2019年5月31日

フォトジャーナリスト 渋谷敦志さん(3)

今日も報道写真家、渋谷敦志さんのインタビューです。

渋谷さんは東日本大震災の直後から8年に渡って、福島県南相馬市の上野敬幸さんの取材を続けています。
上野さんが中心となって活動するボランティア団体「福興浜団」では、毎年8月に鎮魂の花火大会を開催しています。その花火大会でライブを行っているのが、
ロックグループASIAN KUNG-FU GENERATIONの後藤正文さん。
上野さんと後藤さん。この二人の縁をつないだのが、渋谷さんでした。


◆毎年8月に行われる鎮魂のHANABI
上野さんとの出会いというか、僕にとって一番大切な写真の一枚ですけど、上野さんと消防団の皆さんを撮った写真はなかなか発表することができなかったんです。新聞や雑誌に掲載を提案したが、震災直後萱浜は避難区域だったので政府が立ち入ってはいけないと言っている場所で撮った写真は掲載しかねる、ということで。「この人の話を誰に託せばいいんだろう」と考えていたときに、アジアンカンフージェネレーションの後藤正文さんと出会う機会があったんです。彼が自分で、自腹でThe Future Timesという新聞をつくって、東北のこと、自分たちの社会のこと、未来のことを考える新聞を発行するという。その紙面で上野さんのストーリーを掲載できないかと言われて。この人だったら託せるかもしれないと思って掲載することになったんです。それだけじゃなく、後藤正文さんが「編集長としては自分も上野さんに会ってみないと」と言うことで、福島に案内して会ったんです。それが縁となって、上野さんは毎年夏に鎮魂の花火を打ち上げているが、その会場で後藤さんがボランティアでライブをやるようになって。今年も8月11日に花火が予定されていて、後藤さんも来てくれる。もしかしたら今年はアジアンカンフージェネレーションで来てくれるかもしれないという話にもなっているので、すごく楽しみですね。こういう形でつながったことを本当にうれしく思います。


今年の花火大会は8月11日。今年は初めて、アジカンでのライブになるかもしれない、とのこと!
詳細は今後「福興浜団」のFacebookで随時発表される予定です。

2019年5月30日

フォトジャーナリスト 渋谷敦志さん(2)

今日は報道写真家、渋谷敦志さんのインタビューです。

東日本大震災の直後から東北に取材に入った渋谷さんは、福島県南相馬市の原町区萱浜で上野敬幸さんに出会います。
上野さんは両親と小さいお子さん二人が津波の犠牲になりましたが、当時萱浜では、原発事故の影響で行方不明者の捜索ができませんでした。

◆「わからないまま分けずに、つながりを続けていく」
上野さんは当時も僕に怒っているわけではないんだけど、自分のぶつけようない怒りで爆発しそうな、触れたらやけどをしそうな感じでした。だから最初はカメラを向ける勇気もなかったが、でも彼の眼をみたときに、この人のことはとにかく伝えないといけない、この人から逃げるくらいなら、写真なんかやってきた意味がないと思って。この人を撮るか、写真を止めるかぐらいの覚悟で彼につきまとっていたわけです。そしてようやく一枚の写真を撮らせてもらった時から関係が始まったんですが、8年たった今もわかり得ないという感じのほうが強い。どんなに言葉を聞いても、どんなに写真を撮っても、上野さんという存在は僕にとって絶対的な他者で、わかりえない。僕たちの間にはボーダー(境界線)があって、僕はいつもそれを越えることができなかったな、という想いで取材から帰ってくる。でもまた向かっていく。それは繋がっていたい、という気持ちからで、少しでも近づきたいと言う気持ちがあるからなんです。上野さんを通して学んだのは、「わからないということが悪いことではない」ということ。「わからないということは分けない」ということでもある。逆に「相手の気持ちがわかる」というのは、それを整理して分類して横に置いてしまうような感じもして。そうするくらいだったら、わからないまま分けずに彼とつながっている状態を維持していることのほうが、意味があるんじゃないかと思っています。



渋谷さんがようやく撮ることができたという、最初の一枚。
地元の消防団の皆さんと上野さん

2019年5月29日

フォトジャーナリスト 渋谷敦志さん(1)


今日は報道写真家、渋谷敦志さんのインタビューです。
渋谷さんは、アフリカやアジアを中心に、紛争や災害の現場を26年間にわたって取材し続けてきました。

2011年3月、渋谷さんはアフリカでの取材を切り上げて急きょ帰国。東北に向かいます。そこで渋谷さんが目にしたものとは。

◆当時、南相馬市萱浜には人が誰もいなかった
東日本大震災が起きた時、僕はアフリカのウガンダにいたので、すぐに帰ってきて東北に取材に行きました。震災翌月の4月、仙台から車で福島に入って、原発にできる限り近づこうと思った。福島県南相馬に萱浜という標識があって、「浜」という字を見て、「海はどうなっているんだろう」と思い左折して、海岸を見に行ったんです。そこは津波で壊滅状態だったんです。それを見たときにはっとした。それ以前に陸前高田とか気仙沼の取材をしていたのですが、地震と津波という状況は同じなのに、違うのは人が誰もいない。ガレキの写真を撮っているときに、レンズに人影が写ったんですね。近づいて声をかけたら、上野敬幸さんでした。上野さんは自分の両親と子ども2人が津波で流されて。その後で原発事故があり、住民はみんな避難してしまって。でも自分たちの家族は行方不明のまま。警察も自衛隊もボランティアも誰もこないので、自分たちで探すしかなかった。その浜でお会いしたのがきっかけで、上野さんのお付き合いが始まって、もう8年が過ぎましたけど、今もつながりが続いているんですね。


渋谷さんが福島県南相馬の萱浜で出会った上野敬幸さんはご両親と小さいお子さん二人を津波で亡くして、お父さんと当時3歳だった息子さんは、いまだに行方がわからないままです。震災当時は上野さんにカメラを向けることもできなかったという渋谷さんが、どんなふうに上野さんと向き合い、関係を築いたのか・・続きは、明日の『LOVE & HOPE』でお届けします。

2019年5月28日

株式会社ワンテーブル・島田昌幸? 「LIFESTOCK」、宇宙へ・・・

宮城県名取市のベンチャー、株式会社ワンテーブル代表、島田昌幸さんのインタビュー、お届けします。

ここまで、ワンテーブルが開発した世界初・賞味期限5年のゼリータイプの防災食、「LIFESTOCK(ライフストック)」についてお伝えしてきました。

今後、ライフストックは、災害が起きたときに備え、自治体の備蓄倉庫やご家庭にストックされることになるわけですが、実はいま、災害とは別のシーンでの活躍も期待されています。それがなんと・・・・・・宇宙空間です!

