2020年1月31日

宮城県雄勝町の 「御留石」5

宮城県石巻市雄勝町からのレポートです。

いまから600年以上前、室町時代から、書道用具の硯の材料となる石が取れていたという雄勝町。
特に「御留山(おとめやま)」は、「御留石(おとめいし)」という最高品質の石が採れる山なのですが、復興事業で、道路を通す計画が進み、今後、石が採れなくなる可能性が高まっています。

その前に、少しでも石を採り、後世に残そうということで声がかかったのが、東京・浅草の硯職人・青柳貴史(あおやぎ・たかし)さん。この方は、歌舞伎俳優・市川猿之助さんや、細川護熙元総理の硯づくりも手掛けた、日本を代表する硯職人。日本はもとより中国まで渡り、研究者のように、
良質な硯石を探求している方です。そんな青柳さんに、御留山の価値を伺いました。

※地元の硯関係者と共に御留山で採石(写真左が青柳さん)

◆御留石の価値
大体今の地質学の話で言うと、日本の石は1億年、若いので8000万年から1億何千万年が宮城は多い中、ここの精密な分析もかけたいと思うんですが、何億年という単位で1センチ、2センチができあがっていく。そこを600年かけて、みたところ100メートルないですね、何十メートル(削り)進んできたというのは、それだけ大地がここの石を作るのに時間がかかった証拠じゃないですか。容易に取れない硬さあるという。そういったものに真摯に向き合う必要があります。どんどんダイナマイトで取るんじゃなくて静かに静かに、素材が割れないように大事にいただく。どんなに道具が発展してもこの気持ちは大事にしたいなというのはありますね。僕の場合ですけど、今回いただいた石をこの形にしようというイメージは今のところ漠然としたものしかないです。ただ出口としては日本の名材を、しかも御留石という良材を今回自分で見ることができて、取ると言う貴重な経験をさせていただいたので、今回のすべてを、自分の中で消化しながら形にアウトプットしていって。山は僕にとってインプットなので、上手にアウトプットすると言う形で、造形として優れたものを作ろうと言うのではなくて、材質を生かした形、硯芸術と「用の美」というものを両方兼ねたものを考えてみたいと。できればその伝統工芸館の新築があるので、それまでにお作りして組合のほうに展示していただければ。その時にこの鉱脈が残っていてくれるのを祈りたいですけどね。


津波被害を受けて、取り壊された「雄勝硯伝統産業会館」が、今年4月に開業する予定です。

今後、青柳さんは雄勝の若い硯職人とともに、硯づくりをすることになります。理想はその硯を、4月開業の伝統産業会館に展示できるようにすることです。一方、御留山では刻一刻と、道路計画が進んでいます。

2020年1月30日

宮城県雄勝町の 「御留石」4

引き続き、宮城県石巻市雄勝町からのレポートです。

書道用具の硯の生産地として、数百年の歴史を持つ、雄勝町。特に、「御留山」という山からとれる石は、かの伊達政宗も認めた良質な材料として知られています。しかしこの御留山は、復興事業の一環で、道路を通す計画が進み、今後、石が採れなくなる可能性が高まっています。

そんな中、雄勝の地元組合から依頼を受け、東京・浅草の硯職人が雄勝を訪れました。

青柳貴史さん。『情熱大陸』などでも紹介された、日本を代表する硯職人です。

◆採れなくなる前にできることを
2種類考え方があって、硯はなくても人々は生きていけるものなので、僕たち硯に従事している者としては愛すべき存在なので何に変えても残したいという気持ちはありますけど、ここを道路にするインフラ整備が生活に寄り添ったものであるならば、それは仕方ないと思うんです。ただそこにはいろいろな事情があると思うので、山の持ち主ではないし僕はここの住人ではないので、無理強いというか自分の意見を通すことができないですけど、僕の願いとしてはやはり残ってほしいと思います。やっぱり北海道から屋久島まで、さらに中国の全土の硯材をほぼほぼ網羅してきた僕としては、日本でこれだけの良材が取れている場所って今のところ僕は見たことがないんですね。ここは日本で一番、硯に向いています。なので、取れなくなってしまう前にできる限りこれを採石して、何かの形に残しておいた方が良いんじゃないかという話を組合の方からいただいたときに、そうだと思ったんですね。実際にテコで取る、そういったことも僕たちはやったことがないので技術的なことも含めて、組合の若い子たちもいるので、これからの技術継承ということにもなりますし、この石材を使って、伊達政宗が「ここの石は非常に石が良い」と、自分の硯をお作りになりましたけれども、当時の名工がこの石にどのように向き合って政宗公の硯を作ったか、そうした当時の名工の気持ちに思いを寄せて、それぞれ僕たちが、いただいた硯材で硯制作に取り組んでみる。山からいただくところから名材とどのように向き合うかと言う、そこを念頭に僕も作りたいと思います。


ということで、東京 浅草の硯職人・青柳貴史さんは、御留山から石を採って、硯づくりを進めようとしています。雄勝は去年、学校を卒業して2人の若者が硯業界に入ってきているので、青柳さんは、その若い職人の卵たちと一緒に硯づくりをする考えです。

※昨年春に硯業界に入った徳水辰博さん(28)

目的は、硯文化の担い手に、地元ならではの技術を伝えるため。そして故郷の石材で、採石から硯づくりまですべてを経験させるため。ちなみに御留石のような質の高い石は、手作業で慎重に採石しないとヒビが入ってしまうため、採石できる量は限られるのだそうです。

明日もこの続きをお伝えします。

2020年1月29日

宮城県雄勝町の 「御留石」3

引き続き、宮城県石巻市雄勝町からのレポートです。

書道用具の硯(すずり)の生産地として、数百年の歴史を持つ、雄勝町。この町でいま起きている問題が、雄勝でも特に優れた石が採れる「御留山(おとめやま)」をめぐる、用地買収問題です。御留山は江戸時代、伊達藩の管理下に置かれ、あの伊達政宗にも愛されたという、歴史的にも文化的にも価値の高い山なのですが、復興事業の一環で、道路になるという計画が進んでいます。

