2015年6月30日

6月30日 東松島 森の学校2

宮城県東松島から、「森の学校」についてお伝えします。

作家で環境活動家・CWニコルさんが代表をつとめる「アファンの森」と東松島市が取り組むプロジェクト「森の学校」。東松島・野蒜地区の高台には、数年後に木造の小学校校舎が完成。その隣の、山一つぶんの大きな森が、そのまま子どもたちの学びの場となる計画です。

というわけでこの森には、子どもたちが自然と触れ合うための色んな“仕掛け”が施されることになります。その一つが「サウンドシェルター」です。

◆地域の人たちが少しずつ
野口:ここが一番、森の学校ができた時に近い森のエリア。いまはだいぶ開けているけど、笹刈りをする前は一歩も入れないほど笹がうっそうとしている状態だったんです。3年かけて地域の人たちとちょっとずつ広げて、私たちがサウンドシェルターと呼ぶ森の音を静かに聞ける場所を作った。学校の授業で使えたりつらい体験も含めて森の中で話ができるような場所になる。


案内してくれたのは、アファンの森財団 事務局長の野口理佐子さん、そして地元・成瀬未来中学校1年生・山田ともみさん。

こちらがサウンドシェルターの模型…

そしてこのサウンドシェルターは、震災でつらい体験をした子どもたちが、みんなで体験を共有する、という目的もあるんです。

◆辛い体験を森の力で
山田:野蒜の人たちは、避難所が野蒜小学校だったのでそこに行って避難しました。泳ぎました。お母さんも、全員が泳いだ。お姉ちゃんはギャラリーの上にいたから泳がなくて済んだんだけど、お兄ちゃんと私とママ、ピーちゃんも泳いだ。
野口:泳いだというか洗濯機みたいになっていたんですよ。クルマも入ってきてうわあーーって。
山田:助けてーという声もひどかった。でも私は渦の中に入りそうになったんだけど、ママが教えていた子のお母さんが手を引っ張ってくれて助かった。たぶんそのお母さんがいなかったらたぶんいなかった。ママが凄く泣いて「ありがとうね」と言っていました。
野口:お尻を押して「あなたは生きなさい」って言ってくれたって言ってたね。
山田:その押してくれた女の人は亡くなっちゃって、「私がいなければ」と思っちゃって。たまに授業があるとみんなイヤで。先生は事情を知っているから、「今日は命の大切さの授業をやる」と。
野口:でも森の中だとわりと自然に、なぜ私が生き残っちゃったんだろう、なぜ助けられなかったんだろうとみんなで吐き出しあって。みんなそうなんです。
山田:もやもやが晴れる。きいてくれる人たちがいると。一人でため込んじゃうよりばーっと話すとすっきりする。
山田:本当に早いうちから心のケアをしてきた。月日がたてばたつほど深刻化していくので、サウンドシェルターのような語り合える場所が必要。


そんなサウンドシェルター。もともとは、アファンの森財団 代表のCWニコルさんが持ち込んだアイデアだそう。ニコルさんにも伺いました。

◆大きな耳?
そのサウンドシェルターは、わたしが若い頃カナダの北の少数民族と一緒に旅をして、特別なテントを建てて後ろと横にカバーをする。前は空いている。まるで大きな耳のよう。音が良く聞こえる。そこでじーっと自然の音を聴く楽しみとたき火もできる。会話がしやすい。人間が小さな焚火を見ると脳がアルファ状態で穏やかになり、心を開くことができるんです。


実は、ニコルさんが長野県で再生した里山でもサウンドシェルターは実際に利用されているそう。その中にいると、朝は鳥の鳴き声、夜はカエルの大合唱、フクロウの鳴き声、、、いろんな生き物の声が聴こえるそう。野蒜地区は海も近いので「海鳥の声も聞こえるかも」とニコルさんはおっしゃっています。

LOVE&HOPE、あしたも、東松島市の森の学校についてお伝えします。

2015年6月29日

6月29日 東松島 森の学校

今朝は宮城県東松島から、「森の学校」についてお伝えします。
作家で環境活動家・CWニコルさんが代表をつとめる「アファンの森」と東松島市が取り組むプロジェクトです。 東松島・野蒜地区の高台に、森そのものを学びの場にした学校を作ろう・・・ 東松島市の呼びかけにニコルさんが応じる形で、構想が生まれたのが2012年。

いわば、山一つがまるごと“学校の教室”! 廊下の代わりに山道があり、大きな木の枝が天井代わり…という感じなんですが、 まる3年を経て、山の中腹にはこんな素敵なスポットが完成していたんです。 地元の女の子に案内してもらいました。


◆奥松島の海を見渡す展望台も
ここが展望デッキで、野蒜海岸と震災前にあった家が建っているところが見えるところです。(展望台の製作は手伝ったの?)切ったり作る人たちに木を渡したりという仕事をしました。もうわくわくと楽しみがいっぱい。一生の想い出です。(ニコルさんとは話した?)これから良い町になると良いね、という話をしてました。すごい嬉しいなって。野蒜の町を熱い想いでやってくれて嬉しいなと思いました


案内してくれたのは東松島市・成瀬未来中学校1年生・山田ともみさん。 震災直後・小学校3年生の時から、森の学校作りに関わっているそうです。

そして、「復興の森」と名付けられた、この森に隣接する高台では、小学校の新しい校舎を建てる土地の造成が進んでいます。 アファンの森財団 事務局長の野口理佐子さんに伺いました。

◆森も海も大切
野口:復興の森の真下が、宮野森小学校という森の学校が出来る予定の場所です。大きなもみの木がマザーツリーのような形で、町と学校を見守ってくれている。これが残されてよかった。当初はもしかしたらここまで切らなきゃダメかもなんて話もあったんだけど、いまから学校が開校する2 年の間にここをキレイにしようねって)授業中も、「きょうは気持ちがいいから森で授業しよう!」って先生たちと一緒に森へ出て授業が出来るようにね。ここの小学校はさっきの野蒜小学校と宮戸小学校が統合されて、宮野森小学校が森の学校になる。「森の学校」と呼んでいるが、宮戸の人たち、野蒜の人たちにとって海も大事なので、だから森と海を大事にする学校、地元の自然を丸ごと学校にしようという想いでみんなで作ってきたんだよね。
山田:宮戸もいいところですよ。海水浴も出来るし海もキレイで食べ物もおいしいし。 牡蠣や海苔も。 まだ戻らないところもあるけど、民宿の人たちは で一致団 して震災後どうするかを話し合っていて、すごく良い人たちだなって思いました。宮戸出身の友達から聞いているし。海も最高。毎年 海水浴へいっていた友達もいる。バーべキューもしていい。海は宮戸で克服したし。
野口:2年前に たちのプログラムで海の授業をやったんですが、その時もここで2 日のキャンプをしてね。
山田:最初は絶対にイヤだと思ったんだけど、入ってみたら大 夫で克服できた)それで遊んでいる を見てお母さんたちも感動しちゃって。それはすごいことだよね。ここの地 の人たちは学校から ってきたら「海に こう!」っていうのが日常。歩いてす の場所にある。(野蒜小学校のころも、「きょう海 かない?」「じゃあ何時に集合ね」って海に行ってた。
野口:そういうことが今は遠ざかってしまっているので、なるべく くこの地 の人たちと海がよりを したいなと思っていて。海とこの地 の人たちは切っても切り離せないですからね。


この、宮野森小学校の新しい校舎が完成するのは2017年。 現在、仮設の校舎に う小学生たちの中には卒業してしまう子どももいます。 そこですでに、授業の一環として地 の自然を学 プログラムがスタートしているそう。 そして森の学校で われる授業とはどんなものかというと CWニコルさんによれば、「アウトドアスキルを身につける」ものもあるそう。 今後、大きな災害が起きても、自然を活用して生きる を身につけてほしい としています。

2015年6月26日

6月26日 南三陸町 入谷にホタルを見に行こう!

今朝紹介するのは、宮城県南三陸町入谷で明日からはじまる、ホタルの観察会。


入谷は宮城の'遠野’と呼ばれる地区。昔ながらの原風景が広がります。

6月末〜7月頭は、ゲンジボタルやヘイケボタルに出会えるチャンス!
夜に里山を1時間程度ゆったりとさんぽして、地元の方の案内の元、鑑賞ツアーを行います。

開催日 :6/27(土)、7/4(土)、7/11(土)、7/19(日)、7/20(月)、7/21(火)、7/22(水)、7/23(木)
体験定員:15名程度
所要時間:19:30-20:30
開催場所:南三陸町入谷「いりやど」現地集合
体験料金:大人(中学生以上) 1,500円
       こども(小学生以下) 500円
参加特典:木製ミニ灯籠をプレゼント!

詳しくはこちらのサイトをご覧ください!
応募は南三陸町観光協会のページから!
南三陸町まなびの里・いりやど

2015年6月25日

6月25日 沿岸部に広がる森づくり・福島県相馬市の「平成の杜」

今朝は、東北沿岸部を中心に広がる、「森の防潮堤」について、お伝えします。

『瓦礫を活かす森の防潮堤プロジェクト』を中心とした、被災地沿岸部に、小高い丘を作り、苗木を植え森を育て、命を守る防潮堤を作るというもの。

すでに宮城県仙台市、岩沼市、福島県南相馬市で、15万本以上が植樹され、今年も5月に岩沼市で、7月4日(土)には福島県相馬市で植樹祭が行われます。

先月の岩沼市の植樹祭も、地元の方はじめ5000人のボランティアが思い思いに苗木を植える姿がありました。


◆地元の方の声
岩沼に職場があって、家族つれてきました。一本でも植えればああ俺らが植えたんだなって感じで思い出す。子どもたちにやらせて、大きくなったら「自分らが植えたんだよ」って教えれば想い出になりますよね。貢献できたなと。やってよかったです。


この岩沼市の植樹祭には、現・岩沼市長も参加。菊地ひろお市長のお話です。

◆復興のシンボルに
(震災から4年、どんな存在の森になってほしいか)最初の目的からすると津波の力をそぐための森。早く伸びてもらいたい。あとは自然にうまく溶け込んでほしい。海岸沿いなので潮風の影響も或る。潮風を防ぐためにも役に立つ逆に。早く木が伸びるのを楽しみにしたい(憩いの場にもなる)10キロを丘で結び、桜や菜の花を植える。楽しみに集まれるようにして行きたい。そしてだんだん木が伸びて、1年、2年と当然高さが変わる。感じられる。復興のシンボルになる。危険区域を上手く利用して波を食い止めれば西側のトチは安心して使える。町づくりの一つ。(県外の方でも、支援の仕方が分からない人もシンボルに携われば支援できる)ぜひ草取りにおいで下さい。お待ちしています。





会場には森の長城プロジェクト理事長の細川護熙さんの姿も!

