな、みたいな確認になります」

荻野目洋子からリスナーへのエール

「私もそうなんですけど。もうなんか自然体で周りの人達といつも楽しく笑っていられる時間を大事にして行けたらいいですね」
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全てはコミュニケーション

2022/12/24
荻野目洋子は人生の分岐点として、結婚と出産と挙げた。
結婚の相手は元プロテニスプレーヤーの辻野隆三氏。
出会いは高校生の頃だった。

「テニス選手って世界でも日本でも年間たくさんの試合を回って回ってそのポイントを稼いでいて、ランキングが決まって行くので、当時の彼は学校と両立していたんですね。私は私でご存知の通りその芸能活動と学業両立していて、お互いにすごく気があったと言うか。話があの目標とするものがあって生き方が似てるなーっていうのが、最初に思った印象ですね」

2人は自然と惹かれあって行った。

「私のこと全然知らなかったんですね、彼は。海外にいるときには当時、ビデオ屋さんに行って日本のテレビ番組をビデオで借りたりはできたそうなんですけど。でも私がそのヒットしてからのこととか全く知らなかったので、普通に高校生として出会って、話が合うっていう感じの感覚だったので、私もそうでしたし、そのテニスの選手のこととか試合のこととか何も知らずにへーへーそうなんだっていう感じで、話が尽きない感じでしたね」

同級生の2人は結婚に至った。

「10代のときはそのまま結婚ということはなかったですけども。お互い目標があったので、そのまま貫いて大人になっても待った再開することがあったんですね。それってやっぱりなんか馬が合うねっていう感じですぐにお互い結婚しようって思いました」

コミュニケーションの秘訣をこう語る。

「うちは主人が色々な所に行く場面が多いですけども、子供たちが小さかったうちは私も仕事をセーブしたりとか、主人もごはんの時間は必ずみんなで一緒に食べようとか、あとは黙ってることが良くないみたいな感じでコミュニケーションをすごくとる努力はしてきたかもしれないですね」

では、芸能生活をセーブしていた子育ての日々とは?

「毎日楽しかったですね。あの子供が小さい家って本当に1日1日発見そして成長の連続だったので目が離せないし、もちろんそれが大変だと言えば大変なんですけど。まぁ無我夢中で過ごしてきました。自分の中にこんな母性があったんだって思うくらいなんかこうあらゆることが、新発見。自分で自分を新発見みたいな感じで手芸をやり始めたりとかミシンなんて全然使ったことなかったのに、気づいたら自分の母親がしてくれたことを自分がやっている。育児本よりも親にしてもらった事ってのが大きいことだって実感しました」

娘たちとのコミュニケーションは?

「あのいっぱい話はするんですね。とは言ってもやっぱり小さい時から一番私自身が母親として、見守ってる自信はあるので、ちっちゃいだからこういうこと好きだったよとかあのそういう話はよくしますね。なんかそのいろんなことに影響を受けていく今だけど、情報もたくさんあるし。ありすぎるし。そういうので選ぶのがね大変な世代だよなぁと思うんですけど。そういった中で自分のその本心で、何かに影響されたりとかあるんだけど、自分の本心に正直に来て欲しいなあと思います」
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ダンシング・ヒーロー

2022/12/17
荻野目洋子のソロ歌手としてのデビューは高校1年生の時だった。

「小学生の時、ミルクというグループをやっていた時に今の事務所の社長と会っているんですけれども。歌手としてのデビューに向けても、声優の仕事を続けながらレッスンもスタートしたという感じなんです」

同期の歌手は、菊池桃子、吉川晃司、長山洋子など
そうそうたる顔ぶれが揃う。

「もう毎年本当にたくさんの歌手の方がデビューされていて、本当にこんな中でやっていけるのかなって不安はありましたけどね。もうがむしゃらにやっていました。当時は、音楽祭とかがたくさんありまして、その中で新人賞みたいな。新人賞レースと呼ばせたんですけど。私たちが競走馬のようにそのステージに立って事務所の方達がビシバシすごかったんです。ライバル意識が。ウチがとる!みたいな。だから本人たちはすごく仲良くやってるんですけど。結構その周りの方たちのひしひしとしたプレッシャーがすごいありましたね」