この山の地権者で、硯の製造・販売業を営む簗瀬隆夫さんのお話です。

◆歴史文化の保護と復興事業
1月21日に、県土木(事務所)の方から「図面の変更について説明したい」というようなお話で来たんですけど、図面変更というのは硯石の原石の真上を通る、2年前の図面変更なもんですから、これでは石の鉱脈、原材料が100パーセント取れなくなってしまう。私としては土地買収に応じるというような余地がないものですから、それは絶対に納得できないですよと。従来のお話と似たようなものなんですけど、そういうことを説明していたんですけど、じゃあ「収用にします」というようなお話をされまして、強制収用、持ち主が不利だということを説明されましたけど、どうにもできないから、じゃあいいですよ、もうしょうがないと。あなた達に何を言ってもさっぱり、継続しようとかそういう文化的なものを残していこうという意思がないものですから、気持ちとしては落胆をしているんですけど、強制収用となると、収用委員会という有識者の会合というか、そういうところで決まるんですね。ですから収用委員会に行って、なぜ反対なのかを説明しようかなと思っております。ただ有識者の方たちが県の委託を受けてそういう会議に出ているもんですから、皆さんどういう風な判断するかわかんないんですけど。


柳瀬さんはこの件について、「突然 なんの説明もなく計画が、御留山を道路にする形に変更になった」としています。

これについて宮城県東部土木事務所に質問したところ「具体的な交渉内容については、個人情報などもあり、回答できない」。
雄勝の硯文化を守る方向にはできなかったのか・・・と感じる部分もありますがこれについては「硯産業が雄勝の地場産業と認識はしているが、技術的な面、事業の経済性、
周辺への影響を勘案して決定した」という回答でした。

復興のための道路は必要。それは多くの方が認めているところ。ただ、土地に紐づいた歴史・文化を埋めてしまうことには、疑問の声もあります。復興事業における地元の方との合意形成。これから先も各地で課題になるはずです。みんなが納得する答えってあるのでしょうか。みなさんはどう考えますか。

そんな中、この「御留山」の財産を少しでも保存しようという動きがあります。これは明日のこの時間にお伝えします。

2020年1月28日

宮城県雄勝町の 「御留石」2

引き続き、宮城県石巻市雄勝町(おがつちょう)からのレポートです。

書道用具の硯の材料となる、質の高い石が採れることで「硯の生産地」として数百年の歴史を持つ、雄勝町。

ただ、東日本大震災をきっかけに廃業してしまった職人さんも多く、時代の流れもあり、この土地の硯文化は、担い手不足の問題を抱えています。雄勝で硯の製造・販売を営む、やなせ留山堂の簗瀬隆夫さんのお話です。

◆書道文化の衰退
もう最盛期には300人から400人、500人ぐらいいましたかね。ここの硯石に携わっている人たちは。今いるのは40代、50代が数名ですね。あとは、今年若くて学校出たての人たちが2人入ってきました。今、書道を教えていただく先生がいらっしゃる学校は書道の授業もやってはいるんですけど、書道を教える先生がいなくなってしまったんですよ。いちど書道というものを学校教育で廃止になりましたので、今は、書道の塾の先生が学校に教えていたり、そういう文化を継承していかなきゃいけないという学校は授業の中に組み入れてやっていますけど、書道文化が衰退していってしまっているというのが現状ですね。



これは伝統産業全般にかかわる問題ですが、雄勝の場合、昨年の春に若いすずり職人が2人入ってきた。これは明るい話題の一つです。

ただ、一方で、雄勝は別の問題があります。特に質の高い石が採れる「御留山」をめぐる問題です。

◆復興事業の犠牲に・・・?
この(石を)取っているこの上が道路になるんですよ。できるというより「作りたい」と。それで、大体道路の高さが20メートルの高さで、作っていくと言うから、そうすると向こうの平らな所もほとんど、のり面のあれで埋められて道路になっちゃう。埋蔵量も近い400メートルまであるが、ここに石が見えてるのはほんの一部なんですね。そういう貴重な所が道路になって、一切硯石が取れなくなる。


雄勝では、復興事業の一環で、御留山に国道が通る計画が進んでおり、石が採れなくなってしまう可能性が高いそうです。この状況を受け柳瀬さんは、反対の立場をとりつつ、御留山から硯用の石を確保するため、少しずつ採石を続けているんですが、これについては明日以降、より詳しくお伝えします。

2020年1月27日

宮城県雄勝町の 「御留石」1

今朝は、宮城県石巻市雄勝町からのレポートです。

雄勝町。宮城の北東部。太平洋に突き出たリアスの半島にある町です。実はこのあたりは、数百年前から「硯(すずり)」の産地として知られています。


とくに今回取材した「御留山(おとめやま)」という場所は、大変貴重な硯の材料が取れる場所。下の写真はその場所で硯用の石を、昔ながらの手作業で山から切り出す様子です。


雄勝で硯の製造・販売を営む、やなせ留山堂の簗瀬隆夫さんのお話です。

◆伊達政宗公「お墨付き」の硯
雄勝は硯の生産量が、昔から全国の90%を生産していまして、その中でも御留石というのがこの地域でも一番硯に向いた良い石だということで硯産業を支えてきたんですね。室町時代からこの山の歴史が始まるんですが、江戸時代、伊達藩がこの山から良い硯が取れるということで一般の人たちが採石することを止めた(禁止した)んですね。そのことで御留山という名前がついて、ここの石は伊達藩で使用するもの、それからよその藩への贈答用として送ったんですね。ここにわざわざ番所もおいたんですよ。それぐらい厳しく取り締まって山を保護してきた歴史があるんですね。やっぱり石の品質が良いから、墨の「降り」が良い、墨が細かく降りる、私もいろいろな産地の墨をすってみて、墨色がきれいに出ますので、書の書き方、ただ墨が黒くなれば良いと言うのではなく、にじみを出して文字を書くとか、良い墨の降り方をすれば、いろいろな書の書き方、方法がある。だから多分この石は貴重な石だと昔から言われていたんですね。


雄勝は全国の硯の9割を生産・・・つまり、みなさんが小学生の頃、習字の時間に使ったあの四角い硯、実は、雄勝産のものなんです。 この事実はあまり知られていないかもしれません。

そして、硯で墨をすることを「墨が降りる」と言うのですが、雄勝の硯は、「良い墨が降りる」ことで有名。特にこの「御留石」は、伊達政宗の“お墨付き”の硯石だったほど。ただ、その御留石をはじめ、雄勝の硯文化はいま、危機にひんしています。これについては明日以降お伝えします。

2020年1月26日

復興バー・銀座店 1月31日は元祖・石巻復興バーのマスター登場!

先週に引き続き、銀座で開催中の「復興バー・銀座店」についてお伝えします。

東京に居ながらにして、東北の旨いものを食べて、飲んで、地元の方と交流できる、「復興バー・銀座」。日替わりマスターとその日限りの限定メニュー目当てに連日大勢のお客さんでにぎわっています。

もともとは東日本大震災の被災地、宮城県石巻市に震災直後オープンした「石巻・復興バー」がきっかけでした。地元の方やボランティアの方の交流の場となり、毎晩未来に向けた熱い会話が交わされていたといいます。発起人は「世界で一番面白い街を作ろう」というコンセプトで活動を続ける「Ishinomaki2.0」の代表、松村豪太さん。「復興バー・銀座店」の最終日、1月31日に日替わりマスターとして登場します!