この住民参加の森づくりの動きは、徐々に広がっています。次は7月4日(土)福島県相馬市の光陽サッカー場に隣接する敷地で、住民と相馬市が協力する形で開催。

植樹を経験して、1年後・2年後にその場所へ行くと、徐々に成長していく森の姿を見る喜びもあると言います。
参加者の方の中には、地元岩沼の方もたくさん。「みんな参加しているので、ずっと来ようと思っていた。」と初参加の方も。また、宮城県栗原からやってきたという社会人1年生は「初参加だが、思い出に残った。徐々に緑が増えるのを大人になっても楽しみに参加したい」と話していました。
また、単身赴任で仙台在住だという男性は「仙台では震災の爪痕がほとんどないので忘れがち。一年に一度こういうことをやってあの時のことを思い出している。復興もまだまだだなと、もう一度認識してなにかできないかと一年に一度思い出すためにも良いかなと思っている。」と語っていました。

***

そして、7月4日(土)に福島県相馬市 『相馬光陽サッカー場』で行われる植樹祭は、津波の被害を受け、大規模改修が行われたサッカー場の周囲を森で囲うというもの。

このサッカー場は子どもたちの試合、大きな大会、学生の合宿でも使用されており、森の防潮堤を作ることで子どもたちの命を守る目的もあるといいます。また沿岸部で風が強いため、防風林の役割も担うということです。

相馬光陽サッカー場 「平成の杜」植樹ボランティア情報はこちら

この日は、サッカー界の協力として、植樹祭の後に湘南ベルマーレの選手たちが子どもサッカー教室を開く予定。また、ルー大柴さん、くまもんも特別ゲストで登場します。参加申し込み締め切りは7月2日(木)。

2015年6月24日

6月24日 東松島市東名の牡蠣漁師3

宮城県東松島市東名の、若き牡蠣漁師、阿部晃也さんは、全国の業者が買い付ける 質の高い「奥松島の種牡蠣」を自ら育てる一方、 私たち一般の人向けの、殻付きの牡蠣を販売しています。

阿部さんが運営する「奥松島水産」で、大きな水槽いっぱいに積まれた牡蠣を見ながら、そのこだわりを伺いました。



◆自然のままの牡蠣を提供する
選別して選りすぐりのやつが全部1個1個に分けられる。サイズと形の良いもので。でも牡蠣って大きさじゃない。殻を食べるわけではないので小さくてもどうやって実入りを良くするかがテーマなんですね。見た目じゃなくて中身。重みのあるものを選んで。うちはこれを洗浄しないでそのまま出荷します。というのは牡蠣が服を着ているようなものなので、東京に裸で行けないじゃないですか。それと一緒。オイスターバーとかは「ピカピカに磨いてくれ」って注文するところもあるが、うちはそういうところには出さない。自然のままで出したいなと。あんまり手を加えないでやりたいと思っている。


実は今シーズンの牡蠣販売はすでに終了しています。次は今年10月から。ぜひその時期に東名へお出かけ下さい!
ちなみに高橋万里恵が仙石線の全線開通イベントで食べた牡蠣が、この阿部さんの牡蠣。塩分濃度がちょうどよくて、「いままで食べた宮城の牡蠣の中で一番美しかったかも!100個食べたい!」だそう。その美味しさのヒミツはなんなのか。教えてもらいました。

◆絶妙の漁場が生み出す無敵の牡蠣
大きいやつにこだわらず、殻の成長を止めて実入りを良くするというやり方は親父と違う。全国的にも珍しくて、奥松島の東名は1年物の牡蠣。1年で出荷できるのは汽水域という海水と淡水が混ざり合い、牡蠣にベストな環境だから。縮まらないしクセもない。自信がある。牡蠣専門で牡蠣以外やっていないのでこれで負けたら他で勝てるところが無いので(笑) 牡蠣に関しては譲れないという気持ちがある。他の海だとどうしても川の水が流れているところが無いんだけど、こっちは本当に海水と淡水の混ざり合いが絶妙の漁場。塩分濃度がほかより低いので臭みがない。殻つきは蒸してもらうのがベスト。むき身だと天ぷらがおススメ。フライってどうしても牡蠣の味を消すとしか思えない。天ぷらがおすすめ。天ぷらは地元でもあまりないが、東松島市内の居酒屋さんなら持ち込みで頼めばやってくれる。生ガキはうちに来てもらったほうがいい。それこそ居酒屋さんも色々あるので生はその時期になればどこでも食べられる。


この奥松島の牡蠣を育てる技術は、50年かけて培われたもの。お父さんから跡を継ぎ、3代目として海で働く阿部さんはこの仕事を、次の世代へと受け継ぎたいと考えています。

◆ライバルは太平洋!
親孝行、親父が喜んでいる顔が見たいし直接聞きたい。あとは浜全体の底上げ。自分も子どもがいるが、自然に「牡蠣をやりたい、海の仕事がしたい」と言われるような親父になりたい。今は子どもが2人いて、3人目がもうすぐ生まれる。5歳・3歳。二人とも海が好きですよ。遊びながらその中の一部に海があってもいいかなと。選択肢の一つとして考えてもらえればなと思うので。どんなにやんちゃをしても海には通用しない。いっぱいやんちゃして、海にぎゃふんと言わせてもらって下さいという感じ。今の俺みたいなもの。つっぱっててもしょうがないよね。そういうのを自然に学んでほしい。
ライバルですか?・・・太平洋ですかね。それが俺らの中でトップなので、やっぱり自然の力が一番なので、考え過ぎてもよくないしシンプルに行った方がいいのかなと思ったりしますね。たまに。(太平洋に勝ってますか)いや・・・どうすかね(笑)。まだまだじゃないですかやっぱり。



Photo by 東松島食べる通信

阿部さんは、地元の「底上げ」を目指して、子どもたちに海に親しんでもらうイベントも計画しています。この夏も、7月20日「海の日」に野蒜海岸での「地引き網」を実施する予定。ボランティアを集めてのビーチクリーンイベント等も企画しています。

そして奥松島では、まもなく牡蠣の抱卵の時季を迎え、種牡蠣づくりの本番を迎えます。

阿部晃也さん「奥松島水産」オンラインサイト

2015年6月23日

6月23日 東松島市東名の牡蠣漁師2

今朝も宮城県東松島市の、若き牡蠣漁師・東松島市・東名の牡蠣漁師・阿部晃也さん(32)のインタビューです。



東名は、東松島市の西側。松島湾に面した港町。目の前の豊かな海のめぐみで、東名の人々は暮らしてきたと言います。しかし、当時の景色は津波によって失われました。阿部さんは、震災前の町の様子をこう語ります。

◆牡蠣のスペシャリストの港町
港町と言う感じで、民家が百数十件ずらーっと並んでいていて京都みたいな感じですね。その民家をずっといくと海にぶちあたる。港町では珍しいんですが専業で牡蠣専門、東名は他は何もやらない牡蠣だけの町なんですね。20軒位あるんだけど全員が牡蠣専門というのが珍しいし、知識もスゴイしプライドもある。譲れないところがある。牡蠣の町と言っても過言ではないくらいスペシャリストが集まっている。


全国に種牡蠣を出荷していることでも知られる東名。目の前の松島湾は、2本の川から注ぐ栄養豊富な淡水と海水が混ざり合い、牡蠣にとって最高の環境なんだそうです。
しかしあの日、その豊かな海が、阿部さんたち東名の人々に牙をむきました。



◆海があればやりなおせる
震災で一言で言えば壊滅状態。土石流が端から端まで流れたような感じで、これはもう日本が終わったなと思ったんですけど、工場も流されましたし船も一艘流されて。でも我々は海があれば仕事ができるんですね。家族もいて海さえあればやる気も出るんです。船は買えばいいし家も建て直せばいい。海が残ったということで(津波が)何回来てもできるなという自信もあった。あんまりショックっていうのはなくてやる気しかなかった。種も若干残っていたのでこれはできるなと。逆にチャンスかなという感じ。うちの親父は牡蠣に関しては今後やる必要はないんじゃないかと思っていて、種牡蠣に力を入れようという会社の話もあったが、どちらかというと種は生産者のためで牡蠣は消費者のためと大きく分けられる。待っているお客さんがいるので牡蠣をここでやめるわけにはいかないんですよ。仮に種を作って全国へ出荷しても他はできるわけで。種が出荷できるのになぜ牡蠣が生産できないんだと思ったら、やるしかないと思った。その年に工場を建てるって決めて、親父に頭を下げて一からやりなおさせてくれということで、こういうスタイルでやっている。自分で工場をたてちゃえば浜全体の底上げにつながるんじゃないかなと思いました。(東名という地域をもりあげよう)そういう気持ちもあるし、やっぱり親孝行なので親父をなんとかさせたいという気持ちが強くて(どんだけ親不孝だったか)想像の30倍以上。(お父さんは喜んでいるのでは)どうなんでしょう。俺の前ではそういうのは見せないけど、まあいてくれるだけでもいいかなと思いますけど。



阿部さんのご自宅は海のすぐ前にあったのですが、松島湾の小さな島々のおかげで津波も弱まり、家は残ったそう。「家も家族も無事で、海もある。漁師を再開しない理由が無い。」阿部さんはそう考えたと話します。東名では牡蠣養殖を辞めた漁師さんは20軒中2軒にとどまっている。いち早く漁を再開した阿部さんを見て、やる気になった漁師さんも多いという。阿部さんご自身の牡蠣の売り上げも、今年は震災前の水準に戻ったそう。

