NOEVIR Color of Life

EVERY SAT / 09:00-09:30

今、仕事も家庭も自分磨きにアクティブな生き様を実践する女性達。そんな女性達がいつまでも輝く心と勇気を失わず、体も心も健康な毎日を送るため、各界を代表して活躍する女性ゲストが自らの言葉でメッセージを送るのが、このノエビア カラーオブライフ。「生きること、輝くこと、そして人生を楽しむこと」をテーマにした、トークや音楽、話題、情報などが満載です。

TOKYO FM

NOEVIR Color of Life

EVERY SAT / 09:00-09:30

唐橋ユミ

今、仕事も家庭も自分らしく、いきいきと生きる女性たち。いつまでも輝く心を失わず、心も体も充実した毎日を送るため、各界を代表して活躍する女性ゲストが自らの言葉でメッセージを伝えます。“生きること、輝くこと、そして人生を楽しむこと”をテーマにした、トークと音楽が満載のプログラムです。

Guest庄野真代さん

庄野真代さん

大阪出身。
1976年フォーク音楽祭をきっかけに、日本コロムビアからデビュー。
1978年「飛んでイスタンブール」「モンテカルロで乾杯」などが大ヒット。
ニューミュージックを代表するシンガーとして活躍。作曲、執筆、舞台演劇など多方面での活動も多い。
2006年早稲田大学院アジア太平洋研究科修了。同年NPO法人国境なき楽団を立ち上げ、音楽を通した社会貢献活動を展開。現在は国境なき楽団PLUS代表。子ども食堂しもきたキッチン主宰。

音楽、NPOにチアリーディング・・・皆に笑顔を届けるために

2025/03/29
1ヶ月に渡ってお届けしてきたシンガーソングライターの庄野真代さんのライフストーリー、今回が最終週でした。

音楽活動にとどまらず、NPOの設立、子ども食堂の運営、シニアチアリーダー、さらにはミュージカルまで、“半歩先”への挑戦を続ける庄野真代さん。

◆NPO設立、こども食堂のオープン
大学院で「音楽による国際支援」を研究していた庄野さんは、修了を待たずにNPO法人「国境なき楽団」を設立。もともとボランティア活動に関心があり、音楽を通じて子どもたちや社会とつながる場を作りたいと考えていたといいます。

「テーマを探していて、最後にたどり着いたのが“音楽でできる社会貢献”だったんです。だったら、NPOも一緒に始めちゃえって」

手探りでの設立申請、何度も書き直した書類。それでも「やりたい」という思いがすべての原動力でした。
ですが、自らの活動を振り返る中で、「もしかしたらエゴだったかもしれない」と語る庄野さん。

「でも、美味しいものを人に“食べてみて”って勧めるのもエゴですよね。私が感動した音楽や経験を、誰かと分かち合いたい、それだけだったんです」

そんな思いから、地域の子どもたちのための活動にも目を向け、2018年から子ども食堂をスタート。現在は、月に一度、家族でのディナー形式の食事会や食品配布も行っています。

◆シニアチアで、笑顔を届けたい
さらに、63歳で「シニアチア部」を立ち上げた庄野さん。メンバーは現在14人、平均年齢は62歳。ハイキックはしないけれど、ラインダンスに励み、週一度の練習、そして、年に一度の大会にも出場しています。

「歌でもチアでも、やってることは同じ。“笑顔を届けたい”っていう気持ちなんですよね」

SNSに投稿された華やかな衣装や、笑顔の仲間たちの姿は、多くの人に元気を与えています。

さらに、25年ぶりとなるミュージカル『プラハの橋』にも出演。3人芝居で出ずっぱりの舞台に挑みました。

「セリフ覚える自信ゼロって言ってたんです。でも、できるもんですね(笑)。毎日が発見で、課題がどんどん出てきて。もっと続けたかったです」

夫と恋人、どちらにも愛される役を演じ、「人生でこんな贅沢な経験はもうないかも」と笑顔でお話しくださいました。

次なる夢は「旅するシンガーYouTuber」という庄野さん。
エネルギッシュで常に挑戦を続けるその姿勢は、
お話を伺っていても元気のお裾分けをいただいている感じ。

「人からは、またって言われるんですけど、何か思いついたとき既に足が半歩前に出てるタイプで、足半歩前に出ると体が前傾するから反対の足も出さなきゃならなくなる・・・
でも、私の足はいつでも引っ込められると思って出してるんですよ。違っていると思えば引っ込めればいい。向いてないと思ったら足引っ込めればいい。でも、とりあえず出してみようってそんな感じ」

新しいことを始めるのに年齢は関係ない!
そう思わせてくれる柔軟さと情熱がとっても素敵な庄野さん、
これからのチャレンジも楽しみです!