しかし、ソロ歌手として活動をしたもののヒット曲には巡り合わずにいた。
そして、デビューから1年半後
あの大ヒット曲「ダンシング・ヒーロー」と巡り合うことになる。
7枚目のシングルだった。

「枚数で言うと、そんなにあったのって思うと思うんですけども。当時は1年に3枚のシングルとアルバムを出すみたいなすごいハイペースだったのでも、あっという間に7枚目になりました。初めて聞いた時は、あのこの曲イギリスの洋楽をカバーしているので、ものすごくアグレッシブな大人の女性の歌って言う EAT YOU UP ってタイトルだったので。本当に女性が男性のあなたをモノにするわ言ってしまえばそういう歌だったので。これを私歌えるのかなってのが第一印象でしたね」

ダンシング・ヒーローは海外のカバー曲。
この曲になった経緯とは

「次の曲はどうしようかっていう時に事務所の社長がビクターの当時のディレクターさんに何かいい曲ないって聞きに行ったときに、引き出しの中から出てきたのがダンシング・ヒーローだったんです。それを聞いて、事務所の社長がこれすごくいい曲だから。荻野目に合うか合わないか云々よりも別の人が歌っても売れちゃう曲だと思うって言ったらしいんですよね。なのでレーディングしてみようみたいなそういった経緯で」

「あの本当に皆さんこれは声を大にして言いたいんですけど、奇跡なんですよ。ヒット曲が生まれるっては。
あのどんなに頑張っても、どんなに自分がこの曲いい曲だなーってその作詞家さん、作曲家さんが作ってくださった作品が本当にいいなと思っても、自分の歌唱力は足りないのかなーとか色々思い悩むんですけど、ヒットに結びつくてはもう奇跡です」

そして、特徴的だったのはあのダンス。

「振り付けがそれまではザ・アイドルって感じで、手振りって言うんですけど。マイクをもって、その横で手を振るとか、指でポーズをとるようなそんな振り付けが多かったんですけど。ダンシング・ヒーローではリズムを足で取ったりとかビート感をとにかく感じるような振り付けをスタッフさんか言われて、いきなりそれはねもっと急激な変化でした」

荻野目洋子にとって「ダンシング・ヒーロー」とは?

私の人生において最大のターニングポイントですね。
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幼少期から描いていた歌手への夢

2022/12/10
荻野目洋子。
エンターテイナーとしての素質は
幼少のころから花開いていた。

「近所の子供たちと一緒に普通に遊ぶごく普通の少女でした。実は母が割と引っ越し好きで約5年おきに点々としていました。友達と別れるのが寂しかったですね。でもそういうライフスタイルはポジティブに行くしかないって子どもながらに思っていましたね」

その荻野目洋子が音楽に興味を持ったのは
まさにこの頃だった。

「お祭りで素人さんが出場できる今で言うのど自慢大会ですね。そこに出場したら準優勝して、それがすごく嬉しくて歌うことは好きになったんですね。その後にテレビで見た大スター山口百恵さんのオーラと言うかブラウン管を通してもこんなに影響力を与える人ってすごいなってビビビビビって衝撃が来て歌手になりたいと思いました」

その後は、子どもが出場できる歌番組に出演。

「山口百恵さんやアンルイスさん、大橋純子さんなど小学生にしてまませた感じの大人っぽい曲を選んでいました」

すると、その活躍はプロの目にもとまった

「ミルクという3人組でレコードも出させてもらいました。5年生と6年生の夏休みを利用して取材とかテレビとかも出させていただいたりしてちょっと仕事していましたね。何もかも新鮮でした」

その後は声優のオーディションでアニメ「みゆき」の主人公に抜擢された。

「本当に大ベテランの方達に囲まれていたのですが、週に1回、学校終わったら新宿まで通っていたんですけど、私がお茶汲みをしなさいと言われ中学生で社会勉強させてもらいました。その後高校1年でデビューできたのでバイト経験もなかったですし良い経験になりました」。

そして、荻野目洋子はソロシンガーへとステージへと移すのであった。
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