2015年6月22日

6月22日 東松島市東名の牡蠣漁師1


今朝は、宮城県東松島市の若き牡蠣漁師のレポートです。
お話を伺ったのは、東松島市・東名の牡蠣漁師・阿部晃也さん、32歳。

東名をはじめ、東松島市の沿岸部「奥松島」は、全国的にも有名な「種牡蠣」、つまり牡蠣の赤ちゃんの生産地です。まずこの、東名の種牡蠣について伺いました。

◆種牡蠣の一大生産地
俺が生まれる前から種牡蠣はやっていて、歴史はだいぶ古いんですね。フランスやアメリカにも出荷していました。松島湾が種牡蠣のルーツと言っても過言じゃないくらい出荷しています。うちの場合はだいたい北海道から九州までやっているんですが、地域の生産者によって好みが違う。北海道だと厚い種が欲しいとか、岩手だと薄い種が欲しいとか、九州はそのあいだですよとか。ホタテについていればついているほど量は取れるけど大きいものは取れない。種が少なければライバルがいないので量はとれないけど大きいものが取れる。生産者によって好みが違うのでそれに合わせて種を仕込むということですね。親牡蠣から抱卵されるんですが、水温と気温を足して50度以上とか、7月くらいからはほぼ毎日塩水を組んで、水温や気温や比重を全部見極めて顕微鏡で調べて、抱卵している状況を研究してそこから一気にホタテの貝を投入・・・。最初は石ころにつけていたのが原点らしいんですけど、その次は牡蠣のからにつけていたらしい。その後に付着率がホタテの殻のほうが良いということを発見して、そこからはホタテの殻に変わったんですね。


ということで、東名で生産された種牡蠣は全国へ出荷されています。そこで育った牡蠣を私たちは、「北海道産」とか「九州産」として、食べていることになるわけです。

ちなみに種牡蠣の生産は、阿部さんのお父さんが中心となってやっていて、阿部晃也さんは、消費者向けの殻付きの牡蠣を担当。種牡蠣と牡蠣の両方を扱うのは、全国的にも珍しいそう。親子で役割分担して、牡蠣を作るようになったきっかけを、阿部さんは、「親孝行したかったから」と話します。

◆後継者問題?クソですね(笑)
原点は親孝行というところから始まった。親孝行をしたい、認めてもらいたいという簡単な気持ちで19歳で親父に頭を下げて仕事を始めた。そこから仕事を教えてもらう段階で、やっぱり若いので夜は遊びたいじゃないですか。そのためにはお金が必要で、親父にお金をくれともいえないし、そこで自分で牡蠣を売って小遣いを稼ごうかと悪だくみを考えた。インターネットで牡蠣を売れるかも知れないよという友達がいて、うちの親父も30年前から直売をやっていたので賛成してくれて。おやじは産直・漁師直送を一番に初めたんだと思う。人と触れ合う機会もものすごく多くて、そういう環境で育ったのでうらやましいなと思ったし、未だに超せない存在。追いつきたいとは思うけど、まだくるぶしくらい(笑)自然に跡を継ぎたいと思わせてくれた。
この浜はそういう人がものすごく多くて、後継者が半分以上いる。親が良いので自然に後継者がついてくる。よく「後継者問題をどう思うか」と聞かれますがクソですね(笑) 親が悪いとしか言いようがない。最初に海の魅力を与えてくれたし、手を加えればちゃんと売れるということを導いてくれた。我々は2代目・3代目なので全然工場も船も機械もそろっていてやるだけの状態。たまに「すごいですね」と言われるけど全然すごくない。親父がすごいとしかみんな思っていない。俺はそれに乗っかっただけなので。あとは時代に合わせてインターネットとかおやじたちができないことをやったり、バーベキューを企画したり、そんな感じで若いなりにアレンジを加えて販路を広げられればなと思っていますね。


漁師の後継車問題の話がありましたが、他の地域では、「漁師はやめておけ」と親が子どもに跡を継がせないケースも多いと言います。でも阿部さんはお父さんからそう言われなかったという。「子どもの頃から、海の魅力をオヤジが教えてくれていた」そうで、その経験が今に繋がっているとも話しています。これは東名の漁師さん全体にも言えることだそうです。

あしたも阿部晃也さんのインタビューをお届けします。



Photo by 東松島食べる通信

2015年6月19日

6月19日 七ヶ浜まるごとバーベキュー

今朝は、宮城県七ヶ浜町で、あす土曜日に開催される「七ヶ浜まるごとバーベキュー」に注目します。

素晴しいネーミング❤七ヶ浜町は、松島の南に位置する海沿いの町。美しい浜が点在する、風光明媚な町として知られています。東日本大震災による津波で、町の面積の4分の1が浸水、大きな被害を受けましたが、いま復興へ向けて、歩みを進めています。

そんな七ヶ浜町で、初めて行なわれるイベントが、「七ヶ浜まるごとバーベキュー」。どんなイベントなのか?実行委員長の鈴木直也さんに伺いました。

◆あわび、あなご、うに、カニ
七ヶ浜まるごとバーベキューは漁業、農業、商業を合わせて、七ヶ浜をまるごと食べる企画。今回は、「あわびセット」「あなごセット」「うにセット」そして、農業の方から「お肉と野菜のセット」をつくってチケット販売した。アワビ2個、あさり1キロ、ワタリガニを3杯、これが「あわびセット」。「うにセット」は、ウニ5個、あさりを1キロ、ワタリガニ3杯。「あなごセット」は、中くらいのアナゴを3本、あさり1キロ、ワタリガニを3杯。七ヶ浜は、漁業が盛んな割には、食文化が無かった。だからこれをきっかけに、七ヶ浜の海の幸を体感してもらいたい。一番人気は「あなごセット」。即完売になった。


あわびが2個、あさり1キロにワタリガニが3杯付いた「あわびセット」が4000円、あわびに替わって、うに5個が付いた「うにセット」が3000円、穴子が3分くらい付いた「穴子セット」が2000円という、いずれもお得なセットでの販売になっています。

“美味しい海の幸を食べてもらって、七ヶ浜を身近に感じてもらいたい”という鈴木さん、その思いの裏には、七ヶ浜をとりまく、こんな現状があるといいます。

◆七ヶ浜は震災後活気がない。
七ヶ浜は震災後活気がない。街並みはきれいになったが、湾岸工事が進んでなくて、代替店や公営住宅は出来たが、飲食店はほとんどない。町民も観光の方も食べる所がないな〜と現在困っている。宿泊施設も無いので、折角来たので泊まるところもない。
なおかつ、夏場のメインとなる菖蒲田海水浴場が、いまだに湾岸工事の影響で、再開していない。来年あたりには、いまよりは見所がある街になっていると思うが、まずは「まるごとバーベキュー」などのイベントからこの七ヶ浜という町を知ってもらいたいという想いがある。

日本三景・松島のすぐ南で、菖蒲田海水浴場をはじめ、景勝地もたくさんある七ヶ浜ですが、飲食店や宿泊などの施設が、まだまだこれからということでした・・・仙台からも近いし、三陸道のアクセスもいいので、日帰りで楽しんで欲しいですね。

そして明日行なわれる、町の初めてのイベント、「七ヶ浜まるごとバーベキュー」。「バーベキューセット」は前売りチケット制で、当日チケットの販売はありません。ただし、当日ふらっとやってきた方には、こんな楽しみがあります!

◆当日ふらっと来てもOK!
出店は約10店舗を予定。チケットを買っていない方も楽しめるように、単品での販売もある。アワビやウニなど、要は、バイキングの様な。あとお土産として、焼き海苔やずんだもちなど色んな食べ物が集結。子供も楽しめるように、クジや風船わたあめなど遊び場としても楽しめる。
「第一回七ヶ浜まるごとバーベキュー」、いろんな方に七ヶ浜の美味しいモノや、空気や味を満喫してもらいたいのでぜひ当日、10時からやっているので、みなさんで遊びに来てください!よろしくお願いします。


『LOVE&HOPE』。今朝は、宮城県七ヶ浜町で、あす土曜日に初開催される「七ヶ浜まるごとバーベキュー」。アワビにウニ、旬のアサリにワタリガニなど、美味しいものいっぱいです。

あす土曜日午前10時から、午後2時まで行なわれます。ぜひ足を運んでみてください!

詳しくはこちらから

2015年6月18日

6月18日 復興bar@銀座2015

今朝は、宮城県・石巻市から、東京・銀座に出張オープンする一軒の「バー」をご紹介します。

石巻の町づくり団体「ISHINOMAKI2.0」が、津波で破壊された町に、手作りでオープンしたお店、『復興バー』です。



復興に関わるたくさんの人たちがお酒を傾け、交流するこのお店が、来週、東京・銀座に期間限定でオープンします。

ボランティアがきっかけでこの復興バー銀座の企画を立ち上げ、実行委員を務める茂手木厚志さんに伺いました。

◆お酒と共に被災地のリアルを
元々、石巻に震災後すぐに立ち上げた『復興bar』を、われわれボランティアスタッフが訪れた時に地元の方々が、震災後の未来へ向けて熱い話をしているのを目撃した。テレビや雑誌、新聞などメディアを通して見る被災地と地元の方から直接見聞きする被災地では違う。良い情報も悪い情報含めて、銀座にお店があることで東京の方々がお酒を飲みながら交流を深めて知ってもらおうと言う目的で始めた。被災地の色んな方々、事業に携わる方々がマスターになる。一年目に続いて三年目も出店するダンボール工場「今野梱包株式会社」。代表は石巻の住民で、震災当時は体育館の避難所で、避難者の方々のための壁面を作った方。石巻、被災地の力を見てほしいと思う。着々と復興へ向かって歩いているが、食の復興や事業の創出など様々なカラーが変わる。発展的な笑顔があるお店。