◆最終日は石巻オールスターが大集合!
せっかく最終日を任せて頂いているので、石巻オールスターでいきます。僕らIsinomaki2.0は「世界でいちばん面白い街を作ろう」というコンセプトのもと、自由闊達に活躍する人達を応援しているんですが、そういう生産者さん達や新しい面白いビジネスをはじめた人たちをゲストにお呼びします。自然栽培の農家・田伝むしの方や、地ビールづくりをしている石巻ファーム、石巻の雄勝地区で牡蠣を生産していて、新しい商品開発やオイスターバーを展開している海遊さん、鹿漁師で鉄砲も撃つ何でも屋のダルちゃんが鹿肉を持ち込んだりもします。さらに石巻にはホヤアイドルのもえちゃんという飛び道具がいて、そのもえちゃんも応援に来てくれます。(豪太さんは?)僕は楽しもうと思います。やっぱり銀座復興バーというのは生産者さん達が地元の美味しいものも持っていくんですけど、やっぱり現場の方や僕やホヤアイドルも、これまでなかった取り組みをしているのが被災地・石巻・東北です。もちろんまだまだ応援していただかなければならない状況もあるんですけど、それだけでなくいろんな方との出会いを楽しみに来ていただければ嬉しいです。


1月31日まで開催している「復興バー・銀座店」。石巻2.0の松村豪太さんはじめ、日替わりマスターが地元のおいしい食材とお酒でもてなしてくれます

最終日1月31日(金)には、元祖復興バーの初代マスター・ISHINOMAKI2.0 松村豪太が2.0メンバーらと共に登場し「元祖復興バー 9年目の石巻ナイト」として、最終日を盛り上げます。食材提供ゲストには地元・石巻で活躍するローカルベンチャーを迎え、9年目の石巻の賑わいを、そのまま銀座に直送! どなたでも参加できるご予約不要のイベントです。最近の石巻を知りたい方、チャレンジャーと出会いたい方、移住や石巻での起業をお考えの方は、是非お越しください!

【食材提供ゲスト】
●ササニシキ農家の田伝むし
●雄勝でカキやホヤを生産する海遊
●北上で農作物を生産するイシノマキ・ファーム
●鹿肉や地場名産を提供する、のんき代表・島田暢

【スペシャルライブ】
いしのまき観光大使・萌江



復興バー銀座 Facebook
復興バー銀座は、1月31日まで。

Ishinomaki2.0のページ

2020年1月23日

そば粉ワッフルで川内村の魅力を発信4

今朝も、福島大学4年生、栃木県出身・大島草太さんのインタビューです。

福島県・双葉郡川内村と、そこで暮らす人々の魅力にひかれ、「KokageKitchen」という、地元のそば粉を使ったワッフルによる事業をスタートした大島さん。

いよいよ、この春、大学を卒業することになるわけですが、すでに、自分の居場所も、役割も、しっかりと見定めているようです。

◆キッチンカーで各地とコラボを
僕自体はいま大学4年なんですけど、11月から地域おこし協力隊というのを川内村の隣の田村市で始めました。といっても、隣の行政区に行っちゃったということではなくて、ここら辺は山岳地帯で阿武隈山系と呼ばれる地域で、住民の雰囲気だったり食文化だったり、昔からの歴史も近い部分があるので、そんなに行政区にとらわれずにここら辺一帯で魅力を発信していこうというのが自分のこれからやっていくことであると思っています。田村市の都路ではクラフトビールを作っているんですけれども、そのクラフトビールを僕のキッチンカーで、ビールサーバー(タップ)で注ぎながらというのも今後やっていきますし、あとは阿武隈山系、もしくは福島として広げていきながら最初は川内村で始めたKokageKitchenという事業を、各地の食や人とコラボしながらやっていければいいなと思っています。


着実に地域との結びつきを強めながら、歩むべき道を定めてきた大島さん。故郷の栃木に暮らす両親は、そんな大島さんをどう見ていたんでしょうか?

◆本気でやってるのを感じてくれた
大変でした。父親は調理師で、父方の僕のおじいちゃんおばあちゃんは両方教師で、反対を押し切って調理師になったのが父親だったんで、けっこう父親は寛容だったんですよ。で、むしろ自分のやりたいことを貫けという人でして、で、母親はもう少しこう、やっぱり・・・ましてや僕、教職取ってるので、教員にならない、なんで?みたいなところがあったり、3月に事業を始めた時もぜんぜん応援はしてくれなくて、でもまあこれだけいま本気でやってるっていうのを、夏あたりから、遠くから見ていて感じていたのか、今はどちらも応援してくれていますね。


ということで、そば粉ワッフルの移動販売を行うキッチンカーはすでにクラウドファンディングで手に入れている大島さん。今後は日本全国をキッチンカーで遠征するための資金調達でCFを続ける。詳しくはFacebookページを。番組ブログにもリンクを張っておきます。

ちなみにそば粉ワッフル、いろいろな食材と組み合わせることもできるそうで、福島県はじめ、各地の食材をワッフルで食べるとか、そういうコラボもこれから生まれることになりそうです。

あしたは、東京銀座で期間限定オープンしている「復興バー」のレポートです。

2020年1月22日

そば粉ワッフルで川内村の魅力を発信3

今朝も、福島大学4年生、栃木県出身・大島草太さんのインタビューです。

大学の講義をきっかけに交流を深めた、双葉郡川内村。その魅力を広め、自分も村の一員になろうと考えた大島さんが打ち出したアイデア。それが川内特産・そば粉を使ったワッフルづくりでした。そば粉のワッフル。なかなか斬新なアイデアですが、なぜこうしたアイデアに行き着いたのか。これ、いろいろ考えた結果なんです。

◆村を伝えるツール
ソバ粉は川内村でたくさん作っていまして、村として推している農産品でたくさんあるんですが、震災後なのかわからないんですが去年のものもまだまだ残っていて、使われていない状況があったので、それをなんとかしたいと考えました。村の魅力を伝えるひとつのツールとして、これだけ美味しいソバがあって、村のソバ屋さんも本当においしいので。でも、僕が一からソバ打ちを始めるのでは時間もかかるし、違うと思うので、別の形そば粉を使って、かつ、どうやって加工しようかというところでそば粉のワッフルに行き着きました。