◆防災食が宇宙食に
極限の状況ということでテーマを絞っていくと、水がなくて閉所で精神がかなりストレスフルということで、実は宇宙空間も結構似ているところがあるんですよね。宇宙は蛇口を捻っても水がないし、ロケットの中にかなり長期間滞在する。運動不足になったり、宇宙空間の環境は災害地域の状況に似ているところがあると。そこでパートナーシップを昨年8月にワンテーブルとJAXAが提携したと。「BOSAI SPACE FOOD PROJECT防災スペースフードプロジェクト」ということで。JAXAさんにも実は賞味期限の課題があるわけなんですね。実は火星を目指すためには行って帰ってくるまでに1年半がかかるわけです。賞味期限が1年半以上となると被災地の備蓄商品のラインナップが少ないように、宇宙食のラインナップも充実しているとは言い難い状況。そうすると産業としては宇宙用に作ると産業ロット、経済ロットは小さいわけですよね。我々が作っている工場の仕様はすでに5年ですからコストオンではなくて、我々の商品は既に宇宙仕様を越えているんです。そうするとわざわざ宇宙食を目指さなくても(いい)宇宙食の認証のレベルを超えていこうということで一緒に考えているんですよね。我々もいま宇宙認証を申請していますのでそれが通れば、このゼリーが被災地から宇宙へと言うことになっていく。それに挑戦しているところですね。


ということで今後、災害や避難所から生まれたアイデアが宇宙開発にフィードバックして、宇宙開発で培われた技術が、防災に活用されることになります。

★株式会社ワンテーブル

2019年5月27日

株式会社ワンテーブル・島田昌幸? 防災食ゼリー「LIFESTOCK」の可能性

引き続き宮城県名取市のベンチャー、株式会社ワンテーブル代表、島田昌幸さんのインタビューです。

ワンテーブルは、水がなくても、お年寄りや子どもでも飲み込みやすいゼリータイプの防災食を開発。自治体の防災食の目安「賞味期限5年」を、世界で初めてクリアしたことで注目されています。その特徴を代表・島田さんに伺いました。


◆各地域の特産品でLIFESTOCKを!
商品名は「LIFESTOCK(ライフストック)」です。3種類の味がありまして、グレープフルーツほうれん草、アップルキャロット、オレンジレタスという3種類のフレーバーがあります。僕たちは地域産業の振興、一次産業の振興を昔からやっていますから、今後は地域の地場産品を使ったLIFESTOCKを作りたいなと今年は新たなチャレンジを始めているところです。パッケージにもこだわっていて、配布される備蓄食料はたいてい全部銀色の無機質なものなんですね。なので僕たちは子どもが食べることも想定して「絵本のようなもの」というテーマで、かわいい切り絵をテーマにしたパッケージングで対応しています。心が滅入っている時のために、そういったところにも想いがある商品になっています。5月15日に竣工セレモニーがありましてようやく工場ができました。6月末くらいの出荷予定で自治体向け、企業さん向け優先的にご注文を受けるのですが、すでに個人の方からメールが来たり、ご連絡が来たりが結構あるんですね。なので今年の9月の防災週間には一般の方向けの商品も販売できるようにと想定しています。9月に向けては個別対応をしていこうと。


『防災備蓄ゼリー LIFESTOCK(ライフストック)』はすでに宮城県多賀城市では、備蓄倉庫に入ることが決定しているそうです。そのほかいろんな自治体から問い合わせが来ているということです。ちなみに、お味の方は、避難所で食べることを想定しているため「毎日食べる」状況でも飽きないよう工夫がされているということです。

明日もこのLIFE STOCKのお話です。なんとLIFE STOCK、今後は宇宙へ旅立つかもしれないらしい・・・
★株式会社ワンテーブル

2019年5月24日

株式会社ワンテーブル・島田昌幸? 5年間備蓄できるゼリー

今週は、宮城県名取市のベンチャー、株式会社ワンテーブル代表、島田昌幸(まさゆき)さんのインタビュー、お届けしています。

ワンテーブルは去年、「ゼリータイプの防災食」を世界で初めて開発。これまで、ゼリーの賞味期限の最長記録は「1年半」だったのですが、この賞味期限を・・・5年まで伸ばすことに成功したのだそうです。ものすごいイノベーションを起こしたわけですね。

ただ、なぜそこまでゼリーにこだわったのか。実はここに、東日本大震災の避難所での「教訓」が反映されています。

◆避難所から生まれた「ゼリー」
ゼリーの前に、実は野菜羊羹を作ったんです。(避難所では)食物繊維が取れない、ビタミンが取れない、そして一定のカロリーも必要だったわけなんですね。ただ賞味期限があります。自治体や政府が備蓄するものだと5年間の賞味期限が必要なわけなんですね。僕たちが作っていた備蓄羊羹はいろんなものを混ぜ合わせていたので菌の増殖の格好の巣というか、ばっちり菌が出まして1年間の開発期間が無駄になってしまった。これが1年目のトライだったんですよ。最終的に原点に戻って、やはり喉が乾いてしまう、水がない中で求められていく商品として栄養や食物繊維を入れていったので、あえて水分性の高いゼリーだと。老人の方たちが、誤嚥をしてしまう、我々だと咳をすれば戻せるが、そのまま食べかすが肺に入ってそこで菌が増殖して誤嚥性肺炎が起きてしまう。お粥は老人は食べやすいとみんな言うが我々とすれば一番危ないんじゃないかと。お粥は水分とご飯が分かれていますよね。若い方達だと一緒に飲み込めるんですが、老人の方たちだと食道の弁で先に水分だけが落ちてしまう。ちょっと遅れてご飯が来るもんですから、そこで誤嚥してしまう。僕たちはそこでお粥という選択肢も捨ててゼリーに行き着いたと。


ということで完成した、『防災備蓄ゼリー LIFESTOCK』がこちら。


ちなみに「賞味期限」の検査は一般的に、菌が繁殖しやすい高温多湿な環境を人工的に作って、
時間を短縮して検査するそう。ただ、ゼリーは、高温多湿の条件下では検査ができないため、本当に「まる五年間」かけて、賞味期限のテストをする必要があった。かくして、5年間のテストを続けた末、賞味期限が実証されたのだそうです。
そして、LIFESTOCKはいよいよ商品の製造が5月からスタート。この続きは来週のこの時間にお届けします。
★株式会社ワンテーブル

2019年5月23日

株式会社ワンテーブル・島田昌幸? 防災食の開発へ

今週は、宮城県名取市のベンチャー、株式会社ワンテーブル代表、島田昌幸さんのインタビュー、お届けしています。

ワンテーブルは去年、「ゼリータイプの防災食」の開発に世界で初めて成功。水が不足する避難所で、バランスの取れた栄養補給ができる防災食として注目を集めています。

この防災食の開発に乗り出したきっかけ。それが、島田さんご自身が支援活動をする中で目の当たりにした避難所の「食べ物」をめぐる問題でした。

◆水がない状況の「防災食」
実際に避難所を回っていると、もちろん赤ちゃん老人もいますが、その先には見えないところにストレッチャーに乗っている重度の障害を持った子どもたちもいる。こういった方たちを含めて地域社会なんだなと改めて思ったんですね。もちろん皆さんが救援物資を届けてくれる中に、乾パンであったりクッキーやビスケットが多くが備蓄されているんです。これは今も変わらないんです。赤ちゃんに乾パンを食べろといっても、歯が無いから食べられません。水がない中で我々もあれを食べろと言われても、水がないと結構大変なんですよね。噛む力が弱い老人であるとか、胃ろう(胃からお食事をとられている)の方たち、そもそもこういった方たちに対してどういうサポートがあるか。ストレッチャーで生活をされている方たちは避難所にすらいけないんですよね。やっぱりそういうこと、なかなか人の手が届かないところにちゃんと向き合おうと。誰かがやってくれるところはお願いをして、もうちょっとストイックなところずっと介護施設を回ったり福祉施設を回ったりと言うのを重点的にやっていた。そういった課題がある印象を受けました。ふと、やっぱりこれって阪神淡路大震災も同じことが起きたんじゃないかなと思い始めていたんですよね。戦前戦後から備蓄されているものって、いろんなテクノロジーが発達しているんだけど何も変わっていないなとふと思って、きっと60年後も100年後も変わらないんだろうなと思ったんですよね。じゃあこれをやろうと2011年5月に考え始めたんですよね。