※過去の画像です。

銀座の復興bar、「日替わりマスター」という形になっていて、復興に関わる様々な人たちが、連日 入れ替わりでカウンターに立つことになります。

2013年の夏に第1回目が行われ、今年3回目。銀座で生まれた東北と東京の繋がりは、年の重ねるごとに広がっているようです。

◆銀座から生まれる東北と東京のツナガリ
二年目は一年目と比べてお客さんの数は153%アップ。去年の集客は4700人くらいだった。連日お店から溢れるほど人が来ていたし、お客さん同士の横の繋がりもあった。ボランティア団体はもちろんだが、東北出身の方々が銀座の真ん中で地元の方言を使っておしゃべりすることができる。ここまでみんなが喜んできてくれる場が銀座にあるというのは嬉しい限り。1品500円。今年はメニュー数を多くした。なぜかというとなるべく被災地の食事を味わってほしいと言うことと、生産者の顔が見えるメニューにしたかったから。各メニューに生産者の想いを記した。これを来場者全員に配布する。なぜこの食材を食べるのかを考えてほしいと思っている。今年6月26日(金)から8月8日(土)までとなっている。ちょっとイレギュラーで今年は日曜日も開催予定。昨年まではトータルで32日間稼働。おかげさまでマスターをやりたいという人が大変多くて、40日間オープン。昭和通沿い・銀座1丁目で開催。昨年より落ち着いて飲むことができると思う。この店の交流を踏まえていずれ東京と東北がもっと密な形になってお互い協力し合って事業を支えあう、震災前以上のお付き合いができたらいいなと思う。


★ ★ ★ ★ ★
今日はこの復興バー銀座からプレゼントがあります。
復興バー銀座店で使える2,500円分のチケット(500円×5枚つづり)こちらを10名様にプレゼント!欲しい方は、このブログのメッセージフォームからご応募ください。

ちなみに、復興バー銀座の日替わりマスターには、南相馬市「福興浜団」の上野敬幸さんなど、この番組でレポートした方も登場する予定です。
復興bar@銀座は、毎年6月ごろにオープンします。これは銀座で知り合った東北の人たちに夏休みを利用して、会いに行って欲しいからという理由もあるそうです。銀座でぜひ交流を深めて、次は東北へぜひ!

スケジュールなど詳細はこちらから!
☆復興bar@銀座フェイスブック

2015年6月17日

6月17日 東松島月浜 「汐さいの宿 ちどり館」(3)


東松島市宮戸島・月浜で去年11月に営業を再開した「汐さいの宿 ちどり館」。
ご主人 鈴木一男さんは、漁師さんとして今も海へ出て、自分で獲った海の幸で宿泊客をもてなしています。

いま、被災地の漁業は後継者不足が深刻になっていますが鈴木さんの場合は、中学生のお孫さんが、海で働きたい、と考えているそうです。

◆親子3代で漁やってます
今中学2年の孫がね、この地域から離れるのやんだって。本来なら考えたの、矢本か松島か石巻行こうかなって。でも孫がやんだって言うの。漁師か民宿するか、海苔をするか。海苔は協業化なわけさ。私も海苔をやって来たけど協業化っていうのは難しいんだよね。いまは若い人にあわせないといけないが、それはストレスがたまって病気するからやめた。だから今は定置網をやっている。うちの孫は魚を獲るのが好きで、うちは3代で私も息子も孫も定置網をやっている。もう仕事をさせたら一人前ですよ。去年も潜ってアワビを6キロ採ってね。ウェットスーツ着て潜るんだもん。だからウェットスーツ作ってやらなきゃ。私も息子も孫も3人でもくぐる。今の子どもには見えないほど珍しい。


月浜も震災以降、漁師さんの廃業が相次いだため、協業…つまり、グループを組んで海苔の養殖を再開したケースもあるそうです。鈴木さんはそれには参加せずに、漁師を続けていると。そんな中、お孫さんの「海の仕事がしたい」という後継者宣言があったんですね。

そしてこの中学2年の「漁師の卵」、この地域で昔から続く、「一人前の男」になるための大事な行事も無事に乗り越えていました。これちょっと面白い話なんです!

◆えんずのわり 
「えんずのわり」というのがある。国の無形文化財。子どもたちの行事。自分でご飯を炊いて自炊して包丁も使って、芋や大根の皮を取って薪を取ってご飯を炊いて、来る人に酒を飲ませる。洞窟で六日間過ごす。そこから学校へ行く。宮戸島でも月浜だけの風習。200年以上前から続く風習。小学校2年生から中学2年生まで。普通は中学2年が親分(大将)それが被災地となり子どもたちがいなくなって、うちの孫が残って小学5年生で大将になった。5、4、3年生。かわいそうだからって2年生で入らない人もいる。あの冬に水をくんで、バケツに氷が張るようななかでやる。12月に夜の3時に起床して子どもたちが生活をする。私たちもこの辺の人たちはそれをやってきた。女は入らない。津波以降は洞窟には寝ないことになった。電気もないから。
うちの孫も5年生でえんずのわりをして大人になっていっているんだね。


この、月浜で行われる、小正月の行事「えんずのわり」。
地元の男の子たちがおよそ1週間、神社の洞窟で精進料理を作って神様にささげながら、共同生活をするというもの。小学2年生〜中学2年生までが参加。食べ物も自分たちで野菜を取ってきて調理する。釣りはダメ。油揚げはOKだそう。そして、各民家を回って無病息災や豊漁、集落の繁栄を祈る。200年以上前から続く、国の重要無形文化財になっています。




2015年6月16日

6月16日 東松島月浜 「汐さいの宿 ちどり館」(2)

JR仙石線の全線復旧を受け、宮城県東松島市の観光名所“奥松島”からのレポートです。

津波で家屋の8割が流された、東松島市「宮戸島」。この島の南端・月浜は震災前、26軒の旅館が海水浴客でにぎわっていました。しかし現在、営業を再開した旅館は、5軒に留まっています。
その一つが、去年11月に 再建した「汐さいの宿 ちどり館」です。ご主人 鈴木一男さんは「恩返しがしたかった」と、再建までの経緯を語ってくれました。

◆恩返しがしたかった
再建は一番はリピーター。何十人と言うお客さんが札幌から福岡から新潟から、物資や金銭、食べ物まで支援してくれた。Aさんが3000円、Bさんが5000円と義援金を集めて送ってくれた。返す言葉がないっちゃ。ありがとうで終わりでしょ。だからそういうことで、私も2014年11月1日にオープンしたんだけど、支援してくれた人を泊めることができた。それが一番の恩返しだと思って。


そんなちどり館、今でも支援者の方や、全国から口コミでやってくるお客さんで、平日もにぎわっています。鈴木さんご自身も、すでに仮設住宅を出て、民宿のそばに自宅を再建しています。
そして先月、JR仙石線が開業。観光地の再生にはまだ課題も多いのですが、鈴木さんは大きな期待を寄せています。

◆仙石線開通が復興の第一歩!
仙石線が開通して、今の生き甲斐はお客さんが来てくれることかな。それが一番の生き甲斐だね。やっぱり仙石線の駅があるのとないのではまるきり違う。電車が通っていない時は松島や矢本まで迎えに行っていた。仙石線の松島で切り替えてバスに乗り換えるというのはイヤだという人もいる。東松島市でも月浜の海水浴場は特に良い海水浴場だった。奥松島は自然が豊富で景観もいいし、食べ物も美味しいしなんでも取れる。これからはウニやアワビ。でもアサリが取れなくなった。この目の前で一人で何百キロと取れたが、砂が流されてしまった。そこの2つの島、唐戸島と中ノ島は砂浜で繋がりきれいな海水浴場だった。月浜が混んでいた頃は連泊してここの海水浴場で遊ぶというお客さんも多かった。でもその砂浜が無くなってしまった。潮の流れがなければいいのだがまだ早い。自然には逆らえない。被災地はやっぱり5年間はかかる。自然をコントロールして海水浴場を作ろうとしても作れない。ここは自然に恵まれている。外海も内海もあるし、「松島自然の家」を県が宮戸によこしたのは励みになる。今までは野蒜に野外活動センターというのがあったが、野蒜がダメになったので宮戸に作る。宮戸小学校が廃校になるので校舎を利用して造成している。そこで自然のキャンプ場などを作ってもらえると雇用策にもなるし、色んな漁も体験できる。そこは県が力を入れてもらっている。


宮戸小学校の跡地にできるという『少年自然の家』。漁師体験、シーカヤックなども体験できる施設。来年度中に完成予定です。
一方、「月浜」の海水浴場は、防潮堤の工事があるため今年は休業するそう。来年の夏はちゃんと再開する予定だということです。


あすも、宮戸島『汐さいの宿 ちどり館』 鈴木一男さんのお話です。


汐さいの宿 ちどり館

2015年6月15日

6月15日 東松島月浜 「汐さいの宿 ちどり館」

今朝は、JR仙石線の全線復旧を受け、宮城県東松島市の観光名所“奥松島”からのレポートです。

お話を伺ったのは、『汐さいの宿 ちどり館』のご主人・鈴木一男さん。ちどり館は、東松島市「宮戸島」の南端にある 旅館です。この界隈は、月浜という海水浴場、松島と並び称される「奥松島」の絶景。海水浴や潮干狩りも楽しめる観光地で、震災前は26軒の民宿・旅館がありました。しかし現在は、ちどり館ふくめたった5軒。宮戸島全体で、8割の家屋が津波によって流されたと言います。
津波発生当時のことを鈴木さんはこう振り返ります。

◆島は30日間孤立
震災の時わたしは家にいなかった。観光のあさり取り・潮干狩りの準備をしている最中だった。このへんの人たちは地震と言えば津波と言う意識があって、私の場合はまず孫を案じた。孫を案じてすぐお家に帰って、子どもたちはいるかと聞いたが「まだ来ていない」といった。そこで学校へ行ったら校庭に子どもたちが雪の降る中、立っている人もいれば泣いている人もいた。校長先生の判断が良かったんだよね。校庭は高台にあって「ここが最終的な避難所なので子どもたちは帰しません」と判断した。それが良かった。その後家に帰ったら、ちどり館の前の駐車場に小雪がちらつくなか、年寄りからなにからみんな集まっていた。私は防災の役員もしていたので、とっさに感じた。これは寒いから・・・と思ってうちからバスを持ってきて、駐車場でエンジンをかけて暖を取ってもらった。私のバスには年寄りばかり26人ほどバスに乗せた。そしてすぐ走って学校の前まで行った。あと30秒か1分遅かったらダメだった。もう少しで坂を上りきるというところで、大浜から黒いものがきた。最初は津波だとは思わなかった。もし登り口で30秒くらい遅れていたらバスも流されただろう。金曜日だったので日曜日分の民宿用の仕入れも終わっていたから食べ物も豊富だった。冷蔵庫のものをあけて持ってきて食べてしのいだ。それですごく助かった。一番良かったのは、縄文村がある里浜の被害が少なかったこと。あそこの人たちが米などを持ってきてくれたことで私たち避難民は食べることができた。