そんなそば粉ワッフル、いったい、どんなお味なのか。改良に改良を重ねたという、その美味しさについて伺いました。

◆普通のワッフルより・・・
結構、ソバの風味がありまして、ずっと改良を重ねている中でそうしたんですけど、ソバ粉だけじゃなくて脱穀用のソバの実も入れているんです。そのつぶつぶの食感と噛んだときに広がるソバの感じと、普通のワッフルとは違うけど、「普通のワッフルよりおいしい」と言っていただいています。今はイベント出店という形なんですけれども、クラウドファンディングをやっていまして、それが成功すればキッチンカーを購入できるので、そのキッチンカーで日本全国を回って、村の魅力を発信していくというのがひとつの目標です。「そば粉のワッフルはどこで食べられるの」とすごく聞かれるんですけれども、村の中のカフェで置いてもらったり、もしくは店舗を作ったりして、川内村に行けば食べられるということになれば、村に来てもらう理由になるので、そういう「理由」を作っていくのが今後の構想です。


ということで、そば粉ワッフルの移動販売を行う「KokageKitchen」は、イベントでの出店だけでなく、キッチンカーで日本全国への展開を
目指しているんですが実は12月に、キッチンカーの資金調達100%達成!!キッチンカーの納車は3月!いよいよ日本全国に川内村の
そば粉ワッフルが広まることに・・・!

ちなみにコカゲキッチンは、今後も日本全国をキッチンカーで遠征する資金調達のCFを継続するそうなので、詳しくはFacebookページを。

明日も、川内村の魅力を発信しようと奮闘する大島草太さんのお話です。

2020年1月21日

そば粉ワッフルで川内村の魅力を発信2

今朝も、福島大学4年生、栃木県出身・大島草太さんのインタビューです。

大島さんは、大学の講義で知った双葉郡川内村の魅力を広めようと、川内村特産の、そば粉を使ったワッフルづくりで起業した若者です。
起業のきっかけは大学3年、大島さんがカナダに留学したときのこと。福島へのネガティブなイメージを避けて「福島から来た」ことを隠してしまった。胸を張って福島を自慢できるようになりたい、そう考えた大島さんは、帰国後、川内村とのつながりを、より深めていったといいます。

◆「川内村の一員になりたい」
海外から、3年の年に復学しました。3年の夏ぐらいに、バイクで九州の端っこまで旅をしていたんですけど、それで都会から地方からいろんなところを見て、僕が1年の時から関わっていた川内村っていろいろ見た中でも良い場所だなと、旅をするあたりから思えるようになりまして、というのも、川内の人って外の人も含めて面白いことをやっていこうよと、震災もあって課題もたくさんあるけどそれに向かって前向きに生きていて、かつそこの生活を楽しんでいる人がたくさんいるので、あの場所は良いし、僕もあそこの一員になりたいなという気持ちが、3年の夏過ぎあたりから湧いてきて、それで再び村に通うようになり、それこそ大学の授業と関係なしに何度も何度もふらっと行くようになり、村の人とたくさんしゃべるようになって、通っている中で課題はたくさんあって、少子高齢化だったり、主にそういうところなんですよね。若者がいないと言うことでいろんな問題がある。それを自分の力で何か貢献したいと言う話も村の人にしていて、じゃあそういう事業構想を練っていこうと自分の中でなっていきまして、ピザよりももっと若者に来てもらいたかったので若者ターゲットのもので、村のものを使ってできるものはないかなと言うので思いついたのがそば粉のワッフルだったんです。


こうして大島さんは、大学生ながら、事業計画書を作り、そば粉ワッフルの試作を繰り返しました。そんな大島さんを、川内村の人たちも村を挙げて応援してくれたのだそうです。ちなみに村の人たちからは、かなり厳しい意見もバシバシ言われたそうです。それだけ、村に新しくやってくる若者のことを想っているということ。

大島さんのそば粉ワッフル事業については、「コカゲキッチン」のFacebookページで確認できます。

明日も、川内村の魅力を発信しようと奮闘する大島草太さんのお話です。

2020年1月20日

そば粉ワッフルで川内村の魅力を発信1

今朝は、福島県に拠点を移し、その魅力を伝えようと奮闘するひとりの若者についてお伝えします。

福島大学4年生、大島草太さん。被災地の課題解決をテーマにした授業をきっかけに、双葉郡川内村と出会い、川内村の魅力を広めたいと、大学在学中に起業。
「Kokage Kitchen(コカゲキッチン)」という、地元特産のそば粉を使ったワッフルづくり、移動販売などの事業を、学生ながら軌道に乗せつつあります。

ご実家は栃木県ですが、川内村のために働いていきたいという大島さん。そのいきさつから伺いました。

◆福島を誇りに思えるようにしたい
最初は、そば粉ワッフルの前身で、そば粉を生地に使った“川内ピザ”という、具材に川内の野菜と名産のイワナを使ったピザを作って、村のイベントや大学祭で売るようなことを、大学1年、2年の時にやっていました。それで、3年生に進学するタイミングで、留学でカナダに行ったんですけど、カナダで、福島から来たよと話すと、「なんでそんなところに住んでいるの?」「人が住むところじゃないでしょ?」と、全員が全員ではないですが、マイナスなイメージを持つ人がいて、1年間のうちに何回もそういうことを言われる中で、福島から来たという話をしなくなり、出身が栃木なので、栃木から来たとしか言わなくなってしまったんです。当時は本当に、その場所で生きていくのが精一杯だったので仕方がなくそうしていたんですけど、帰国して再び川内村に入っていくと、なんでこんなに良い場所で素敵な人たちが普通に暮らしているのに、それを誇りに思えなかったんだろうと思い始めて、何かそれを誇りに思えるようにしたいなと。自分もそうですし、福島にいる人たちが、福島をもっと誇りに思うようにして、県外の人たちが「福島って昔こういうことあったけど今はすごく面白いことをやっている人が多いし、明るい場所じゃん」と思えるようになればというのが、始めた理由のひとつです。


福島県双葉郡川内村。ここは、モリアオガエルという希少なカエルが生息する「平伏沼(へぶすぬま)」という沼が国の天然記念物に指定されていることでも有名。自然が大変豊かで、若者の移住支援にも積極的な村です。

ということで大島さんのような県外から移住したいという人にとても協力的。大島さんもそのあと押しで、起業にこぎつけた。
そして気になるのは「そば粉のワッフル」そば粉のガレット(クレープ)はよく知られてるけど・・・どんな味なのか!?食べられるイベントなど情報は、コカゲキッチンのFacebookページで確認できます。

明日も、川内村の魅力を発信しようと奮闘する大島草太さんのお話です。

2020年1月18日

復興バー・銀座店 1月31日まで開催!(2)