避難所には、一般的な食事を上手くとれない人も当然います。そうした人たちのケアも災害に備える上で、大きな課題です。また、自治体・市区町村などが備蓄する防災食はいまもやはり「乾パン」などが多いといいます。これも課題です。

こうした状況を目の当たりにしたワンテーブル島田代表は、問題解決へ向けて商品開発に乗り出します。この続きはあした。

★ワンテーブル

2019年5月22日

株式会社ワンテーブル・島田昌幸? 避難所での支援活動

今週は、宮城県名取市のベンチャー、株式会社ワンテーブル代表、島田昌幸さんのインタビュー、お届けしています。


名取市にお住まいがあり、東日本大震災当日は仙台にいた島田さん。震災当日は、ご家族とともに、名取市内の避難所へ避難しました。

実は当時、島田さんは、産地直送の農作物を扱う「マルシェ」の運営をしていて、震災翌日にはそのネットワークを使った支援活動をスタートさせたと言います。

◆支援物資200トンの半分は・・・
愛島台という名取の山あいのところなんですけれども、見ず知らずの我々なんかも快く受け入れてくれて、お米を炊いて、電気が止まっているので薪などを使って食べさせていただいた。その時に、支援されるのって無力だなと思って、支援する側にならなければいけないと思った。まずは流通の脆弱性をすごく目の当たりにしたんですね。コンビニだとか大手商業施設はモノが届かない。あの当時は、我々のサプライチェーンというか流通の中で最も強かったのが農業だったんですよね。山形と仙台はもともと「仙山交流」という交流があるくらいで、その中でマルシェの山形の農家の方たちが、当時はガソリンも買えない状況で、片道切符で雪下野菜を掘って、手を真っ赤にして販売をしてくれた。まず仙台市民の方たちに、マルシェを通じて野菜の供給をしたり。僕たちは4万食炊き出しをして、200トンの救援物資を運んでいたんですよね。もちろんそれは全国から皆さんが届けてくれたものですが、その200トンの救援物資は、実は約半分ぐらいは廃棄していたんです。それこそ洋服だったり布団が「ありすぎちゃう問題」。我々としてはお風呂もなかなか入れませんでしたから、衛生環境が悪かったので、どんどん服を着替えてください、捨てて、お風呂もなかなか入れない中で衣類もどんどん着せ替えみたいなことを推奨していたりとかしましたね、当時は。


東日本大震災で問題になった、支援物資が「届きすぎる」「需要と供給のズレ」などの問題。実際には、今のお話のようなことが起きていました。物資の半分は捨てられてしまっていた一方、お風呂に入れない状況では、「多すぎる洋服」は役に立っていたようです。

あしたもワンテーブル島田代表のお話です。

★株式会社ワンテーブル

2019年5月21日

株式会社ワンテーブル・島田昌幸? 東日本大震災当日

きょうは、ビジネスの分野で、防災・減災、復興に取り組む東北のベンチャー企業についてお伝えします。

お話を伺ったのは、宮城県名取市の株式会社ワンテーブル代表島田 昌幸さん。ワンテーブルは去年、世界初の「ゼリータイプの防災食」を開発して、注目を集めました。まずは、代表・島田さんご自身が経験した、東日本大震災 当日のお話です。



◆島田さんの被災体験
宮城県庁の裏に事務所があったんですが、たまたま震災の1週間前に宮城県沖地震の話をしていたんですね。そろそろ来るんじゃないかなという話をちょうどしていて、津波もここら辺まできたんだよねと。僕は北海道から宮城に移り住んでいたというのがあるので、じゃあ家の近くまで津波が来ちゃうなと話をしていた最中だったので、地震が起きた瞬間に車で名取にすぐ帰りました。もし1時間遅れていたら帰るのに10時間位かかったんですね。携帯電話もつながらなくなっちゃって、家に帰ったら家族がいない。それで車で走っていたんですよ。そうしたら横から津波が来たので、なぜここにヘリコプターがぷかぷか浮かんでいるのかな、仙台空港が近いので、それを見た瞬間に理解しがたい映像なわけですが、そこから名取のちょっと山あいの集会所、公民館に避難していたんです。横を見ると旅行で来ている若い子たちがいたり、それはやはり不安そうというか、旅行できたんだろうなと言う感じだったんですけれども。経験の中で言うと、観光客の方も実は被災者になるということ。どこにどうやって逃げたらいいのか、もっと言えば外国人の方たちなんかはコミュニケーションをどうするのかとか、その時のいろんな体験を振り返って、そこに必要な事業をやっていこうというのが今のワンテーブルの事業基礎になっているんですよね。



ワンテーブル代表・島田さんはご自宅が名取市にあり、津波は自宅から300mのところまで来ていたといいます。津波の被害はなかったものの揺れによる被害は大きかったそうです。そして島田さんはこの直後、避難所で特に「食事」をめぐる劣悪な環境を目の当たりにします。この続きは明日以降、お伝えしていきます。

★株式会社ワンテーブル

2019年5月20日

訪日客向けメディアMATCHAの「Stay Safe in Japan」

今朝は、訪日観光客へ向けた、防災減災の情報をお届けします。

お話を伺ったのは、株式会社MATCHA代表・青木優さん。MATCHAとは、外国からの観光客に向けた観光情報を多言語で紹介している国内最大級の訪日客向けメディア。世界200ヵ国以上からのアクセスがあるそうです。



このサイトでは、もし日本で大きな災害が起きたときに備えて、外国人観光客むけの情報発信をスタートしています。

◆災害時の訪日客をサポートする
MATCHAは、10言語に対応しているメディアです。日本語、英語、中国語(繁体字・簡体字)、タイ語、インドネシア、韓国、スペイン、ベトナム、あとはやさしい日本語に対応しています。やさしい日本語は英語で言うとシンプルイングリッシュみたいなもので、日本語を優しく噛み砕いたもの。わかりやすい例としては「古民家」という言葉をそのまま使わずに「古い家」と言い換えたりする日本語学習者向けの言葉になっています。MATCHAでは★Stay Safe in Japanという災害向けの特設ページを去年の9月から10月に制作しました。それの経緯としては、去年大型の地震があったり、水害や台風が頻繁に起きていて、うちのメディア上にそういった地震の情報などをしっかり多言語で発信してほしいという依頼がユーザからメールが来ました。それを受けて、そういった情報が必要だというの改めて感じまして、STAY SAFE IN JAPANと言うページを立ち上げました。特徴としては多言語で地震などの状況がわかる点、怪我したときに海外の人を受け入れられる病院のまとめ、災害が起きる前に知っておくべきトピックス、起きた後に知っておくべきトピックスをしっかり記事としてまとめているところが特徴になります。この情報自体に関しては気象庁からデータをもらって、発信をしていて、気象庁以上のデータはなかなか出すことができないんですね。その代わりにいまは厚生労働省が海外の人の対応できる電話番号を作ったので、今度それをSTAY SAFE IN JAPANに掲載をして、何かあったらこちらに電話をしてくださいというのやろうとしています。