こうして宮戸島では、およそ1000人の住民が助け合い避難したことで、たくさんの方が一命をとりとめたことで知られています。鈴木さんのご家族・・・奥さん、息子夫婦、3人のお孫さんも無事でした。
ただ、お話にあったように、助かったご家族もあと少し遅れていたら、どうなっていたかは分からないと言います。

◆息子夫婦は宿の屋根の上にいた
うちの息子たちが屋根の上にいた。PTAの会長をしていて、学校に行ったら子どもたちが泣いて騒いでいる状態だった。うちは民宿だからと毛布を取りに来たら、玄関で地鳴りがしてみたら津波だったそう。調理台を駆けあがったら廊下から水がどーっと入ってきて、そこを超えて出窓に登った。そこから普通なら考えられないが、雨どいに手をかけて70kgの身体で登ったっていうんだから。そして屋根に上がったところに津波がぶつかってきて、それを一波も二波も目撃している。だから今でも「海は嫌だ」という。私より息子の方がそういう経験をしている。私も民宿を再開するなんて考えられなかった。どうやって暮らしていくのかを考えるばっかしで。


この宮戸島は、島に繋がる橋が被災したため、30日間 本土と分断された状態になってしまったそう。鈴木さんはじめ、住民の方は まだ冬の厳しい寒さが続く中、分担して、避難生活をやりくりしていたと話します。そんな避難所での生活は120日間にわたったということです。

あすも、宮戸島『汐さいの宿 ちどり館』 鈴木一男さんのお話です。


汐さいの宿 ちどり館

2015年6月12日

6月12日 復興グルメシリーズ5 福島県桑折町の桃『初姫』

6月12日(金)の『皇室献上の桃〕でも知られる福島県桑折町の桃農家、
大槻久男さんと、大槻貞嘉さんが育てた桃、「初姫」の当選者は
ラジオネーム:ならこ さん
ラジオネーム:桃 さん
ラジオネーム:うみ さん
以上、3名の方です!
おめでとうございます!

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今週は、東北各地の美味しい「食」に注目する、『復興グルメシリーズ』。

フルーツ王国でもある福島。まさにこれから夏〜秋にかけて、さくらんぼに桃、ぶどう、あんぽ柿に梨と、次々美味しい果物が旬を迎えます。今朝はそんな中から、夏の「あかつき」がとくに人気の「桃」に注目。お話しを伺ったのは、〔皇室献上の桃〕でも知られる県内有数の桃産地、福島、桑折町の桃農家、大槻久男さんと、大槻貞嘉さんです。お二人ともずっと桑折に暮らし、有機栽培で、代々続く畑を守り続けています。


◆皇室献上の桃
大槻久男です、大槻貞嘉です。この辺は、皇室献上の桃が始まって人気がでたんです。気候風土かと思う。桃の産地以外に何もないけど。この辺で一番早いのは、6月末の「花嫁」という品種。そのあと、「初姫」、「ひかわ」、「暁星」、7月の末から8月に入って、本番の「あかつき」。やっぱり一番人気は「あかつき」。大体、各品種特色があるが、本当に熟せば、どの品種でもうまいですよ!


「花嫁」、「初姫」、「ひかわ」、「暁星(ぎょうせい)」、そして人気の「あかつき」、今月の終わりごろから、いろんな種類の桃が、次々と収穫期を迎えるということなんです。

のどかな里で、大槻久男さんは5000平米、大槻貞嘉さんは6500平米の桃畑を育てていますが、それぞれ、色や大きさはもちろん、“指ざわり”で、最終的な収穫を判断するので、とくに収穫作業は、奥さん意外に手伝ってもらうことは無いそうです。手をかけ、愛情をかけてきた、桃畑なんですね。

桑折町は、東京電力福島第一原発から50キロ以上離れていますが、原発の北西側に位置していて、爆発事故の際、高濃度の放射線が流れた方向にあります。いまも全量検査を経て出荷していますが、風評被害は、予想を超える大きなものでした。

◆風評被害にまけねど!
ちょうど畑で携帯がなってすごく揺れた。畑から家に戻ると、屋根の瓦が落ちてたり、壁も壊れた。畑の被害はなかった。何日か、電気が来なかったから、状況が全然わからなかった。だからもう普通に生活していた。原発の事はぜんぜんわからなかった。そのあと、役場で検査をして結果をだした。全部検査は最初の年からやっている。この辺は、山菜の線量が高かった。後、梅と柿。あの年の8月10日を境に、値段がダウンしてしまった。「あかつき」も11日から半値以下。そのあとの「まどか」というやつは、1キロ350〜360円していたものが、10日境にでた「まどか」は1キロ35〜36円。10分の1以下になってしまって、本当にやるせなかった。どうしてこういう様になってしまったのかなという感じで、再生産の意欲がなくなってしまった。来年はどうなるんだろうと。原発の被害は数字には出てこないが、風評被害でね。農家は作ることしか知らないから、休むわけにもいかない。昨年26年度は、大体、80パーセントくらいまで回復した。一応キロ400円と言う目安ではいるが、作る方としては、立派な良いものをみなさんに提供したいと言う思いがある。福島の桃は甘くておいしいから、みんな食べてもらえるようお願いします。こういう感じで年寄頑張ってますので、福島の桃いっぱい食べて下さい!お願いします!


★ ★ ★ ★



『LOVE&HOPE』。今朝は、〔皇室献上の桃〕でも知られる福島県有数の桃産地、桑折町の桃農家、大槻久男さんと、大槻貞嘉さんが育てた桃、「初姫」の5キロ箱を、3名の方にプレゼントします。
ただし、いままさに熟すのを待っている段階なので、6月の終わりか7月の初めごろ、大槻さんの“指”がOKを出して、収穫され次第の発送となります❤

ご希望の方は、『LOVE&HOPE』のブログのメッセージフォームに、お名前、住所・連絡先を忘れず、「プレゼント希望」と書いておくって下さい。このあと9時まで受け付けます。当選者の発表はブログで行います。

郵送での販売も受け付けてるそうなので、よかったら味わってみてください。
福島県桑折町 桃農家 大槻久男
電話0245 82 2558


7月頃から「花嫁」「初姫」「あかつき」など、各品種の収穫が順次始まります。
福島の桃は美味しいです!

2015年6月11日

6月11日 復興グルメシリーズ4 オイタミート『東松島ハム』

6月11日(木)の『「オイタミート」のギフトセット』当選者は
東京都 ラジオネーム:おてもやん さん
長野県 ラジオネーム:ころたん さん
山口県 ラジオネーム:アラフォーママ さん
以上、3名の方です!
おめでとうございます!

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今週は『復興グルメシリーズ』。東北の「うまいもの」を作る人たち、食を通じて復興・地域活性に貢献する人たちに、焦点を当ててお届けします。


震災から4年と3ヶ月。今日ご紹介するのは、宮城県東松島市に本社と工場を構える「オイタミート」。東北産の素材を厳選して、丹精込めたハムやソーセージなどを製造販売しています。

「オイタミート」は、二代目の現社長、及田賢治さんのお父さんが、終戦後、松島基地にやってきた進駐軍の体の大きな兵隊たちを見て、“これからは肉だ!”と起業を決意、農業から鞍替えして、養豚と、精肉、小売りを始めたのがルーツ。そして二代目の賢治さんは販路を全国規模に広げ会社を拡大、さらに、ひとり娘でもある幸栄さんが、ハム・ソーセージの事業をはじめ、これがいま大人気となっています。

そんな中で起きた東日本大震災。戦後の復興期に立ち上がった先代と同様、二代目の及田賢治さんと幸栄さんは今、震災からの復興に向けて立ち向かっています。平成15年に、高台の工業団地に工場を移転。津波の直接の被害は有りませんでしたが、元の工場の場所に有ったご自宅は津波にあったという及田さん、当時のことをこう振り返ります。

◆豚汁を避難所に
従業員で直接被害に遭った人はいませんでしたけど、従業員の家族で10名、私の身内も3名亡くなり、一人は行方不明。ここは電気水道が震災後2週間で回復したが、その間、豚の枝肉をローソク点けてカットして、近所の農家さんにガソリンを分けてもらって冷凍車で冷やした。2〜3日して市から温かいものが欲しいと頼まれ、豚汁用の肉を手でカットして1トン避難所に配りました。


じつは震災の有った2011年の春に、幸栄さんのハム・ソーセージのラインを建てる予定でしたが、震災のため1年遅れて翌年の春に完成。しかも資材と人件費の高騰で、想定よりもはるかに費用がかかってしまったんだそうです。それでも及田さんが投資に踏み切ったのには、こんな思いがありました。

◆こだわりの地元産ハム
娘がハム・ソーセージ作りをしてみたいと。それとこれから養豚はTPPの問題とかあって原料確保が難しい時代になるなと。でも人はいる、若い人もいる、生き残るのに何かしないといけない。それでハム工場を作った。うちのハムソーは、「東松島ハム」といって、地元・東松島の豚をはじめ、宮城県産、山形県産、岩手県産、東北産の原料だけ。自信のないものは作らない。スーパーさんなんかのディスカウントの話はきますけど、やってない。安かろうってなっていけないので。モノ吟味でやってます。おかげさんでハム工場の方は3年になりますけど予定よりも早く工場のキャパは目いっぱいなくらい毎日仕事させてもらってます。いちばんは出来るだけ雇用すること。震災前は23人だったのが今は45人。これからも採用を増やしていきたい。当社の製品は大きい工場じゃないのでその分心をこめてやらせてもらってます。大量生産じゃない、地元の原料にこだわって、地元のパートさんたちが一生懸命心をこめて作ってる、そういう商品が「東松島ハム」・・・と思って頂けると働いているみんなが嬉しいと思うのでよろしくお願いしたいと思います。


★ ★ ★ ★


というわけで!今朝 プレゼントするのは、東北産の素材を厳選して、丹精込めて作っています、「オイタミート」のギフトセット!