今日も、銀座に先日オープンした「復興バー・銀座店」のレポートです。

元祖は、東日本大震災の被災地、宮城県石巻市に2011年にオープンした「石巻・復興BAR」。天井まで浸水した店をDIYで改装し、カウンター席だけの小さなバーですが、地元の方と、ボランティアの方々、世界中から来たお客さんの交流の場となり、未来への熱い会話が交わされていました。

そんな石巻の復興バーを東京・銀座でやろう!と生まれたのが「復興バー・銀座店」。2013年に期間限定でオープンし、今回で7回目の開催となります。
発起人の一人、東北支援会プラスの茂手木厚志さんのお話です。

◆復興バーをきっかけに被災地に足を運んでほしい
どちらかというと被災地にどっぷり浸かっていない人に来てほしい。ここで興味関心、楽しみ方を覚えてもらってぜひ被災地に足を運んでいただければと思っています。お店には被災地の方、ボランティアの方や地元の方がいろいろいらっしゃるので、食や自然、観光、いろんな楽しみ方があるので、その方々から自分に合う楽しみ方を共有してもらえればと思います。
復興バーは定番メニューと日替わりメニューの2つあって、定番メニューは近年、全国各地で災害が起きたので、栃木、長野、熊本、千葉のメニューを仕入れて楽しんでもらっています。メニューにはその場所のストーリーを書いているので、お客様には興味をもってまた仕入れていただけると助かります。日替わりメニューは各マスターが新鮮な海産物や野菜を東京の銀座で調理して暖かいものをご提供できますので、たぶん市場価格の半分以下の金額で美味しいものがたくさん食べられると思います。
1月17日は阪神淡路大震災から25年になるので、この日は特別に神戸も扱います。もう25年経つのでかなり記憶が薄れているのですが、もう一度昔のことを思い出してもらおうと神戸からの食事と、関係されている方々からお話を聞こうと思って、1月17日に開催します。


銀座4丁目で行われている「復興バー銀座」。
被災各地の方が「日替わりマスター」となって、地元の食べ物を出したり現地の話をしてくださいます。なにより、現地のお酒や食事がたまらなく美味!

復興バー銀座 Facebook
復興バー銀座は、1月31日まで。

2020年1月16日

復興バー・銀座店 1月31日まで開催!

今日は、銀座に1月13日にオープンした「復興バー・銀座店」のレポートです。

東日本大震災の被災地、宮城県石巻市に2011年にオープンした「石巻・復興BAR」。カウンター席だけの小さなバーですが、世界中から来たお客さん、ボランティアの方々の交流の場となり、未来への熱い会話が交わされていました。そんな石巻の復興バーを東京・銀座でやろう!と生まれたのが「復興バー・銀座店」。2013年に期間限定でオープンし、今回で7回目の開催となります。
元祖・石巻復興バーを立ち上げた、ISHINOMAKI 2.0の松村豪太さんにその想いを聞きました。

◆「世界でいちばん面白い街を作ろう!」未来を熱く語り合う石巻復興バー
僕はISHINOMAKI2.0という活動をしていて、それは単に東日本大震災の最大の被災地・石巻を元の状態に戻すのではなく、地方都市って元気がないですけど石巻もそうで、そういう元気ない石巻に戻しても仕方ない、「世界でいちばん面白い街をつくろう!」というコンセプトで、今までなかったような自由闊達な街づくりのアイデアを実現しようということをやっています。その最初のプロジェクトの1つが石巻復興バーです。2011年、まだまだ瓦礫に囲まれているようなところで手作りでバーをオープンしました。そこでは最初僕がマスターとしてボランティアの方や来場者にもてなして地元の方などと会話を楽しんでいたのですが、町の水産会社の社長とかボランティアをきっかけに町に移住した人とか、町の呉服屋の若旦那とか、そういう人たちに日替わりマスターとして立ってもらい、自由にメニューを作ったり交流を楽しんでもらう企画がこの復興バーではじまりました。ここには世界中、全国からお客さんが来てくれたんですけど、東京の方たちもこの復興バーのファンになってくださって、とくに中央区銀座を中心とした経営者の皆さんが「東北を応援したい、東京と石巻をつなげたい」と、2013年に期間限定で銀座復興バーがスタートしたのです。2013年の銀座8丁目から、今回とうとう銀座のど真ん中、銀座4丁目で実現するということで、僕も最終日1月31日に登場させてもらいます、楽しみにしています。



銀座4丁目で行われている「復興バー銀座」。今月31日までオープンしています。
場所は銀座三越の裏手にある「nu dish Deli & Café 」
石巻2.0の松村豪太さんはじめ、日替わりマスターが東北や熊本、昨年の台風で被災された酒蔵、農家の方々への支援にもつながるメニューも提供しています。
美味しく食べて呑んで、日替わりマスターとの会話で復興支援にご参加ください!

今日、1月16日のメニュー!


復興バー銀座 Facebook

2020年1月15日

福島県の新成人 佐藤勇樹 

今朝は引き続き、今年の新成人のひとりで、福島県富岡町出身、現在、福島大学2年生の、佐藤勇樹さんのインタビューお届けします。



小学5年の時に東日本大震災に遭い、原発事故の影響で一家は茨城県に避難。その後“少しでも故郷の近くに戻りたい”と、佐藤さんは福島県広野町の「ふたば未来学園」に進学。

高校時代は、避難指示解除から間もない富岡町へ原付バイクで通い、お年寄りの世話をするなど交流を重ねました。高2の時には、広野町で農産物直売会の「ファーマーズマーケット」も開催。大学生なった今は、郡山市に住みながら福島市のキャンパスへ通い、“いつかは故郷へ戻る”という思いを胸に富岡町へ足を運び続けています。

2017年に一部が避難指示解除になった富岡町。今年3月には帰還困難区域の一部地域も解除となる見込みで、富岡駅周辺などは新しい建物も増えて来て街並みが徐々に整備されつつあります。

高校、大学という時期に、故郷の変貌を見てきた佐藤さんにとって、いまの富岡町はどう映っているんでしょうか。


◆「嬉しさ半分、寂しさ半分」

「個人的に、本当に個人的なところだと、その震災の時、小学校5年生。その時ってあんまり覚えて・・・10年目に入るから色々忘れてるところがあって、ちょっと少ない思い出、田んぼでホタルを採りに行ったとかイナゴ採りに行ったとか、そういう覚えてるような思いでの場所が、太陽光パネルが設置されて田んぼじゃなくなっちゃったとか、よく行ってたお店がなくなっちゃったとか、なんかそこら辺て新しくどんどんいろんなものが変わっていくのがいいなって思う反面、なんかその自分が覚えてる思い出が少しずつなくなってく、変わってくってのは、ちょっと寂しい部分もあったりはするんでなんか複雑ではありますね。 」



