日本文化の始まり

コシノジュンコ(デザイナー)×立川直樹(プロデューサー、ディレクター、音楽評論家)

2021

07.30

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新人デザイナーの登竜門「装苑賞」を最年少で受賞し、1978年から22年間パリコレクションに参加。世界各地でショーを開催し、オペラやブロードウェイミュージカル、スポーツのユニフォーム、さらには、インテリア・デザインまでワールドワイドに幅広い活動を精力的に続けているコシノさん。
一方、60年代後半から音楽、映画、美術、舞台など多くのジャンルの仕事を手掛けてきた立川さん。ビートルズ、ピンク・フロイド、クイーン、ポリスなどに関する著書を出版されたり、複数のメディアにまたがってのクリエイティブ・プロデュースを日本で最も早い時期に手掛けた一人でもあります。

クリエイティブが生まれる場所



コシノ
こんにちは。

立川
こんにちは。スタジオで会うと不思議な感じがしますね。

コシノ
立川さんとの付き合いがあまりに長くて、いつ初めて会ったのかわからない。

立川
僕は覚えているんですよ。僕が、20歳の時にジュンコさんがキラー通りの下がったところでブティックをやっていたの。その時、「404」というお店の地下で「サン・ラザール」というロッククラブをやっていて、

コシノ
20歳でお店を持っていたの?ませているわね。その近所に宇野亜喜良さんの「マリーズ・ショップ」もあったのよ。

立川
当時の東京らしい話だけど、銀座に「キラー・ジョーズ」という田名網 敬一さんがお店の中にサイケデリックなペインティングをしていたお店があって、そこに出入りしていたんですよ。可愛がられて、フェデリコ・フェリーニの映画『サテリコン』の試写をする時に当時のユナイテッド・アーティスツにプロモーションになることを考えて欲しいと頼まれて、それで「サン・ラザール」で仮装パーティーをやることになり、宇野さんに相談したの。それで、宇野さんがジュンコさんたちに声をかけてくれたのが、最初の出会いです。

コシノ
宇野さんは原宿のセントラルアパートに事務所を持っていたんですよ。いろんなアーティストやカメラマンがそこに事務所を持っていて、その地下にスタジオがあって、初めて仮装パーティーをやったの。

立川
あの頃、そういうのがものすごく自由にできていて、いつの間にか知り合っていく。「キャンティ」もそうだったでしょ。16,17歳くらいから行っていたから、すごく得をした。誰かが御馳走してくれる。

コシノ
意外と高いよ。

立川
そう当時でも。六本木まで行けばどうにかなったんですよ。

コシノ
それは言える。あの時は誰がお金払っていたんだろう。毎日、行っているけど、ちょっと居たら、またどっかへ行って、戻って来たり、あそこを拠点にして動いていて、誰が払っているけどわからない。

立川
セントラルアパートの真ん中が中庭になっていて、N.Yではないけど、みんながセントラルパークと呼んでいて、有名な「レオン」や「ミルク」があって、そう考えると東京はすごく面白かった。

コシノ
「マドモアゼルノンノン」が、2人入ったらいっぱいみたいな、かわいいお店がよかった。

立川
すごくクリエイティブなことができたし。例えば、レコード会社でも映画会社の人でもみんな自由に夜、出て来て、「こんなことやらない?」と、言って、始まったちょうどいい時期だった。

コシノ
文化人というと大げさだけど、ビジョンや夢を持っている人たちがいつの間にか集まってくる。今は、集まるところがないじゃないですか。あの当時は毎日「キャンティ」に行って、でも行くところは、2つぐらいしかないでしょ。

立川
「キャンティ」か「ビブロス」か、あと、西麻布の「茶蘭花」。

コシノ
知らないところには行かないしね。だから食べるものも、会う人もほとんど一緒だけど、それが、日本の文化の始まりだと思う。育つんですよ。みんな、それぞれ職種が違ってね。

立川
東京、ニューヨーク、ロサンゼルスとパリが時間的な距離はあったけど、もしかしては感覚的にはすごく近い。みんながひとつになってコミュニケートしていた気がする。

コシノ
情報がツーカーだったね。

立川
それが僕たちの始まりだった気がします。

コシノ
あそこで、みんなが目覚めた。今でも元気でいるのはあそこで育ったから。

立川
そうですよね。元気の素をもらった感じですよね。


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スターたちの共通点



立川
今まで振り返ってみると、会いたい人には会えているんですよ。例えば、セルジュ・ゲンズブールにしろ、チェット・ベイカーにしろ、会って、必ず仕事になるんです。

コシノ
そういう才能があるから仕事になるけれども、私、部外者だけどちょっと関係あったりするの。ゲンズブールも見ているの。「ムゲン」にジェーン・バーキンと一緒に来たでしょ。ジェーン・バーキンが「キャンティ」に来て、初めて会った時に、黒に赤の服を着ていて、それにすごい興味を持って、私のブティックに来てくれたんですよ。本当に買ってくれた。

立川
それを聞いて思ったのが、僕らの好きな人は、あんまり群れをなさないんだよね。ジェーン・バーキンもマネージャーを連れて、歩くわけではないし。

コシノ
ひとりで来たんですよ。

立川
セルジュもマネージャーがいないんですよ。パリに来たら、電話してと言って、紙に番号を書いて。自分でやることは自分で決めて、条件はエージェントに振る、みたいなシステムをすごく彼らから学んだ。

コシノ
普通、芸能界の人だったらすぐにマネージャーがぞろぞろと来るじゃないですか、あんなの関係ない。私もデヴィッド・ボウイにパリで会った時、ひとりでしたよ。

立川
デヴィッド・ボウイは、ロスからベルリンにアートっぽいことをしたいと、移ったんですよ。ベルリンにいた時に乗っていたのは、自転車。ジョン・レノンもそれまでロンドンにいた時はロールスロイスで運転手がいたのが、N.Yに行ってヨーコさんと一緒に自転車に乗って楽しくてしょうがなかったんだって。N.Yの人は干渉しないし。

コシノ
N.Yで歩いていていたら、突然、「その洋服はどこで買ったの?」と知らない人が言うんですよ。よく、あんなことを聞くなと思って、恥ずかしいとか、照れることはまずないの。

立川
前後関係を斟酌すると大会社っぽくなってしまう。

コシノ
それがいいんですよ。私メトロポリタンミュージアムでファッションショーを開催したんだけど、主人が無鉄砲に言っちゃったわけ。「彼女はデザイナーだけど、ここでファッションショーできない?」 と。冗談だと思ったけど、担当者が「ちょっと待ってください」と言ったっきり、いなくなっちゃったの。だいぶしてからね「2週間後にお返事します」と。

立川
僕も昔、ヴィスコンティの写真集を作った時に、何もわからないのにとにかく全集を作りたいって言って、ローマの知人に連絡を取ったら、「いついつだったら会えるから会いに来たら話を聞いてやる」となって、やっぱり、叶えたいと思う気持ちですね。


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