「災害弱者」という言葉がありますが、外国人観光客は、見知らぬ国で災害に見舞われると、「災害弱者」になってしまう可能性が高くなります。また、日本語が多少わかる外国人でも、災害時の情報で混乱することがある。津波からの避難アナウンス「高台に避難してください」は、”高台” ”避難”という難しい日本語が使われているため通じないことがあると言われており、やさしい日本語で「高いとこに逃げて」と言わないと通じないことも多いと言います。

訪日客を相手にご商売されている方なんかは、この「Stay safe in japan」のサイトを知っておくと、いざという時に外国の方を助けることができるかも知れません。

★Stay Safe in Japan

★MATCHA

2019年5月17日

水本匡起さん?

今週は、今週は、東北学院大学、中央学院大学講師、東北福祉大学では 防災士の養成研修講座の講師をしている、理学博士の水本匡起さんのインタビューをお届けしています。



活断層など「地球の活動」の研究者である水本さんに、自然災害との向き合い方を今週はいろいろと伺ってきましたが、最後は、自然と切り離された「都市部」に暮らす人たちへのメッセージを頂きました。


●「自然災害から命を守るために必要なこと」

「例えば日本海側の地域。毎年毎年雪が降る。それが災害になっていない。例えば東京なんかでたくさん雪が降ると大災害、10センチでも騒いでしまうわけですから、でもそれが災害になっていないのは、生活の一部に取り込んでいるからということなんです。青森県の津軽地方の地ふぶき、鹿児島の火山灰、沖縄地方の台風。ものすごく強い台風はじゅうぶん自然災害になり得る自然現象なんですけれども、日常生活に違和感なく取り入れている。すなわちその土地で生きている生活の工夫がたくさんあるからこそ、それぞれの地域で深刻な災害になっていないんですよね。そう考えると日常生活の中に違和感なくその自然災害を取り入れることができれば、それは自然災害にならないという考えもあると思うんです。すでに対応できている人たちはプライドを持って良いことだと思うんです。昔の人たち、あるいは山村に住んでいる人たちにすごくヒントがあると思います。そういう人たちは地域をよく知っているんですよね。山に住んでいる人は山のことを全て知らないとそこで生活ができないから、山のことを知ることが「防災」になっている。住んでいる地域をよく知る、そして自分の地域に愛着を持つ、そしてこの地域で生きていく意思ですね。孫の代までずっと生きていく意思をずっと共有している、これって防災に一番大事なことなんですね。都市、人口密集地に住む人が一番足りない部分は実はそういう部分。だから都市は災害に一番弱い。まずそういうことを自覚した上で防災の知恵をたくさん学ぶことが必要なんじゃないかなと思います。」


大雨、大雪のたびに混乱する東京などの都市は、確かに自然災害にとりわけ弱いと言えます。反対に、農業や林業、漁業などに関わる人達が暮らす自然豊かな地域は、日々自然と向き合って生活していて、空模様や匂い、先祖から伝わる方法で、天気や気候の変動を予測しています。そして雪の多い地域の建物、台風の多い地域の建物は、それに対応した作りになっていて、だいたいの場合、それは大きな自然災害とはなりません。こうしたことに自然災害を自然災害にしないヒントがあるのではないでしょうか。

2019年5月16日

水本匡起さん?

今週は、今週は、東北学院大学、中央学院大学講師、東北福祉大学では 防災士の養成研修講座の講師をしている、理学博士の水本匡起さんのインタビューをお届けしています。



水本さんは、山や谷、平野など「地形」の成り立ち、そして活断層の動きを解明する研究者。そうした立場から、僕らが自然災害と向き合うとき、もうひとつ、別の「時計」を持つべきだと言います。どういうことでしょうか。


●自然災害の起こる時間の間隔「地球時間」を知る

「平成は災害の時代なんてよく言われますけれどもそれは自然科学をやっている人間からするとあまり正しくないんですよね。長い目で見ると大きな地震や台風、洪水、数々の自然災害は昭和にも対象にも明治にも江戸時代にも起こっている。短期的な目線で見ると自然災害の実態はよく見えないので、長い目で見るのがポイント。私は「地球時間」と言っているんですが、そういう時計を手に入れることがまず大事なんじゃないかなと思います。なぜならば自然災害は繰り返し、間隔の短いものから長いものまでいろいろあります。短い間隔で起こる自然災害はご両親や祖父母や誰かが必ず一度は体験しているので、聞き伝え、テレビやラジオでなんとなくわかっていてイメージしやすいんですよね。ただし数十年や数百年、1000年を超えるような長い間隔で起こる自然災害もあります。その代表的な例が2011年の東日本大震災。同じように巨大洪水や活断層による深刻な災害も実は1000年とかそれぐらいの間隔で「繰り返す」災害なんですよね。人の一生は約100年なので、数十年とか数百年とかそういう長いサイクルで起こる災害はなかなか体験することができません。よって時間の経過とともに災害を体験していない人たちがどんどん増えていく。それから科学技術や土木技術の発展など、そういう技術に頼りすぎてしまって、「何とかなるんじゃないか」と、なんとなく意識の外に置いてしまうと思うんです。でも自然の営みは容赦なく繰り返す。ですから自然災害から命を守るためには地球時間という長い時間に起こる時計を持つことがとても大事なんじゃないかなと思います。」


先日も沖縄・与那国島で「50年に一度の大雨」があったばかり。10年に一度、50年に一度、100年に一度・・・間隔が長くなればなるほど、意識の外においてしまいがちだが、じつはその考え方は改めないといけないのかもしれません。

あしたは、自然災害から身を護る「ヒント」のお話です。

2019年5月15日

水本匡起さん?

今週は、今週は、東北学院大学、中央学院大学講師、東北福祉大学では 防災士の養成研修講座の講師をしている、理学博士の水本匡起さんのインタビューをお届けしています。



水本さんは、山や谷、平野など「地形」の成り立ち、そして活断層の動きを解明する研究者です。

僕らが暮らす土地の地形と、その成り立ち。これを知ることが、過去にその土地で起きた自然災害を知る手がかりとなる。水本さんはそう説明しているわけですが、例えば、僕らの暮らす東京を含む「関東平野」をはじめとした「平野」。この地形も、防災・減災を考える上で重要だと、水本さんはおっしゃっています。