一時は住む人がいなくなった富岡町。新しく生まれ変わるその途上に今もあるわけですが、その変化の中で、佐藤さんも大人への階段をのぼってきました。

震災から間もなく9年。この月日を振り返って思うこと、佐藤さんに聞いてみました。


◆「故郷を見つめ直す、出会うはずのない人と出会う機会を与えてくれた」

「なんか震災があったことで自分がいた富岡を改めてなんか見つめ直すきっかけになったのかなっていうふうに思ってて、その小学校、震災前って富岡がすごい田舎だと思ってて、もうすぐに都会に出たいっていう風に思ってたんですね。こんなところ出ていきたいみたいなことを思っていて、ただなんか避難をしてその避難先とかと比べると、富岡めっちゃいいところだったんだなっていうのとか、なんか離れたからわかることとかもあったりしたので、でその今、高校生の時からずっと関わってる方とかとも、たぶん震災がなかったら話きっかけもなかったかなっていうのが正直なところだったりするので、そういった意味でもいろんな人と話すきっかけだったりとか、改めて富岡を考えるっていうきっかけだったのが、あの震災だったのかなっていうふうに思います。」



津波に加えて原発事故の影響がこれからも続く福島の浜通り。長くかかる地域の復興には若い力が欠かせません。佐藤さんの活動やこうした地域へ思いは希望の光となるのではないでしょうか。

『LOVE & HOPE』、今日までの3日間は、福島県の新成人、佐藤勇樹さんのインタビューをお届けしました。

2020年1月14日

福島県の新成人 佐藤勇樹 

今朝は引き続き、今年の新成人のひとりで、福島県富岡町出身、現在、福島大学2年生の佐藤勇樹さんのインタビューをお届けします。



東日本大震災が起きたのが小学5年の時。原発事故の影響で一家は茨城県に避難しましたが、“少しでも故郷の近くに戻りたい”と佐藤さんは福島県広野町の「ふたば未来学園」に進学。寮生活を送ります。

高校時代は、避難指示解除から間もない富岡町へ原付バイクで通い、お年寄りの世話をするなど交流を重ねました。高2の時には広野町で農産物直売会の「ファーマーズマーケット」も開催。

大学生なった今は、郡山市に住みながら福島市のキャンパスへ通い、“いつかは故郷へ戻る”という思いを胸に、富岡町へ足を運び続けています。そしていま大学で学んでいるのも“富岡町の復興”につながるかもしれない、コレでした。


◆「行政政策を学んでいます」

「行政政策学類には居るんですけど、その高校の時にファーマーズマーケットをやったりして思ったのが、役場を巻き込んでそういったことをやることに対しての難しさ。まあ高校生だからっていう意味でもいろいろ協力をしてくださったりもあったんですけど、これが普通に大人と大人で、町で何がやりたいってなったらけっこう大変だなってちょっと感じていて、行政を住民側から巻き込むって言う風になったときに、行政はどういう役割とかを持てるようにすると、そこに入りやすくなるのかっていうところを知りたいなと思ったので、大学ではそこらへんを勉強したりこれからもしようというふうに思っています。」



将来は行政の立場で復興に携わる・・・ということなのかもしれませんが、町民の帰還率が今なお1割に満たないのが富岡町の現状。佐藤さんが富岡に思いを寄せるほどに、ご両親の思いも複雑なのではないでしょうか?


◆「いったん現実を見たほうが・・・」

「富岡に戻ること自体はいいよっていう風に・・・いいよっていうか、ま、頑張れって言ってもらってて、ま、ただ仕事、ちゃんと食べていける仕事をしろと、富岡でNPOやるって言ってるけど、一旦、現実を見ようよみたいなことはよく言われているので、やっぱ考えなきゃなって思いますね。(NPOをやりたい?)やりたいってずっと高校の時から言ってたんですけど、なんかその、行政が出来ないけど住民が必要としているサービスだったり仕組みとかを作るNPOとしてやりたいなと思っていて、で、今じゃあ何が足りてないのかなっていうところは調べててたりするんですけど、まあただちゃんとまとまってない・・・(笑)」



まだ途は模索中、ということですが、いずれにしても行政ではなく民間の立場で富岡町復興の力になりたい。たとえば一度行政側の立場で携わったとしても、その後にNPOをという道もある、と、このあと佐藤さんは語っていました。

浜通りの皆さんはこんなハタチがいることに感動されるのではないでしょうか。

『LOVE&HOPE』、明日も福島の新成人、佐藤勇樹さんのインタビュー、お届けします。

2020年1月13日

福島県の新成人 佐藤勇樹 

今朝は、今年の新成人のひとりで、福島県富岡町出身、現在、福島大学2年生の佐藤勇樹さんのインタビュー。



佐藤さんは小学5年の時に富岡町で東日本大震災に遭い、原発事故の影響もあって一家で茨城県に避難。中学までは茨城で過ごしますが、その後、少しでも故郷の近くに戻りたいと、福島県広野町の「ふたば未来学園」に進学。高校時代は、“避難指示が解除になったものの帰還するのは高齢者ばかり”という富岡町へ原付バイクで通い、お年寄りの世話をしたり一緒に茶飲み話をしたり、交流を重ねました。

高校生2年の時に参加した「渡米プログラム」で、カリフォルニア、バークレーで行われていた農産物直売会「ファーマーズマーケット」を見て感銘を受け、“福島でもこれを開催して町を元気にしたい!”と、地元の農家や大人たちを巻き込んで、2017年8月、広野町で「ファーマーズマーケット」を開催した人物でもあります。

当時も『LOVE & HOPE』で取材してお話を伺いましたが、あれから2年5か月、交流はまだ続いているんでしょうか?