「ロースハム」・・・・・自然熟成させた本仕込みのロースハム。
「パプリカリオナ」・・・彩りの良いパプリカを散りばめたスライスソーセージ。
「ビアシンケン」・・・・コリアンダーのスパイスが香るスライスソーセージ。
ほか「あら挽きウインナー」の「プレーン味」、「黒粒胡椒味」、「チョリソー味」に、「フレンチマスタード」という内容。

この肉感満載のセットを、3名様にプレゼントします。
ご希望の方は、メッセージフォームに、お名前、住所・ご連絡先と、「プレゼント希望」と必ず書いて、送って下さい。本日(6月11日)このあと9時まで受け付けます。(当選者はこのブログで発表)

また「オイタミート」の商品は、東松島市のアンテナショップ、「まちんど」で販売しているほか、ヤフーのショッピングサイトでも購入できます。

***
『LOVE&HOPE〜復興グルメシリーズ』、明日は、福島県桑折町(こおりまち)から、絶品の「桃」をご紹介します!お楽しみに。

2015年6月10日

6月10日 復興グルメシリーズ3 南三陸 菓房山清の『たこプリン』

6月10日(水)の『たこプリン』当選者は
千葉県 ラジオネーム:りりさ さん
静岡県 ラジオネーム:ネコタマ母ちゃん さん
愛知県 ラジオネーム:キキ さん
以上、3名の方です!
おめでとうございます!

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東北の「うまいもの」を作る人たち、食を通じて復興・地域活性に貢献する人たちに、焦点を当ててお届けします。毎日、復興グルメのプレゼントもご用意しています!

きょうは、宮城県南三陸町にある和菓子・洋菓子の老舗『菓房 山清』。
創業はなんと大正14年。ずっと地域とともにご商売をしてきたお店です。現在は南三陸町志津川にある復興商店街「さんさん商店街」にあります。

津波で従業員お1人を失いながら、数ヶ月後・2011年7月には隣町に仮の工場をたて、お菓子作りを再開したという山清。お店の3代目の奥様・山内淳子さんは当時をこう振り返ります。

◆従業員の後押しで再開
南三陸町の役場、防災庁舎と川を挟んで目の前だったので、本当に工場と本店と店舗と自宅が全て津波で流されて何も無くなってしまった。高台の小学校に避難して校庭から、第一波が水門を超えて次から次へと街をなぎ倒して行くのを見ていたので、会社の再開とか考える余裕も無かった。それでも従業員から「やりましょうやりましょう!」と社長への訴えがあり、社長もとにかくどうなるか分からないが社員の生活もあるし頑張ろう、と背中を押された感じで、みんなで必死に再開へ向けてやりました。みんなで掃除から初めて、はけ1本すらないので集めるところからでした。そして2011年7月末に再開しました。


震災からわずか4ヶ月後、南三陸町に隣接する登米市に仮設工場を構え、事業を再開することができた山清さん。そして現在は 全国的にも有名な地元産の「タコ」を使った人気グルメで、復興・地域活性に力を注いでいます!


◆セレブな志津川だこを使った、その名も『たこプリン』】!
震災前にやっていた「たこプリン」という商品がある。南三陸はタコが名産。アワビやウニを食べて育った「セレブなタコ」と呼ばれている。それに全国選りすぐりの材料を使ってたこのキッシュを作って、たこプリンと名付けた。最初は「タコのキッシュ」「シーフードキッシュ」など候補はあったが、田舎で「キッシュ」と言っても伝わらない。じゃあ菓子屋が作ったキッシュだから「たこプリン」はどうだということで震災後オープンして数ヶ月後から販売をスタート。好評となり、子どものおやつ、大人のお酒のおつまみにも利用して頂いていてだいぶ浸透してきたかなと思う。タコはあんまり小さくすると触感がないので、ぶつ切りにしている。ころころした触感を残してオーブンで焼き、急速冷凍を欠けているので、それを電子レンジかオーブンでちーんしてオーブントースターで焼く。これにタバスコをかけるとワインにもピッタリ。ひと味違った美味しいキッシュになる。南三陸はまだまだ復興半ばで、震災当初と比べるとあちこちかさ上げが始まっているが、海もだいぶキレイになったし、山にもいろんな名産、隠れたスポットがある。キャンプ場もあってこれからいい時期なのでぜひ足を運んで頂いて商店街にも寄ってもらってお買い物して頂ければ嬉しいなと思います。


★ ★ ★ ★

ということで今朝プレゼントするのは、南三陸町 菓房 山清の『たこプリン』!!

南三陸・志津川は、『西の明石、東の志津川」と呼ばれるタコの産地。タコは肉厚で柔らかく、噛めば噛むほど味わいが広がるのが特徴。「たこプリン」は、その志津川のタコのほか、宮城産の卵、蔵王の牛乳、十勝産 生クリーム、沖縄宮古島の塩など厳選した食材で作られています。そして、タコは、ウニやアワビを食べて育った「セレブなタコ」なんです!

この『たこプリン(5個入り)』を3名様にプレゼントします。ご希望の方は、「メッセージフォーム」から、お名前、住所・連絡先を忘れずに入力して、プレゼント希望と書いてご応募ください。本日(6月10日)このあと9時まで受け付け。当選者はこのページで発表します。

こちら、お取り寄せも可能。南三陸さんさん商店街の店舗でも販売しています。ぜひお出かけして、ご当地の空気や景色とともに味わって下さい!
★購入可能サイト⇒ 南三陸deお買い物
菓房山清のサイト

2015年6月9日

6月9日 復興グルメシリーズ 『金華さば 生ハム燻製』

6月9日(火) 金華さば 生ハム燻製の当選者は

★ラジオネーム:駿ちゃんママ さん
★ラジオネーム:メリキン さん
★ラジオネーム:タカクロ さん

以上、3名様です。
明日の復興グルメもお楽しみに!


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今週は『復興グルメシリーズ』です!

東北の「うまいもの」を作る人たち、食を通じて復興・地域活性に貢献する人たちに焦点を当ててお届けしています。 毎日、復興グルメのプレゼントもご用意しています!

今日は、世界三大漁場・宮城県・金華山沖のブランドサバ『金華さば』を使った、この絶品グルメです!

★金華サバ 生ハム燻製★
生ハムのような触感・極上の旨味が楽しめる、金華さばの燻製です。

こちらを開発した、石巻市・本田水産 代表の本田太さんのお話です。

◆脂肪分が20%以上!脂の乗った金華サバを燻製に!
うちは牡蠣屋なんですけど、牡蠣の燻製もあるし、ホヤ、ホタテ、銀鮭のスモークサーモンも作っていた。金華サバが非常に獲れて、これまた美味かったのでやろうということで、基本的にはサバの旨味を引き出す。変なことはしない。石巻の金華サバは素材がいいから、うちらは塩だけで味付けする。そして魚に良い冷風乾燥をする。さらに桜のチップで燻製をかける。その時も温度は10度前後。普通は温風と温燻なのだが燻製の強くなって生の味にならない。魚の旨味がでない。目的はサバの旨味を引き出すこと。金華山という島の周辺で獲れたサバで、高鮮度で脂が乗っていて大型であることが条件。本当に恵まれた場所。親潮と黒潮、金華山の沖でぶつかって植物性プランクトンが大発生する。それを金華山沖で食べる金華サバだから美味しい。私は金華サバという石巻ブランドは、石巻を代表する魚じゃないかなと思っている。


ちなみに本田さんの個人的には『純米酒と一緒だと相性バッチリ』とのこと。

そんな本田水産は、震災前、浜市6人集という腕利きの牡蠣漁師さんたちとともに三陸の海の幸で次々商品を開発してきました。震災から4年が経過しましたが、いまの状況はけして良くないと話します。

◆ホヤを食べてほしい!
大変でしたよ。浜市工場と、魚町工場は全滅。浜市6人集も欠けて一人だけ。もう牡蠣漁をやっているのは2人だけ。あとは辞めてしまった。なぜかというと船もやられて家も、養殖施設もクルマも無くなってしまって仮設住宅にいて、私みたいな60歳過ぎた人間がまた借金をしてやる、というわけにはいかない。それが現状。特にホヤが困っている。宮城のホヤの8割が韓国へ行っていたのだが、韓国は輸入禁止になっている。今の漁師さんは震災後にホヤは売れると思って作っているが、実際にはホヤが成長して収穫できる3年が経過して去年から販売を始めたが、去年も今年も韓国へはいかない。来年も行かなかったらどうするか。一生懸命ホヤを剥いて色んな工夫をしている。オリーブオイル漬けにしてみたり加工品に力を入れている。食べてみれば分かる。みんなが食べてくれれば韓国への輸出が無くても成り立つんです。


★ ★ ★

今朝は、宮城県石巻市・本田水産の『金華さば 生ハム燻製』と『ホヤのオリーブオイル漬け』をセットで、3名様にプレゼントします。

ご希望の方は、「メッセージフォーム」から、お名前、住所・連絡先を忘れずに入力して、プレゼント希望と書いてご応募ください。このあと9時まで受け付け。当選者はこのページで発表します。

また、こちらの商品は本田水産のホームページでもお買い求めいただけます。ぜひ石巻へ行って、地元のお酒とともに楽しんでみてはいかがですか?
本田水産のホームページ

あしたは、宮城県南三陸町 「たこプリン」をご紹介します。

2015年6月8日

6月8日 復興グルメシリーズ 愛情たらこのみなと

6月8日(月)「みなとの人気4種セット」の当選者は、
・ミジャリーさん
・みにおさん
・すみすさん
です!
おめでとうございます!

今週は東北復興グルメシリーズ!東北で「うまいもの」を作る人たち、食を通じて復興・地域活性に貢献する人たちに焦点を当ててお届けします。さらに!毎日紹介する復興グルメのプレゼントもあります!


そのトップバッターは、石巻市で30年以上たらこ作りを続ける湊水産の「愛情たらこ」です!
震災による津波で工場や店舗が被災。まる4年かけて新しい工場を完成させ、現在は楽天市場のたらこ部門ランキングで先日まで1位から4位を独占するなど、その美味しさは地元だけでなく全国に広がっています。

湊水産、代表の木村一成さんに、そのこだわりを伺いました!!