●「平野ができる」ということ

「とくにたくさんの方が住んでいる平野について。平野と言うのは川が運んできた土砂が運んでたまってできた平らな土地だということは誰でもご存知だと思うんですけれども、ほとんどの人たちは川がゆっくりゆっくりと土砂を運んできた、川は勤勉だな、毎日毎日コツコツコツコツと土砂を運んで徐々にゆっくりできた・・・と思ってらっしゃると思うんですが、じつは違うんですよね。平野は一瞬でできる。どういう時にできるかと言うと「洪水」でできるんですよね。何回も何回も巨大な洪水が起きてそれが度重なってできたのが平野なんです。そういう洪水がいつ起こっているのか、どのくらいの巨大洪水が起こっているのかを知るためには地形がとても重要になります。平に見えている地形をよく見ると、たとえば自然堤防という周りよりちょっと高いところとか、旧河道と呼ばれる昔の川のあとはちょっとへこんでいる。川の跡ですから。そういうところがあったりします。その自然堤防と言うのは洪水で運ばれてきた土砂が溜まった地形なんですよね。だから周りよりちょっと高いわけです。こういう昔の大洪水の後を教えてくれるような平野の地形と言うのはパソコンやスマホで見れるんですよね。昔の地図とか昔の航空写真を見るとよくわかります。平野が洪水でできることがわかったが、でもいちばん大事なのは、“平野は現在進行形の地形”だということなんです。私たちが生きている時代に都合よく自然の地球の営みが止まったわけではないと。平野は現在進行形だからこそこれからの未来にも必ず巨大な必ず洪水が起こると言うことを教えてくれているのを私達は肝に銘じなければいけないわけなんですね。」



洪水によってできる「平野」のなりたち。ご存知でしたか?そしてそれが現在進行系だというのが重要。自然の営みはずっと続く。平野を作った洪水も必ずまた起きる。これは学校でもなかなか教えてもらえない地形からのメッセージでもあります。

あしたも、地形や地球の営みから考える「自然災害」のお話です。

2019年5月14日

水本匡起さん?

今週は、東北学院大学、中央学院大学講師、東北福祉大学では 防災士の養成研修講座の講師をしている、理学博士の水本匡起さんのインタビューをお届けしています。



水本さんは、山や谷、平野など「地形」の成り立ち、そして、活断層の動きを解明する研究者です。水本さんは、我々は、自分たちが暮らす土地の「地形」を知ることが、その土地で起きうる災害を知ることに繋がるとおっしゃっています。

●「住んでいる地域の地形の成り立ちを知れば災害リスクが分かる」

「自然災害にはいくつか種類がある。でもよくよく考えるとほとんどが地形に関係しているということがわかっていて、じゃあ地形とは何なんだろう、身近な地形、近所の地形がどういう風にできたかは意外と知らなくて、自然災害を知る上で大事な地形と言うのが「でき方」なんですね。どうやってできたのか。例えば扇状地と言う地形があって、山の裾野に広がる扇形の形。果樹園などによく利用されています。その扇状地はどうやってできているのか。ゆっくりゆっくり砂が溜まるのか。実はそうではなくて多くは急激にできるんです。例えば大雨の時、土砂崩れ、あるいは土石流なんて聞きますけれどもそれが扇状地のでき方なんですね。大きな扇状地は度重なる土石流が何回も繰り返されてできた。川に行った時に山を流れる川を見ると、結構大きな石ころがゴロゴロしていると思うんですが、その石ころがなぜそこにあるのかと言うと、実は土石流とか鉄砲水とか洪水とかそういう時に運ばれてきた石ころが今見に行った川にたまっているということなんです。それが川が実はすごい力を持っているんだぞと言うことを私たちに教えてくれていると言うことなんです。そういうことも含めて扇状地もそうなんですけれども地形が変化する、地形ができるというのは急速急激にできる。その変化のスピードに私たちはついていけないので自然災害と呼んでしまっているんですね。ですから周りの地形や身近な地形がどうやってできているのかを知ることが大切なんじゃないかなと思います。」


みんな学校で、昔に習ったはずの「扇状地」。実はこれ、土石流によって出来た地形だということ。つまりその土地は、繰り返し水害が起きてきた土地だということになります。

現代は治水事業も進んでいるとはいえ、これは忘れてはならない地形からのメッセージです。あしたは、関東平野をはじめとした「平野」についてのお話しをお届けします。

2019年5月14日

水本匡起さん?

今週は、僕らが暮らしている地域の「地形」から考える「防災」・・・ということでお届けします。

お話を伺ったのは東北学院大学、中央学院大学講師、東北福祉大学では 防災士の養成研修講座の講師をしている、理学博士の水本匡起さん。



山や谷、平野など「地形」の成り立ち、活断層の動きを解明する研究者で、防災士の研修講座の講師も担当している方です。

水本さんは自然災害について、“我々は認識を大きく変える必要がある”とおっしゃっています。まずはこのお話から。


●「自然災害とは地球の自然の営み」

「防災を考えるときには最初に考え方をガラッと変えることが大事だと思っているんですね。そもそも自然災害とは地球の自然の営みでもあると思うんですよね。地震とか洪水とか、火山の噴火もよくよく考えると自然の営みである。自然の営みに人間活動というのが加わった結果として出てくるものであると。だから人間がいないところでどんなに大きな洪水が起こったとしてもそれは自然災害にはならないと言うことですよね。自然の営みとは人間の活動にかかわらず昔からずっと続いているので、未来も続くんだと思えると思います。今は人間活動がとても大きくなってきちゃったので自然災害の種類も増えて来ちゃったんですよね。それから影響も大きくなって来ちゃったんです。でも昔は人間活動は自然に合わせざるを得なかった。そういう生活をしていたわけです。今みたいに科学技術が発達していなかったから。でもその分、自然と向き合う時間が昔は長かったので自然の恩恵をたくさん感じていたし、あるいは畏敬の念みたいなものを感じていたわけです。ですから現代に生きる私たちが肝に銘じなければならないことは、“地球は人間活動だけではない”と。自然の営みというのが自然災害になっている。言ってみれば人間は自然の一部と言うことで人間を含めた地球と言うことを知ることが大事であって、自然の営みを知ることから防災が始まるのではないかなと思います。」



そもそも、地震も津波も、火山の噴火も台風も、人間の存在と関係なく、ずっと、なんども繰り返し起きてきたもの。「自然の営み」がプラスに働けば“恵み”となるが、それがマイナスに働けば“自然災害”となる。そう考えましょうということ。ではその「自然の営み」と、どう向き合えばよいのか。あした以降、地形の専門家・水本さんに解説して頂きます。

2019年5月10日

岩手県大槌町で活動するNPO法人「アラマキ」副代表、吉野和也さん?