◆「いまはクルマでちょくちょく」

「大学入って車の免許を取ったっていうのもあって、それで富岡に行きやすくなったのでちょくちょく車で富岡に行ったり、あと昨年、語り部の研修を受けまして、それもあって、富岡について話を聞きに行ったりとかっていうのを大学入ってからはやってるのでちょくちょく富岡にはかかわっています。」



原付バイクから車になったので、今はさらに富岡町との関わりが強くなっているということ・・・

ちなみに「ファーマーズマーケット」、現在は佐藤さんは関わっていませんが、広野町の有志の皆さんによって受け継がれ、しかもさらに規模が大きくなって、月イチイベントとして定着しているのだそうです。


(2017年8月。一回目のファーマーズマーケットにて、佐藤さんと仲間たち。一番手前が佐藤さん。)

大学生になって、今年成人を迎えた佐藤さん。あらためて故郷・富岡町への思いを聞きました。


◆「かかわっていく気持ちは変わらない」

「そうですね大学に入って富岡に行くようになったからこそ、今までわかってなかったことがたくさん情報が入ってきて、何か色んな課題が一個ずつあるんじゃなくて、からみついてるというか、一個解決しようとしても、それだけでは全部解決されないみたいなところがいろいろ見えてきて、だから今どういう関わり方をするのが方法としてあるのかなっていうのは、今もう1回考え直してる最中です。関わっていくっていう気持ちは高校の時からずっと変わってないですね。高校の時とかだとやっぱその中学校3年で初めて富岡に戻った時の、その震災当時と変わらない状況が4年経っても変わってないっていう経験、を見たっていうのが自分の中で一番ショックだったっていうのがあって、でそれで富岡に関わりたいっていう気持ちが強かったですけど、大学入って富岡に行くようになって改めて思うのはやっぱりいま富岡にいる人、おじいちゃんおばあちゃんもそうだし、その他にも色々なことをされてる方が、自分はすごい好きだなっていう風に思って、で、その人たちがいるところに自分も行って、関わりたいなっていう気持ちがいま新しく、新しくっていうか、出てきて、それで富岡戻りたいなっていうのが強くなったかなっていうふうに思います。」



『LOVE&HOPE』、明日も福島の新成人、佐藤勇樹さんのインタビュー、お届けします。

2020年1月10日

ラグビーW杯を経て、釜石のこれから

今朝は、まだ興奮さめやらぬ岩手県釜石市で、ラグビーを通じて、復興に力を注ぐ方の「声」、お伝えします。

お話を伺ったのは、釜石市ラグビーワールドカップ2019推進本部事務局の長田剛さん。2009年、ラグビー選手として神戸のチームから釜石シーウェイブスに移籍した長田さんは、東日本大震災のあとも釜石にとどまり、現役引退後も、釜石のために力を注ぎ続けています。

そんな長田さん、去年9月、釜石にワールドカップがやってきたあの日をこう振り返ります。

◆このためにやってきたんだ
(※聞き手:『Hand in Hand』パーソナリティー高橋万里恵)
(W杯初戦は)スタジアム東側の裏にごみを収集するステーションがあるんですがそこで仕事をしていましたね。ただ、一緒に働いている人に、1、2分でいいからこの光景を目に焼き付けてきていいですかと言って、「行ってきてください」と。サイドスタンドから上がって一切なかを見ないで一番上まで登ってパッと振り向いた時に、満員のお客さんがみんな盛り上がって、グラウンドでラグビーが行われていて。それを目に焼き付けたときに涙が出ましたね。一番上でスタッフがボロボロ泣いて棒立ちになっていましたね(笑)。このためにやってきたんだと思いました。


そして、この日を目指して作られたラグビー専用スタジアムが、釜石鵜住居復興スタジアム。

ラグビーの町・釜石の新しいシンボルです。このスタジアムにかける想いを伺いました。

◆世界から人が集まる拠点に
もちろんこのグラウンドでラグビーのイベントをたくさんしてその都度いっぱいになるのもそうですし、ラグビーだけじゃなくいろんなイベントをしてここを人の集まる場所にして行けたら良いなと思います。ここを中心として世界中からいろんな人が来てくれて、釜石を知ってもらって、釜石にいっぱい足を運んでもらえるスタジアムの使い方をしていきたいと思っています。(ラグビーのスタジアム以外にも、公園や体育館があったりして、スポーツツーリズムの施設も充実しているんですよね) 市民体育館や、多目的グラウンド、オートキャンプ場があるんですけど、グランドを使って合宿をやったり、この辺一体となってスポーツの発信拠点になるような使い方をしていきたいと思っています


このスタジアムは、釜石ならではの海の幸でバーベキューをしながらラグビー観戦できる企画も実施していく予定。すぐそばの海でサップなどのマリンスポーツも楽しめるそうです。キャンプ場もあり、ラグビーだけでなく様々なスポーツを楽しめるスポットにしていくということです。

そして今月12日にラグビーのトップリーグが開幕。4月には、このスタジアムでも試合が決定しています。また、去年の台風19号で中止となったW杯「ナミビア対カナダ戦」を改めてできないかということも検討されています。ぜひ実施してほしい!

★釜石鵜住居復興スタジアム

2020年1月9日

丸森町を世界ブランドへ!GM7の取り組み

今週は、昨年10月の台風19号で大きな被害にあった、宮城県丸森町のレポートです。

先月、復興グルメとして紹介した、丸森のジェラート屋さんとタピオカミルクティ屋さんを覚えているでしょうか。丸森産の特産品を使ったジェラートとタピオカが人気で、台風19号の影響もありましたが、いまは元気に営業を再開しています。

こうした丸森のローカルを県外、さらに世界へ発信していこうと頑張っているのが、若い世代で構成された、丸森町地域活性企業 GM7です。GM7で飲食と観光を担当する、濱野友也さんに伺いました。

◆丸森を世界ブランドに
私たちの会社「GM7」は「グローバル・丸森・セブン」の略で、元々311きっかけに宮城、東北を盛り上げていきたいという想いで丸森を中心にできたという背景があります。具体的には4つの事業をやっていて、1つは農業。農家さんとコラボしてブランド米「いざ初陣」を作ったり、もう1つはお米を原料としたクラフトビールやお菓子の商品化。3つ目が丸森の地産物を使ったジェラートやタピオカの飲食店舗。4つ目はインバウンドをメインとした観光推進事業としてツアーを組んでまずは東北に来てもらおうというテーマでやっています。
今GM7は20代〜30代のメンバー15人くらいで、みんな移住者や通いでやっています。まだ始まったばかりで、とくに、子供たちがこの丸森で誇れるような産業を生むというところまで見据えて頑張っているのでまだまだ初期段階ではあります。
(丸森の可能性はどんなところにありますか?)
なんでも出来るところです。変なしがらみがない。丸森は今1万4000人弱の人口で少子高齢化が進んでいるのですが、町長ふくめ町の人が新しい風を積極的に取り入れてどうにか盛り上げていこうという風土がすごく強く、移住してきてここで何かしようという若者が増えてきているので、私たちの仕事だけじゃなくていろんなところで丸森をテーマにした新しいものがどんどん出てくると思います。これからが本当に楽しみです。