◆手作り、手返しの愛情たらこ
着色料を使わず無添加で、手作りにこだわって手間暇かけて作っているのは珍しいっちゃ珍しいですかね。機械で漬けると楽なんですけど、たらこはできるだけプレッシャーをかけないように優しく漬け込むことが必要で、味の面では手作り、手返しをしないと自分たちが求めている味ができない。そのため面倒くさいんですけどいちいち手で手間暇かけている。そこがうちのこだわり。
出汁は地産地消で石巻の昆布を使いたいんだけど、やっぱり北海道の昆布。カツオは四国の業者にお願いして粉末にして煮出している。めんどくさいですねえ(笑)口の中のサラサラとした粒子感とピュアな味。できるだけ化学調味料を省いている。そして毎日漬けあがったものを女工さん含めて我々も含め必ず食べる。食べて、いつもとかわらないことを確認してから全員で商品を作ると決めている。だから今日の出来は美味しい!となると女工さんは買っていきますよね。


ちなみに、特に人気が高いのが、『しそ明太子』。シソをたっぷり使い120時間熟成させ、辛さ控えめ、優しく深い味わいの逸品。注文が殺到しているそうです。

そして湊水産では、たらこ作りだけでなく、子どもたちに地元の食べ物を身近に感じてもらう取り組みも始めています。

◆たらこつくろう!
お家で出来立てのたらこを食べてほしい
実はうちは、去年から始めたことがある。「たらこ、つくろう」という食育の企画。生の原料を触りながら自分で調味料を測って漬け込む。その時は食べれない。お家に帰って明後日食べることができる。その間に必ず1日2回冷蔵庫から出して「おいしくなあれ」って呪文をかけて、夕方家族みんなで食べてみな、って。ピュアでみずみずしいです。それは出来立てを自分で作らないと味わうことができないもの。自分たちが育ったように小さい頃から美味しいものを食べさせないとダメ。子どもたちに、本当にピュアな味ってこうだぜと。できれば地元に住んでいるんだから作り方くらい覚えようよと。そういったことができればもっと身近になるかなと。子どもたちが水産って面白いと思ってもらえれば一番いいなと思っている。石巻に残る理由として、水産って面白い、こんなことができるんだぜということを一緒に想像してできたらもっと面白い町になるのかなと思って、それが一番の希望というか望みというか、狙いなんですね。子どもたちが学校でちゃんとプレゼンして発表会をやってそこに招待されて、「あの震災をどう乗り切ったんですか」「どうやって立ち上がったんですか」「会社ってどんなことをやっているんですか」「たらこってどうやって作るんですか」という質問に答えながら、「たらこ、つくろう」イベントをやって、それをみんなで共有して発表しましょうというのが学校の授業の中で行われているんですね。


湊水産の食育イベント「たらこ、作ろう」は東京でも出張授業をしているそうです。

★ ★ ★


今日はこの「愛情たらこ」をリスナーの方にプレゼントします!
人気のしそ明太子や、だしと魚醤で熟成させた無添加無着色たらこなど、4種類・それぞれ90グラムがセットになった「みなとの人気4種セット」を3名様に。

ご希望の方は、「メッセージフォーム」から、お名前、住所・連絡先を忘れずに入力して、プレゼント希望と書いてご応募ください。このあと9時まで受け付け。当選者はこのページで発表します。


石巻の店舗でも購入できますので、石巻へ出かけた際はお立ち寄りください!
また、楽天市場での購入も可能です。


∞∞∞∞∞

あすは、石巻市のブランドサバ「金華山さば 生ハム燻製」をご紹介します!もちろんプレゼントもありますのでぜひお聴き逃しなく!

2015年6月5日

6月5日 愛情たらこのみなと(1)

今朝と、来週1週間にわたってこの番組では、東北で「おいしい食べ物」を作る人たち、食を通じて復興・地域活性に貢献する方たちの声をお届けします。

お話を伺ったのは、石巻市で30年以上「愛情たらこ のみなと」というブランドの たらこ作りを続ける湊水産の、代表 木村一成さん。湊水産のお店と工場は住宅街にあり、漁港から1キロ以上離れているのですが、木村さんは、あの日の津波は、そこまで襲ってきたと振り返ります。

◆工場の2階が避難所に
まさかここまで来るとはだれも思っていなくてですね。2mきました。業務用の大きな冷蔵庫の2階があるんですが、そこに34−35名がそこに避難して一晩二晩ですかね。水が引くまで2日かかりました。水が引いてから各自の家族を連れておいで、ここで生活しようやと。そしておじいちゃん、おばあちゃん、子どもたち、見ず知らずの人たちまで含めて80人近くが仕事が始まる5月6日まで共同生活をしました。たまたま焼きタラコが真空パックで70ケース、発泡スチロールだから水の上に浮いていたのでそれを食料にしました。三日三晩何も食べないで家族を探しに行って安否を確認していた人にも、焼きタラコを配って生き延びなとやっていた。
あの時は2日目にみんなを集めて、私は「水と電気が来たら仕事がしたいからやろうぜ」、という話をした。「はぁ?」という顔をされた(笑) 「なにを言っているの」という話になった。そこで奥さんの顔を見たら、奥さんも偉くて「大丈夫だから、やろうやろう!」って言ってくれた。その一言でムードが変わって次のステップに行けましたね。女性って強いねえ。それが今のうちがあるターニングポイントでした。そんなことを言ってしまったので、みんなで必死で、大工さんもいないから、工場の壁もぶち抜かれて機械も動かない中で、自分たちでペンキを塗って直した。5月6日に仕事再開の時には新しい原料でタラコを漬け込んで2日後にたらこができて、良かったな〜ってみんなで泣いて食べました。近所に、やっとうちのタラコができたと、配りました。またよろしくお願いしますと。そこから始まった。


こうして業務を再開した湊水産は少しずつ生産を続け、従業員を一人も解雇することなく、まる4年かけて新しい工場を建設。代表の木村さんは、地域に支えられてきた恩返しをしたい、と従業員や地元の方を守る「備え」も用意したと言います。

◆社屋が避難所に指定 従業員を守りたい
去年4月に完成。一番最初にやったのが従業員の安全。4年が経過して市役所から避難場所として認定を受けた。町内会にも、ここに逃げてください。山で寒い思いをする必要はないよとお知らせしている。200人近くが避難している。うちの取決めとして定年なし、最低75歳までは仕事をして下さい。みなさんの技術を若い人に伝授したら卒業式をしようということになっている。若い人の入社条件は、結婚しても子供を産んでも会社は辞めないというのが条件。今も産休で2人休んでいて、3人目をこないだ生んで復帰した人も。こんなに嬉しいことはない。我々としてはその子が20歳で一人前になるまでは会社をつぶせないな、ということでみんなががんばっている。



この湊水産のたらこ、着色料・添加物を使わず、「手返し」という機械を使わないこだわりの製法で知られています。実はインターネットのショッピングサイトでも、ダントツの人気を誇っています。

★そして、来週月曜日はこの、『愛情たらこの みなと』の絶品たらこをお聴きの方にプレゼント!1週間かけて、東北の『復興グルメ』の数々をプレゼントする予定です。ぜひ来週もお聴きください。

愛情たらこのみなと サイト

2015年6月4日

6月4日 仙石線全線開業・沿線のいま4

先週末に全線復旧したJR仙石線沿線からのレポート。きょうは、宮城県・石巻市です。



JR仙石線の全線復旧と同時に、「仙石東北ライン」が開業。仙台―石巻間は最速で52分と短縮されました。



震災以降、石巻―仙台をクルマや高速バスで通勤・通学していた方が、これを機に、電車に切り替えるケースも多いと言います。そしてもちろん、週末の行楽・観光に関する地元の期待も高まっています。

JR石巻駅そば、観光案内所 兼 地場産品のショップ『ロマン海遊21』 のスタッフ、石巻観光協会の桶谷修さんに伺いました。



◆地域の復興が楽しみ
4年2か月ぶりに開通。楽しみにしていた地域住民がたくさんいて、それによって交通の利便性や産業の活性化、交流人口の増加が期待できるのではないかと思っている。今までは高速バスで仙台と石巻はつながっていたが、バスは1時間30分。仙石東北ライン快速は52分なのでかなり短縮なので地域住民としては嬉しい。高校や大学に通う学生も大変だったと思うがこれで学生も利便性が上がって通いやすくなるのではないか。好きな景色は矢本駅に入ったところ。ああ石巻に近づいたなとテンションがあがる。地元に帰って来たなと。もちろん海が見える景色も好きだが矢本から石巻の景色は住宅街で、通いなれたいつもの風景が、帰って来たなと帰ってくる。今までの日常が無くなってしまったので、それが4年2か月ぶりに戻ってきて、これからどのように復興していくかが楽しみ。


高速バスだと1時間30分。これが52分になるということは、約40分も短縮されることになります。観光者にとっては「40分」時間が増えるとも言えます。40分あったら・・・なにができるでしょうか。

◆40分に、時間を足して詰め込んで!
40分。石巻は海産の町なのでたくさんお寿司屋さんがある。それぞれ特色があるので食べて、石ノ森章太郎漫画館に行ったり牡鹿半島、雄勝、北上地区も40分あれば回れるので。(牡鹿半島は無理では)いや、40分あればちょっと時間を足して詰め込んで。見どころがありすぎるので予定を再計画してもらってたくさん詰め込んでください。


ちょっと欲張り過ぎな感じもしますが。。。とはいえ、40分あればお土産をじっくり選ぶ時間にも使えそう。というわけで、石巻駅前『ロマン海遊21』のおススメのお土産を教えて頂きました。

◆金華サバの缶詰は絶品!
いま人気があるのが、石巻田代島のねこまんまクッキー。ネコ好きにはたまらない商品。なかに鰹節が練り込んであって美味しいです。あとは石巻はB級グルメの石巻やきそばがある。お土産で買う人がたくさんいる。茶色の面は二度蒸しによって発色するもの。ソースの色ではない。最後に缶詰。石巻水産の金華サバの味噌煮と水煮。脂の乗りが全然違う。大型の鯖だけが金華サバと名乗れる。水煮だとサラダなど料理上手ならバリエーションが工夫できる。かなり売れている。金華さばの味噌煮は白いご飯があれば何もいらない。貧乏学生の頃はがばっとあけてご飯にのせてそのまま食べていた。軽く2〜3杯はいける。これは美味しい!