今週は、岩手県釜石市及び大槌町を拠点に活動しているNPO法人「アラマキ」の副代表、吉野和也さんのお話し。

2011年の東日本大震災の直後、東京から大槌町の避難所へ移住、「大槌復興刺し子プロジェクト」を立ち上げ、その後、NPO法人アラマキを設立して「大槌食べる通信」を手掛けるなど、復興につながる活動を続けている吉野さん。

今朝は、いま、そしてこれから先に計画していることについて伺ってみました。


◆「ウニ獲り体験計画中!」

「いま「食べる通信」を「大槌食べる通信」から「三陸食べる通信」っていう風にちょっと広げてやるということがあります。そして定期的に東京でのこちらの食材を使った交流会を開催していきます。あとは海に潜って環境の保全をするっていう活動をしていて、たとえばいま陸前高田では、海に潜ってウニを駆除するんですよね。そのウニが海藻を食べ尽くしちゃうことで、磯焼けという状態が起きるんです。そうなるとアワビが餌がなくなるので獲れなくなる。そうすると漁師の大切な収入源が無くなってしまうので、それを海に潜ってお手伝いをする、そういった活動をしています。これはそのうち、普通のレジャーダイバーの人達も来てもらって一緒にやっていけるようなところを組み立てようとしています。あとはの釜石市の平田というところで民泊を始めていて、そこには7人が泊まれるようになっていて素泊まりのみで一泊3500円。これは4月からスタートしています。こういった活動を通して、気軽にこっちに来れるような窓口になれたらいいなと思っています。三陸って広すぎて、どこ行ったらいいんだ?みたいな話もよくあるんですね。そういった時に入り口の一つとしてここに泊まって、僕自身がいろんなところを案内したりだとか、ほかの地域にも友達がいるので、あそこに行くとまたそっちで案内してもらえるよとか、そうゆうこう三陸の入り口としていくことで、これからも三陸にかかわってもらえる人を増やしていくということかできればその先に良い形と言うか、そういうのがあるんじゃないかなと思っています。」



三陸食べる通信」は、漁師や農家など、食の作り手を特集した情報誌と、収穫した食べものがセットで定期的に届くという“食べもの付き情報誌”。今は全国各地の「食べる通信」がありますが、ぜひ食通がうなる大槌のホタテが付いてくる(かもしれない)「三陸食べる通信」の購読をおススメします!

そして陸前高田での“ウニ獲り”プロジェクト!獲ったウニは持ち帰れるし、吉野さん曰く“意外と身入りもいい”んだとか。レジャーダイバーの参加がOKになったら、参加してみませんか??あまちゃん気分が味わえます!(ラブホスタッフも参加を決意しました!)



『LOVE & HOPE』、今週はNPO法人アラマキの副代表、吉野和也さんのお話しでした。

2019年5月9日

岩手県大槌町で活動するNPO法人「アラマキ」副代表、吉野和也さん?

今週は、岩手県釜石市及び大槌町を拠点に活動しているNPO法人「アラマキ」の副代表、吉野和也さんのお話し。

2011年の東日本大震災の直後、東京から大槌町の避難所へ移住、「大槌復興刺し子プロジェクト」を立ち上げ、その後、NPO法人アラマキを設立して「大槌食べる通信」を手掛けるなど、復興につながる活動を続けている吉野さん。

豊かな自然に恵まれた大槌町の魅力を感じながら、移住から8年を迎える吉野さんに、あらためて大槌の良さについて、伺ってみました。


◆「移住者だからこそ感じる大槌の魅力」

「たぶんその土地に住んでいる人ってその土地が当たり前だからその良さってわかんないですよね。たとえば大槌で獲れるホタテって、日本でいちばん浜値っていうか、鮮魚店とかが買う金額が高いと言われているんですね、高い時が何回かあるみたいな。でもそれって地元に住んでいる人からすると、隣の山田でも釜石でもホタテは作ってて、そっちが浜値が高くなることもあるし、あんまり自分たちが優れてるって思いづらいところがあるんですけど、ただそれは僕たちよそ者からすると、この漁師のおっちゃんが作ってるホタテこんなに美味しいなんて本当に驚きだしすごく輝いてるものなんだってことを、よそから来ると気付くんですよね。大槌だとワカメ、ホタテ、牡蠣、あとは鮭・・・新巻鮭発祥の地と言われているので。は有名ですね。あと原木しいたけ。それで日本一の賞を獲ったりもしています。すごく美味しいです。」




肉厚なホタテの美味しさは言うに及ばず、ワカメ、牡蠣、シイタケ・・・そして大槌湾の風景の美しさも素晴らしいものがあります。そんな大槌町にもこの春、「三陸鉄道リアス線」が開通しました。もちろん大槌町でもこれに期待する声が大きいといいます・・・


◆「町にあふれるさんてつへの期待」

「大槌にまた人が来る一つの経路であり、三陸の景観を楽しめるすごく有効なものだと思うので、地元の人たちもそういうもの、外からの人の受け入れだったりとか、自分達もそれを楽しむことであったりとか、そういうことを三陸鉄道さんと一緒になってやっていけるようなことになったらいいなと思います。」




ひょっこりひょうたん島の形をした大槌駅。2階が展望台になっているので、ぜひこの地を訪れた時には、上がって大槌の町を見渡して欲しいと思います。高い建物が無いぶん、町のぜんぶを見渡すことができます。

そして秋には隣駅の鵜住居に出来た「復興スタジアム」で、ラグビーW杯の試合も2試合行われます。特別列車も運行予定。たくさんの人が集って大槌の魅力が知れ渡る機会になればと思います。

『LOVE & HOPE』、明日も吉野さんのお話し、続きます。

2019年5月8日

岩手県大槌町で活動するNPO法人「アラマキ」副代表、吉野和也さん?

今週は、岩手県釜石市及び大槌町を拠点に活動しているNPO法人「アラマキ」の副代表、吉野和也さんのお話し。

2011年の東日本大震災の直後、東京から大槌町の避難所へ移住、「大槌復興刺し子プロジェクト」を立ち上げ、その後、NPO法人アラマキを設立して「大槌食べる通信」を手掛けるなど、復興につながる活動を続けている吉野さん。

震災、そして移住から8年が経ち、吉野さんの目には、大槌の復興がどう映っているのか?あらためて伺ってみました。


◆「問題は山のように」

「復興って何だろうって思う時があってですね、それは立場によっても違うんですけど、ハードとか道路とかですねそういうのが元の通りに戻ることが行政目線のものだったりするんですけど、ただ大槌を含む三陸沿岸っていうのは震災前から人口が減ってるし、産業が衰退してるし、下り坂だったんですよね。それが復興の特需というかいろんな工事が入ってきてちょっと持ち直して、でもその元々の流れは変わっていないので、その復興の特需が終わってしまえば、また落ちていくというのが今の状況です。とはいえそれって日本中の地方都市、過疎とかそういう産業衰退の人口減少って言われてるところではどこでも起こってることで、でも三陸沿岸部、たとえば大槌とかで言えば、ほかの土地よりも課題解決の力がすごく集まっていると思うんです。僕みたいなよそ者もたくさんいるし、企業もそこに支援に入る、国もまあそういう予算をつけるということがあるので、すごく恵まれた状況で課題解決にチャレンジができているのが、今のここだなと思います。で課題といえば本当にたくさんあるんですよね。たとえば人が雇用できない、たとえば水産加工工場も工場再建してこれからフル稼働でどんどんやっていきたいって時に働く人がいない。でコミュニティ・・・元々は周りの集落40世帯みんな顔見知りだったのが、みんな仮設住宅に入って、6〜7年経ってやっと知り合いになってきたなと思ったら今度は災害公営住宅の本設に移ってまた知らない人達だらけになるみたいな、ていう問題もありますし、だから問題、山のようにあるという感じですかね。」




この春、三陸鉄道が開通して「大槌駅」が出来、商店やコンビニ、文化施設もあって、少しずつ住宅も再建が始まっている大槌町。8年が経ちますが「町の賑わい」という意味ではまだまだで、これからどう町が出来上がっていくのか、その途についている、という状況にあります。

吉野さんのような外から来た人の力や、観光で町を訪れる交流人口を増やすことが何より必要で、吉野さんのNPO、
アラマキではそのために様々なアイデアを実践しています。

『LOVE & HOPE』、明日も吉野さんのお話し、続きます。

2019年5月7日

岩手県大槌町で活動するNPO法人「アラマキ」副代表、吉野和也さん?