★「庄野真代コンサート~Domestic Mayo Line 2025 in Tokyo」
日時:2025年6/15(日)開場16:30 開演17:00
会場:こくみん共済coopホール/スペース・ゼロ

今年も恒例の庄野真代コンサートが新宿・スペースゼロで開催予定。
最大の特徴は、ファンからのリクエスト曲で構成されること。
デビュー当時の楽曲や、思い出の曲が選ばれ、庄野さん自身も「自分の音楽の歩みを振り返る機会」になっているというこのコンサート。リクエストは庄野さんの公式サイトから受付中。
エピソード付きで送れば、ステージで紹介されるかもしれませんよ!
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子育て、大学生活、社会貢献活動・・・終わりなき挑戦の日々

2025/03/22
今週もシンガーソングライター庄野真代さんのライフストーリーをお届けしました。

子育てと仕事の両立、綱渡りのような日々
シンガーソングライターとしての活躍の傍、二人の娘さんを育て上げた庄野さんですが、長女はアメリカで、次女は日本と全く違う出産経験をされたそう。アメリカ・ロサンゼルスの病院では初産ということもあり、戸惑うことも多かったのだとか。出産翌日には早々に退院を促され、「まだ抱き方もよくわからないのに」と不安を抱えながらの育児スタートだったと振り返りました。
一方で、次女は日本での出産。手厚い看護を経験されたそうですが、二人とも同じく健康に育ったと、微笑ましく話します。
さらに、出産後も完全には仕事を離れず、環境に応じて少しずつ復帰された庄野さん。総合プロデューサーとして、ご自身の手でなくても信頼できる人がいれば仕事を任せられるという考えのもと、育児と仕事の両立に取り組んだそう。講演、司会、レポーター、料理番組のパーソナリティなど幅広く活動され、料理エッセイも出版されています。
料理は子どもの頃から好きで、中学生の頃には母親に代わって台所に立っていたそうで、「冷蔵庫のもので何かを作って、『私って天才!』と思うのが好き」とチャーミングな庄野さん。

45歳で大学進学、そして留学、社会貢献への道へ
2000年、45歳で法政大学人間環境学部に社会人入試で入学された庄野さん。「環境問題をもっと深く学びたい」という思いを実現するため、病気と事故を経て「命には限りがある」と実感されたことがきっかけだったそう。
在学中にはロンドンのウェストミンスター大学へ奨学金留学もされ、3000人の応募者の中から30人に選ばれるという快挙を成し遂げられました。大学ではボランティア団体を立ち上げ、コンサートを聴きに行けない人々のもとへ音楽を届ける活動も行われました。
2004年には早稲田大学大学院アジア太平洋研究科に進学。人間地理学に興味を持ち、文化と経済開発の両立について研究。英語の面接では苦戦したものの、熱意を伝えることで合格を勝ち取られんだとか。
学びの中では、「経済発展の名のもとに破壊される文化や暮らしをどう守るか」というテーマにも向き合い、人間としてできる社会的な役割について深く考えられるようになったといいます。

“やりたいことリスト”は50項目以上
チャレンジ精神旺盛な庄野さん。「やりたいことノート」に、人生で挑戦したいことを50項目以上書き出しているそうで、「スカイダイビング」や「お花屋さん」の夢は諦めた、と笑いますが、「旅館の女将」という夢については、現在は子ども食堂で“食堂のおばちゃん”として活動されていることから、別の形で実現されているよう。


来週の放送では、庄野真代さんの社会貢献活動や今後の展望についてさらに深くお話伺います。
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音楽と旅がもたらした人生の転機