 


そして石巻は今年もまた夏に「川開き祭り」があります。また、石巻駅から車で10分ほどの船着場から、『網地島(あじしま)』へ船で渡れば、素晴らしく透き通った海で海水浴も楽しめるそう。

仙台から52分。選択肢は広がります。ぜひ、夏休みの予定に、組み込んでみてはいかがでしょう。

2015年6月3日

6月3日 仙石線全線開業・沿線のいま3


5月30日、東松島市・野蒜駅前では仙石線の復旧を祝うイベントが開かれ、地元生産者やお店、観光施設の方々が様々なブースでイベントを盛り上げました。

その一つが、奥松島縄文村歴史資料館。野蒜駅から5キロほどの距離、東松島市の宮戸島にある施設です。「奥松島」と呼ばれるこの地域、実は縄文時代の遺跡が数多く残っていて、考古学的にも、防災の観点からも、非常に価値の高い場所なんです。歴史資料館の館長で、学芸員の菅原弘樹さんに伺いました。

◆縄文人に学ぶ防災
宮戸島では、室浜、大浜、月浜は外洋に面している。集落としてはおそらく江戸時代以降に出来たと考えられていて、海のそばに集落があった。それに対して里浜貝塚のある里浜は内湾に面している。今回の震災でも直接津波を受けていない。しかも里浜は10mくらい高いところに集落があった。これは表の3つの浜とは明らかに違う。それは実は縄文人が住んでいた遺跡の上にある。縄文人がすんでからずっと現代まで先祖代々受け継いだことによって、今回震災の被害が非常に少なかった。改めて縄文人が住んでいたところは安全だということが分かった。全国的に見ても震災被害を受けた青森から茨城まで、貝塚は480ほどあるがその中で今回の津波をかぶったところはない。縄文人は、どの縄文人もみんな高いところに住んでいた。今回の震災を受けたキーワードとして、職住分立が完全にできていた。縄文人も低いところで貝を取り魚を獲り、塩を作っていた。ただ住むところは海を臨む高台だった。山を切り開いて平らにして竪穴住居を作り、周りには里山があり、山の木を管理しながら、海を見下ろす高台にいて魚介類を下に撮りに行く。徹底した職住分離ができていた。今各地で高台移転ということで造成工事が行われているが、そうすると必ず遺跡にぶつかる。漁業をする上で便利なところということで、みなさん海岸に住むのだが、安全なところは海を見下ろす近くの山。集落のそばには昔の記念碑があって、そこの集落の人は、昔津波で亡くなった人がいるから津波が来る状況になったら必ずそこより高いところに逃げた。いつの時代か分からないが、その言い伝えや石碑に従って地域の人たちは逃げた。宮戸島には1000人の人がいたが、10人が亡くなった。その多くは仕事で野蒜でなくなったり、鹿浜で亡くなった。集落で亡くなった人は1人だけ。伝えていかなければいけない。島全体が防災教育の場になる。島としてはこの玄関口である野蒜が震災後のまま、仙石線が止まっていたままだった。それが動き出したということは野蒜、宮戸島にとっても大きい。地域にとっても、よそから来た人にとっても復興を感じ取ってもらえるのではないか。電車が通り、復興状況を見てもらえるのは大きな大きな一歩だと思う。ぜひ宮戸島まで来てもらいたい。宮戸島はいいところ。「奥」松島ですから。そういう自然がそのまま残っていて、観光地ではない本当の松島の姿が残っているのでそれをぜひ見に来てほしい。


そもそも宮城県は、全国で3番目に貝塚が多く、その3分の1が松島湾沿岸にあります。特に奥松島・宮戸島は6800年前、松島湾沿岸の人々の拠点的な集落だったそうです。そしてその発掘は、全体の1%ほどしか終わっておらず、まだまだこのあたりには私たちの先祖が残した、たくさんのメッセージが眠っていると考えられています。

奥松島縄文村歴史資料館

2015年6月2日

6月2日 仙石線全線開業・沿線のいま2

引き続き、全線復旧したJR仙石線の沿線、宮城県東松島市からのレポートです。

取材したのは、仙石線・野蒜駅周辺、野蒜地区です。津波でおよそ500人の方が犠牲となり、駅舎は全壊。新しい駅は、内陸の高台に移設されました。現在、新しい駅舎周辺では、仮設住宅から集団移転する方のための宅地造成が進められています。東松島市 復興政策課、五野井盛夫さんの話です。

◆階段を一つ一つあがるように
野蒜地域というのは特徴的で、三方を海に囲まれている。太平洋側と松島湾側で海に面している。丘陵地以外は低地で、ほとんどが住居地域だった。そこに津波が来た。高さ10mと言われているが、それで逃げ後れてなくなった方が多かった。そういう中で町づくり構想を立てる中で、全部を高台に建てたいという願望はあったが、住宅・市営住宅だけでなく公共公益施設となる市民センターや集会所、学校や保育施設や派出所や郵便局、高齢者の施設などを全て一体的に丘陵地に造成するということになるわけで、その中で交通体系のJRも一体的に高台に駅を移転するということで一つの町を作っている、という想いはある。そういう中で工事の事業は途中。住宅の引き渡しもJRが開業してから1年後にはじまる。そこから住宅を建てて、商店が出来るまでは一定の時間がかかるだろうなと思う。きょうJRが走ったのは一つのポイント。階段を上がって行くように一つの段階を超えたという想いです。


高台を切り開いた土地が、住民へ引き渡されるのは、来年の7月から。これはあくまで「土地の引き渡し」で、家を建てるのはそれ以降となります。町全体で宅地引き渡しが終わり、公共施設などが完成するのは、2017年4月になると言います。インフラの整備が進む一方、町づくりは、まだまだ、これからです。

◆必要なのは人材と時間
仕事を進めていて、何一つ復興事業が終わっていないと思う。駅が完成したが全てが終わっているわけではない。これからもどんどん進めなければいけないことがたくさんある。そういう意味で考えると、これから必要なのは人材と時間。震災からどんどん時間が過ぎている。元に戻すのにどれくらいかかるのかと考えてしまう。私の野蒜の昔からのイメージは、白い砂浜と緑の松林。そこまで復元するにはすごい時間がかかるのかなと思う。白い砂浜に戻しても脇で工事が行われていて重機があったら風光明媚には見えない。そのあたりも早く終えていかないと私は、白い砂浜には見えないと思っている。まだそこまで行っていない。被災者の移転先をとにかく作ることが重要課題だが、それをあわせて、松が生えて立派になるには30年くらいかかる。戻ってほしいですよね。考えて行かなければ行けないです。


東松島市の五野井さんは、町づくりの計画について、少しでも前倒しして行きたい、ともおっしゃっていました。新しい野蒜駅は、ちょっと急な坂を登る必要があります。お年寄りの方には少し負担が大きい印象がありました。駅周辺の高台に、集団移転が進まないことには、駅の利用もなかなか増えないことも考えられます。五野井さんの言う「人材と時間」。まだまだ様々なサポートが必要です。

あしたも全線復旧した仙石線沿線から、人々の声をお伝えします。

2015年6月1日

6月1日 仙石線全線開業・沿線のいま1



2015年5月30日(土)、仙台と石巻を繋ぐJR仙石線が全線復旧しました!
今朝は、その当日の東松島市から、4年2ヶ月ぶりに一本の線路で繋がった、沿線の様子をお伝えします。


東松島市の、野蒜駅・東名駅は、津波で全壊したため、新しい駅は内陸の高台に移転しました。30日(土)、野蒜地区では駅の復活を祝うイベントも開かれ、地元産の牡蠣、アサリ汁などの出店もいっぱい並びました!!


写真は、東松島東名で育った、1年で成長する「一年子」と呼ばれる牡蠣です。なんとこの日が、シーズン最終日!取材した高橋も、今シーズンラストチャンスの、ぷっくりぷりぷりの牡蠣に笑いが止まりません!!


さて、ここからが本編です。この日、野蒜駅の新駅舎前では出発式も行われ、午前10時54分には仙石線の上り列車が出発進行の合図とともに発車。 この日を心待ちにしていた、たくさんの方が列車を見送りました。

◆仙石線復活を喜ぶ人々の声
・「石巻駅から仙石東北ラインの新型車両に乗って野蒜駅まで来た。だいぶ途中の駅でも再開を期待している人たちが、待ちに待ったという感じで太鼓とかで盛り上がっていた。車内から手を振りながら来た。」

・「隣の小野から。震災で家がなくなり仮設住宅に住んでいる。きょうは仙石線開通。待ちに待った再開!今までは出かけたくてもバスの乗り換えが大変で・・・。4年2ヶ月この日を待っていたのでとっても嬉しい。今度は仙石線に乗って仙台方面どこでも行きますよ!なにが楽しみって、買い物と食べることと旅行。仙石線に乗ってこれから楽しい人生を送ります。津波で家も何にもなくともこのように元気。まけてらんない。東北のおっとうおっかあは強いの(笑)

・「神奈川県から。親戚が仮説に入っていてお墓を建てたのでお墓参りしたところ。うちの母がこちら出身なんです。」
(お母さん)「うちは全部流されちゃったの。いまお墓参りしてきました。生まれが東名なんです。」
「これからはちょくちょくこちらに来られます。今までは仙石線が開通してないからな・・・思っていたので嬉しいです。」


先週もお伝えしましたが、JR仙石線の全線復旧と同時に、「仙石東北ライン」も開業。これで仙台―石巻間が最速で52分に!

ちなみに、この仙石東北ラインは、ディーゼルエンジンと電気モーターを組み合わせたハイブリッド車両を導入しています。仙石線と東北本線は、それぞれ動力が違う区間があるのですが、その全部を走ることが出来るスグレモノなんですって!!

あしたも仙石線 全線開通をめぐる、沿線の人々の声です。

パーソナリティ 鈴村健一

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