今週は、岩手県釜石市及び大槌町を拠点に活動しているNPO法人「アラマキ」の副代表、吉野和也さんのお話し。

2011年の東日本大震災の直後、東京から大槌町の避難所へ移住、「大槌復興刺し子プロジェクト」を立ち上げ、その後、NPO法人アラマキを設立して「大槌食べる通信」を手掛けるなど、復興につながる活動を続けている吉野さん。

今朝は2011年5月の移住直後の動きについて伺いました。


◆「ありがとう」が嬉しくて

「まずは避難所でいろんな人に話を聞いて回るんですね。“どんな状況ですか?”“なに困っているんですか?”でそこで見つけたのは、高齢のおばあちゃんとか女性達が、避難所でずっといつもじっとして周りに迷惑かけないようにしてたんですね。であのままじゃみんな病気になっちゃうと周りの避難してる人たちも心配していて、じゃあその人たちに仕事を作ったらいいんじゃないか、でその仕事がお金になったらいいんじゃないか、で縫物だったら得意なんじゃないかって言うんで、「刺し子プロジェクト」っていう、布巾とかコースターを作ってもらって、でそれを僕たちで買い取って販売するっていうのを、5月の中頃からスタートして、6月14日にホームページを開設して販売したんですね。それからどんどんどんどんいろんな方たちのご協力のおかげで、今はスタッフ3人雇用できる感じになりました。すごく忘れないエピソードがあって、始めたての頃におばあちゃんにコースターを作ってもらって、お金を600円くらい渡したんですよね。その何日か後にそのおばちゃんに会った時におばあちゃんが言ってくれたのは、“ありがとう、もらったお金で孫にジュースを買ってあげることができた。それまで“喉乾いた”って言っても買ってあげることができなかったから嬉しかった。ありがとう”って言ってもらったんですね。それがすごく嬉しくてですね、印象に残ってます。」




そもそも「刺し子」は、布地を綴り縫いや刺し縫いする針仕事のことで、貴重だった布地を直しながら、長く大切に使うことから生まれた技術。東北をはじめ全国各地で引き継がれています。「大槌復興刺し子プロジェクト」は、その後「無印良品」とコラボするまでに成長。けっこうおしゃれ・・・

大槌復興刺し子プロジェクト
     
これまで延べ200人の女性が参加。刺し子で収入を得てお店を再建した人もいるそうです。

そして吉野さんはこのあと、「NPO法人アラマキ」を立ち上げ、さらに活動の幅を広げていきます。明日も吉野さんのお話し、続きます。

2019年5月6日

岩手県大槌町で活動するNPO法人「アラマキ」副代表、吉野和也さん?

今週は、岩手県釜石市及び大槌町を拠点に活動しているNPO法人「アラマキ」の副代表、吉野和也さんのお話し。

吉野さんは2011年の東日本大震災の直後、住んでいた東京から“大槌町の避難所へ移住した”という人。直後に被災者に現金収入をもたらす「大槌復興刺し子プロジェクト」を立ち上げ、その後NPO法人アラマキを設立して「大槌食べる通信」を手掛けるなど、今なお復興につながる活動を続けています。

※LOVE & HOPEでも何度か取り上げている「食べる通信」は、漁師や農家など食の作り手を特集した情報誌と、彼らが収穫した食べものがセットで定期的に届く“食べもの付き情報誌”のこと。震災後に東北で誕生し、現在は全国各地に拡大しています。

震災のあと、大槌町の避難所に移り住む、という思い切った行動に出た吉野さんですが、まずはその経緯について、
伺ってみました。


◆「そばにいたい」

「震災の時って僕は東京で仕事してたんですね、で、しばらく震災って他人事だったんです。ただインターネットを見るとその被災地の状況はすごくいろんな形で溢れていて、本当かなと思うようなこともたくさんあったんです。それで実際に行ってみないとわかんないなと思って、会社の休みの土日に、陸前高田に、自分の車に物資を積んで行ったんですね。2011年4月9、10の土日でした。そこで被災した人たちの体験したこと、いろんなことを聞いたんです。たとえば自分の奥さんとお子さんを亡くした消防団団長の話とか、長年の不妊治療の末にやっと授かったお子さんと旦那さんを亡くしたお母さんの話とか。で、それを話を聞いた時にすごく思ったのが、“この人たちの気持ち分からない”ということだったんですね。自分の奥さん亡くしたことないし、自分の子を亡くしたこともないので、肉親を亡くしてしまう人の気持ちが分かんなかったんです。ただその人たちのそばにいたいなってすごく思ったんです。そばにいれば一緒に泣いたり笑ったり喜んだりできるんじゃないか、そばにいれば本人が困ってる時に横から手を差し伸べる事も出来るんじゃないか、それがしたいなと思って、2011年の5月4日に東京の会社を退職して大槌町の避難所に行って暮らし始めるんですね。たとえばこっちの人ってパソコンが苦手な人が多かったんです。で、インターネットで情報発信することによっていろんな人から支援を受けることができるとか、できることがたくさんあったと。ただこっちに来て活動するにやっぱりお金が必要で、そういった時に周りの人たちに色々話したら、すごくいろんな形で協力をしてくれて、お金を出してくれる人が現れて、後押ししてもらえたんですね。それが最後のひと押しになったというか。」




大槌町は東日本大震災による津波と火災で壊滅的な被害を受けた場所。津波で町長や町の職員の多くが命を落とし、行政機能も麻痺しました。そんな大槌町で、吉野さんは被災者の傷ついた心に触れ、突き動かされるように移住を決めたといいます。じつは吉野さんご自身も不遇な生い立ちを背負いながら生きてきた過去を持ち、今回そこにマイクは向けませんでしたが、きっと心の傷を重ねあうような瞬間があったのだと推察しています。

震災前は東京のウェブ制作会社に勤めていた吉野さん、そのスキルを活かしながら、大槌町の一住民として復興へ歩み始めます。

『LOVE & HOPE』、明日もNPO法人アラマキの副代表、吉野和也さんのお話です。


2019年5月3日

ホヤの聖地・宮城県牡鹿半島、鮫浦の漁師、阿部誠二さん?