2025/03/15
今週もシンガーソングライターの庄野真代さんのライフストーリーをお届け!
今回は、庄野さんの人生を大きく変えた「旅」のお話。

1978年に「飛んでイスタンブール」が大ヒットし、一躍トップアーティストとなった庄野さん。その後も次々と楽曲をリリースし、年間100本以上の学園祭に出演するなど多忙を極めていました。しかし、スケジュールに追われる日々の中で「本当に自分がやりたいことを考える時間がない」と感じるようになったのだとか。
そんなとき、友人から「30万円で世界一周できるクーポンがある」と誘われ、「それいいね、乗った!」と即決!
事務所とレコード会社に「3か月休みをもらえますか?」と相談したところ、誰からも反対されることなく、最終的に2年間にわたる世界一周の旅に出ることになりました。

旅がもたらした新たな視点
旅の最初の訪問地・タイでは、環境問題の深刻さを目の当たりに。現地の人々と食事をしていた際、エビの養殖のためにマングローブの木が伐採され、漁業や農業に悪影響を及ぼしているという話を聞き、「日本人が消費するエビがこの現象を引き起こしている」と問われたことで、地球規模の問題を実感。「この旅では、地球の現実をしっかりと見よう」と決意しました。
また、インドでは若者たちと歌のバトルを繰り広げ、パリの地下鉄では路上パフォーマンスを行うなど、各地で音楽を通じた交流を楽しんだそうですが、特に「酒と泪と男と女」を歌ったときは、多くのパリジャンの心をつかみ、予想外の収入を得たというエピソードもご紹介いただきました。

海外デビューへの挑戦
そんな世界旅行の経験から、1990年代にはシンガポールで海外デビューを果たした庄野さん、「音楽を国境を越えて届けたい」という思いから、シンガポールのレコード会社に自分でデモテープを送り、契約を獲得。現地では、メイクや衣装のスタイルが日本と大きく異なり、文化の違いに驚きながらも新たな挑戦を楽しんだと振り返ります。
当時、シンガポールでは日本人アーティストがデビューする際には、プロモーションに大金をかけるのが一般的だったため、「なぜ新人のようにプロモーション活動するのか」疑問に思われることも。ですが、チャレンジ精神旺盛な庄野さんは現地スタイルのプロモーションを行うという独自のやり方で活動を展開しました。

チャレンジ精神で貴重な海外体験を重ねてきた庄野さん。
この経験は、その後のキャリアにも大きな影響を与えたようです。

来週は、さらに、庄野さんの波瀾万丈なライフストーリーをお届けします。
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代表曲「飛んでイスタンブール」誕生裏話、そして影響を受けたアーティストとは?

2025/03/08
今月は、シンガーソングライター庄野真代さんのライフストーリーをお届けしています。

フォーク音楽祭のコンテスト応募曲として制作された「ジョーの肖像」(1976年)で、デビューした庄野さん。その後、「中央フリーウェイ」(カバー)などを経て、5枚目のシングルとしてリリースされたのが「飛んでイスタンブール」でした。
当時、レコード会社が「そろそろ大ヒットを出さなければ」と、ヒットメーカーの筒美京平さんに楽曲を依頼したことで生まれた楽曲。庄野さんは、初めてこの曲を聴いた際に「自分には合わない」と感じたそうですが、翌朝起きるとメロディが頭の中を巡っていて、「これだ!」と思ったそう。
レコーディングでは筒美京平さんの指導があり、細部までこだわったのだとか。特に「パラダイス」という歌詞の表現方法については、何度も試行錯誤されたそう。

楽曲が持つ影響力
そうして1978年にリリースされ、大ヒットとなった「飛んでイスタンブール」ですが、単なるヒット曲にとどまらず、さまざまな人の人生にも影響を与えてきたよう。例えば、トルコで30年間日本人観光客を案内してきたガイドさんから「この曲が自身の仕事の支えになった」という声や現地に住む日本人の方が、自身の存在意義に悩んだときにこの曲を聴いて勇気をもらったというエピソードも庄野さんの耳に届いているそう。この曲が人々の心に残り続け、今なお多くの人に愛されていることに感謝していると語ります。

庄野さんの音楽の原点とは?
庄野真代さんが影響を受けたアーティストとして挙げてくださったのは、「キャロル・キング」。「シンプルながら心に響く声の力を学んだ」と話しています。
また、自身の楽曲制作において「譲れないこと」というよりも、「自分にできることをやる」という姿勢を大切にしているとのこと。近年では和歌山県の小学校の校歌を作るなど、新たな挑戦にも積極的に取り組んでいます。