GM7の取り組みについてはコチラから。

2020年1月8日

丸森町の観光スポット「蔵の郷土館 齋理屋敷」

今週は、昨年10月の台風19号で大きな被害にあった、宮城県丸森町のレポートです。

丸森町の観光スポット、『蔵の郷土館 齋理屋敷(さいりやしき)』。七代にわたって繁栄した豪商である齋藤家の屋敷を改装した博物館で、広い敷地内には居宅1棟と蔵6棟、石造りの浴室などが立ち並んでいます。

お話は、齋理屋敷 館長の佐藤さんです。

◆養蚕で栄えた斉理家
(金屛風、お正月の展示、目の前に火鉢がある大きな和室。ここは普段から公開しているのですか?)
公開しています。全体で2000坪。入り口から奥まで120mある。創業が220年前。江戸末期からシルク産業が発達してシルクがアメリカに輸出されて、明治にはとてつもなく屋敷が大きくなったんです。昭和60年に最後の旦那さんが子どももいなくて、最後の貢献としてここを町に寄贈したいと7つの土蔵に貴重品を置いたまま町に置いていって。開ければこういう貴重品がいっぱい。今はお正月の道具を飾って、年間2万人ぐらい来ています。一番人気なのはお雛祭り。江戸時代中期のお雛様を150点くらい飾ります。じつは東日本大震災の際にお雛様だけ残ったという人がたくさんいて、どうしても捨てられないからということで、たくさんもらったんです。それを街中やこの蔵に全部飾るのでとてもにぎわいます。俺はここで餅焼いて「ほれ、餅くわれぇ」なんて言ってご馳走しています。


齋理屋敷では「シルク和紙や紙漉き体験」も定期的に行われています。
お話にあった特別展示の「雛まつり」は、2月〜3月開催。
詳しくはコチラから。

LOVE&HOPE、明日は丸森の美味しいものを紹介します。

2020年1月7日

宮城県丸森町「阿武隈ライン 舟下り」

今週は昨年10月の台風19号で大きな被害にあった、宮城県丸森町のレポートです。
昨日は今も続くボランティア活動についてお伝えしましたが、一方観光業はおおむね営業を再開してお客さんを待っています。
その中の1つ。なんと1964年、第一回目の東京オリンピックの年にスタートして以来55年間運航を続けている「阿武隈ライン 舟下り」があります。
“山に囲まれた阿武隈川を、1時間かけて舟でゆったりと下る” その魅力と台風19号の被害について、船頭 瀧野さんに伺いました。

◆阿武隈ライン舟下り「こたつ舟」
台風19号が来た10月12日は、通常水位だと海抜14mですが、今回は24mまで上がったので10mぐらい水位が上がりました。お陰様で舟自体は被害はなかったけど町の中では亡くなられた方もいますし、未だに避難所生活している方もいる中で、運転を再開してもいいのか心配したところもあったのですが、少しでも前向きに、この舟から元気だということを見ていただきたくて運行を再開しました。
12月からは「こたつ舟」で温かい鍋を食べながら。そしてこれから寒くなって雪もどんどん降ってくると、舟から見る雪景色という、この阿武隈川ならではの風景も楽しんでもらえればと思います。

◆舟下りの風景
阿武隈急行線の緑の鉄橋が見えてきて、その下をくぐってまだまだ上流へ行きます。すごく穏やかな川で、川幅も広くて水もきれい、そんな川を見ながらお鍋も食べて船頭さんの説明も聞きながら贅沢な時間ですね。左右を見てみると木にゴミが引っかかっていたり土砂崩れがあったり電柱が倒れていたり、台風の被害の大きさがわかる。でも皆さん、ニコニコと鍋を食べています。鍋も美味しいしな〜


「こたつ舟」は3月まで。お鍋は「寄せ鍋」と「キムチ鍋」が選べます。
船頭さんの「丸森音頭」を聞くのも、この舟下りの楽しみの1つです!

「阿武隈ライン舟下り」の情報は、コチラから。

2020年1月7日

宮城県丸森町 ボランティア活動の今

今週は、昨年10月の台風19号で大きな被害にあった宮城県丸森町から、観光情報、そしてボランティア活動の「今」をお送りします。

台風19号による豪雨で1200軒余りの住宅が被害を受けた丸森町では、12月29日にすべての避難所が閉鎖され、仮設住宅や見なし仮設での新たな暮らしがはじまっています。そんな中、被害をうけた家の、床下の土砂を取り除く作業などボランティア活動はまだ続いています。

現在の活動について、重機を使った土砂の撤去から、地域のコミュニティ再生まで支援しているボランティア団体、「OPEN JAPAN」の副代表 
肥田浩さんに伺いました。

◆仮設住宅や見なし仮設に移った方、2階で暮らしている方
現場は僕らは、土砂が1m以上ある家の土砂の撤去、床を上げたり、床下の泥だし、消毒という作業と、壁と床を取って消毒してそのまま2階に住んでいる人がたくさんいるんですよ、大工さんが春まで来ない、それまで床も壁もない方は例えば、お年寄りが仏壇に行くのにも落ちちゃうので、床や壁を貼る作業もしています。
避難所が12月29日正午に全て閉鎖になるんですけど、見なし仮設住宅でどちらかのお宅をお借りしたとしても、洗濯機がない、冷蔵庫がない、食器がない、でも生活は始まっていくわけだし、昨日話したおじいちゃんは、避難所にいると誰かが自分のこと見てくれているし話し相手もいるけど、仮設に行くと一人になっちゃうし、これからが不安だとか寂しいという気持ちの不安を抱えている人も多い。まだ窓がないようなところで2階で生活している人は、家にいるけどキッチンがない、お風呂に入れないという方もたくさんいらっしゃいます。その状況が丸森かなと感じています。
来ていただくのが一番ですけど、丸森に限らず今回の台風被害にあった、長野・栃木・群馬、そして去年の西日本豪雨でもそうだが、やっぱり「忘れないでいただきたい」。忘れなければその時ご自分で出来ることだったり感じることがあるけど、忘れられちゃうとそのままになっちゃうので、ぜひ忘れないでほしいなという気持ちです。


丸森町の「災害ボランティアセンター」では、【1月9日(木)】から災害ボランティアの受入・活動を再開。年末の時点で、100軒近いニーズがまだあるそうで、床下の泥出しや、被災した家財道具の運び出し、家の裏の土砂の撤去などまだしばらくボランティアの手が必要とのこと。また仮設住宅に移って終わりではなく、肥田さんが話されていたように被災された方の「心のケア」という部分もこれからは必要になってきます。

丸森町災害ボランティアセンターについて、詳しくはこちらをご覧ください。
facebook
twitter

ボランティア団体、OPEN JAPANの活動支援についてはコチラから。


明日からは丸森町を観光することで応援!
阿武隈川 舟下りをお伝えします。

パーソナリティ 鈴村健一

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