今朝は引き続き、宮城県牡鹿半島・鮫浦湾のホヤ漁師、阿部誠二さんのお話しです。

ホヤの種苗のシェア7割以上を誇るホヤの聖地・鮫浦湾。どこよりも美味しいホヤを育てている!と胸を張る阿部さんですが、先日のWTO最終審による日本逆転敗訴で、宮城県産ホヤの震災前の最大の輸出先・韓国への輸出再開が閉ざされた今、どうしていいか分からないという胸中を語ってくれました。

かすかな希望としては、震災前よりも国内の販売が伸びていること。食わず嫌いの人も多い“ホヤ”という食材の魅力が、少しずつ伝わり始めていることに、ささやかな可能性を感じているといいます。

◆「活魚で届けられればもっと食べてもらえるはず」
「ホヤを PRしたり国内でいろんなイベントに参加してやろうっていうのも、とりあえずホヤでメシが食えないとできないことなんですよ。そこら辺をみんなでけっこう話ししたりしてするんですけど、第一にメシが食えなきゃホヤについていろいろな活動できなくなるねっていうのは、敗訴が決まった時からは、救済措置があんのかな・・・とかいう話は毎日のように言っています。本当にどうすればいいでしょうね、俺らもどうすればいいのかわからないというのが正直なんですけど。ただやっぱりやれる範囲ではぎりぎりでやって今月も来月も俺らが行って販売するみたいなのは、小さいですけどやっていくんですけど、たとえば関東とか、あっちの方にホヤを加工というか、むき身処理までしてくれるような所が増えれば、かなり変わるとは思っています。やっぱり鮮度落ちが早いので、でも韓国までは活魚で行ってるので、であれば途中で下ろしてすぐ加工してくれるところが増えれば、今は冷凍技術も凄いので、間違いなく今まで食べられなかった人たちがかなりの割合で食べられるなるんじゃないかなと思ってますけどね。俺らが色んなボランティアさんとか全国から来る人達に食べさせた結果がそれだったので。」






韓国ではホヤは「活魚」として生きたまま海水に入れて出荷されますが、日本では「鮮魚」として氷を入れて出荷されることが多いのだそうです。真水に弱いホヤはそれで鮮度落ちしてしまう。鮮度のいい美味しいホヤを多くの人が口にしたことが無い最大の理由がそこにあります。

今後その流通の問題をクリアしていけば、日本でももっとホヤを食べる人が増えるはず!と阿部さんはいいます。さらに少し前に話題となった、アルツハイマー症の予防に役立つとされる栄養素、「プラズマローゲン」をホヤはたくさん含んでいて、超高齢化社会の日本ではもっと食べられるべき食材でもあるはず・・・

そんなホヤをもっと普及させようと今はいろんな団体が料理レシピを発表したり、加工品もどんどん増えてきています。じつはこれから夏にかけてがホヤのいちばん美味しい時期でもあります。もし食わず嫌いだったり、新鮮なホヤを味わったことが無いという方は、ぜひ東北に出掛けてホヤ本来の味を試してみてください。きっと大ハマりすると思います!



2019年5月2日

ホヤの聖地・宮城県牡鹿半島、鮫浦の漁師、阿部誠二さん?

今朝は引き続き、宮城県牡鹿半島・鮫浦湾のホヤ漁師、阿部誠二さんのお話しです。

日本有数のホヤ産地である宮城県。このホヤをキムチなどにして食べる韓国への輸出は、宮城県産ホヤ全体の水揚げ量の7〜8割を占め、大きな収入源となっていました。東日本大震災による原発事故のあと、韓国は宮城県を含む8県の水産物輸入を停止。日本は安全性を確認したうえ、韓国の主張を不当としてWTOに提訴。一審では日本の主張が認められていましたが、先日の最終審では、禁輸を妥当とする判断が下され、日本の逆転敗訴というカタチになってしまいました。しかもこれは、“食品の安全性は否定されていないものの、1審でのパネル(紛争処理小委員会)の手続きが問題視されての判断”ということで、日本側、とくにホヤ養殖に携わる漁師の方にとっては納得のいかない判断でもありました。

しかし最終審の判断は覆すことが出来ません。この結果を受けて、ホヤ漁師の一人である阿部さんは、今どんな思いの中にいるのでしょうか。

◆「厳しくて廃業する漁師も出てくるだろう」

「いや正直かなり輸出には期待をしてたので、期待というかそれしてもらわないとっていうところが本当にあったので、もうみんなガッカリはしましたね。ホヤの安全性とかそういうところに関しては俺らが毎日見て検査も漁連でちゃんとして、そうやって出してるものなので、納得いかないって言ったらおかしいんですけど、時間をかけてやっと震災後も震災前より倍以上、国内率は増えてきているので、だんだん増えていくだろうとは思ってるんですけど、俺だがそこまでも我慢できない状態にはなってます。厳しくて多分廃業して他のことをやる漁師がかなり出てくるだろうと思いますね。」



去年もホヤの大量廃棄がニュースになりました。ただそれはホヤの市場価格を維持するための生産調整の一環であって、心ならずも漁師にとっては必要なことでありました。丹精込めて育てたホヤを捨てたい漁師などいるはずはありません。それを続けていたのは、一審の判断から、“輸出が再開するだろう”という見込みがあったから。今回のWTO最終審の判断でそれが難しいとなった今、阿部さんをはじめ、東北のホヤ漁師の未来は見通せない状況にあるといいます。

明日はそんな東北のホヤ漁師、阿部誠二さんがかすかな望みをつなぐ、“国内消費を増やす可能性”について伺います。


2019年5月1日

ホヤの聖地・宮城県牡鹿半島、鮫浦の漁師、阿部誠二さん?

今朝は、東北のすご腕漁師集団「フィッシャーマンジャパン」のメンバーで、宮城県牡鹿半島・鮫浦湾のホヤ漁師、阿部誠二さんのお話です。

国内有数のホヤ産地である宮城県。中でも鮫浦は“ホヤの聖地”と呼ばれている場所なのだそうです。まずはその豊かな海について伺ってみました。

◆種苗のシェア7割を超える“ホヤの聖地”

「この鮫浦湾っていうところがホヤの種苗、種のうちから育てているんですね。全国のシェアの7割ぐらいはこっから種苗が行っているので、全国的にはホヤの業者間では有名な所なんです。よく言ってもらえるのは、外洋のものよりも大きさは小さかったりするんですけど味が良いっていう評判が高いですね。やっぱこの湾の中で育つと味が濃くなるというか、今だと関東の方でも食べてもらえるようになってきたので、そういうところでは“こんなホヤ食べたことない!”っていうのがみんな言うことで、やっぱホヤのイメージが、クセがあるってのが皆さんそういうので、でもやっぱここのホヤ食べると、“これがほんとの味なんだ”ってみんな言ってくれますね。こだわり・・・うん、そうですね、漁場をあまり密集させたくないので、のびのびすぎても駄目なんですけど、ある程度の競争力をホヤにも持ってもらえるくらいの密集度で、ホヤを海中に吊るしてあげると、すごいあのホヤっていっぱい食べるんですよものを。なのでそれで競り勝つヤツが最後に残るので、そこらへんをちょっと意識してますやってます。のびのび過ぎず、かといってあまりストレスを与えてもだめなので、そこのバランスをとってはやってますね。」




ホヤの種苗・・・いわゆる赤ちゃんを、約7割も出荷しているのが鮫浦湾!まさに聖地です!

苦手な人も多い食材ですが、鈴村さんは美味しいホヤに出会って開眼。今は大好きといいます。阿部さんも、“鮮度落ちが早く、本当に新鮮な美味しいものを食べていないからでは?”とお話しされていました。もしも“苦手”という方は、海から上げたばかりの新鮮なホヤをぜひ一度味わってみて欲しいと思います。

今は国内の消費も順調に伸びているという東北のホヤですが、じつは先日のWTO最終審の日本の逆転敗訴によって、危機的な状況に陥っているといいます。どういうことなのか??

『LOVE & HOPE』、明日も鮫浦湾のホヤ漁師、阿部誠二さんのお話です。

パーソナリティ 鈴村健一

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