「人生100年時代、あと30年は新しいことに挑戦していきたい」と語る庄野さん。
来週は、まさに「挑戦」だった庄野真代さんの世界一周の旅に関するエピソードをお届けします。
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音楽との出会いとデビューまで

2025/03/01
今月は、長年にわたり音楽活動を続ける庄野真代さんに、キャリアの転機や音楽への想いについて伺っていきます。
今週は、その第1週目、音楽との出会いと転機についてのお話。

母親は宝塚歌劇団への憧れを抱き、父親は流しの歌手になりたかったという庄野さんファミリー。
ですが、音楽教育はいたって普通の家庭。そんな庄野さんが初めて手にした楽器は「オルガン」でした。、
「6歳の誕生日に叔父からオルガンをプレゼントされ、それが音楽への第一歩でした。オルガン教室に通い、ピアノへと転向し、習い事として音楽に親しむ日々でした。」

そんな中、小学生時代のある経験が彼女の人生を大きく変えることになります。

転機となった小学生時代の出会い
「もともと体が弱く、おとなしい子供でしたが、小学5年生の時に担任の先生が変わり、それが大きな転機になりました。」
生徒一人ひとりの良さを伸ばそうとする方針を持っていた担任の先生は、庄野さんにも積極的に役割を与え、放送部に入るように勧め、校内放送を担当したり、運動会の実況をすることになったり・・・。「自分に責任のある役割が与えられることで、次第に明るく積極的になりました。」と振り返ります。
さらに、先生の勧めで作詞作曲を行い、小学校の卒業文集には自作の曲が掲載されることに。
「タイトルは『希望に向かって進む』。今の私の楽曲とあまり変わらない内容ですが(笑)、この経験が音楽への意識を高めるきっかけになりました。」

高校時代のバンド活動とオーディション挑戦
高校時代には、フォークバンドに参加し、音楽活動を本格化させた庄野さん。
「実はバンドに入った動機は不純で、中学時代に隣の学校の生徒会長がとてもカッコよかったんです(笑)。その人がバンドをやっていたので、私もバンド活動を始めることにしました。」
最初はタンバリン担当、次第にギターを習得し、コーラスを務めるようになりました。
また、この頃から多くのオーディションに挑戦。
「バンドでオーディションを受けると、進むごとにメンバーが減り、最終的に私一人が決勝に行くこともありました。」
こうして自然とソロ活動へと移行していきました。

大学受験をきっかけに音楽の道へ
大学受験では第一志望に落ちたことで浪人生活を送ることになった庄野さん。しかし、その時にヤマハのボーカルオーディションを受けたことが、彼女の音楽キャリアの大きな分岐点になります。
「大阪代表として出場し、結果的に合格しました。その時、東京に行けばもっと広い世界があることに気づきました。」
そうして上京し、音楽と勉強を両立させる日々が始まりました。
しかし、思うようにデビューの機会を得られず、20歳になる前に「もう音楽は辞めよう」と決意。家族にも「音楽やめます宣言」したと言う庄野さんですが、これが最後のつもりでコンテストに出場。その結果、関西四国大会でグランプリを受賞し、全国大会に出場。その帰り道、彼女に転機が訪れます。
「有楽町の駅に向かって歩いていたら、レコード会社の方に声をかけられ、『アルバムを作りませんか?』と言われました。音楽活動をやめようとしていた私にとって、アルバムを作るということは"自分の足跡を残せる"という点で魅力的でした。」

音楽の道を歩む決意
こうしてアルバム制作が決まり、プロデビューとなった庄野さん。
「自分のためだけに作るつもりだったアルバムなのに、レコード会社の多くの人が関わり、ラジオ局やメディアで宣伝されるのを見て、責任の重さを感じました。」と当時を振り返ります。
デビューアルバム発売後には、ひそかにレコード店を訪れ、自分のアルバムを一番前に並び替えると言う、「ひとり販促活動」をやっていたのだとか。
そんなアルバム制作を機にシンガーソングライターとしてのキャリアがスタートした庄野さんですが、ご家族の支えも大きかったよう。「父は何も言わなかったけれど、亡くなった後、彼の部屋を整理したら私のレコードがたくさん出てきました。本当は応援してくれていたんだと気づき、胸が熱くなりました。」

来週は、庄野さんのヒット曲「飛んでイスタンブール」誕生の舞台裏、伺います。
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