2013年12月18日

12月18日 釜石の震災語り部

◆3度目の冬を迎えた釜石
釜石は仮設が3000人くらいの方がいるんです。もう3回めの冬を迎えますがね、なかなか復興住宅が建っていませんから、遅れていますからね。まああと5年くらいはかかるんじゃないですかね。そういう意味ではまだ大変な生活をしているなという感じ。


今朝は、岩手県釜石市で、震災の被害や現状を後世に伝える、語り部の言葉をお伝えします。

語り部は、三浦達夫さん。この町で長年、鉄鋼マンとして働き、あの「新日鉄釜石ラグビー部」の初代キャプテンも務めた方です。



現在は、釜石観光ボランティアガイド会の会長として、釜石の歴史遺産の案内や、震災の被害や現状を伝える活動をされています。 三浦さんによれば、「釜石は昭和35年、昭和53年の津波を経験しているが、大きな被害はなかった。だから今回も “そんなものじゃないか”と感じていたのでは」と言います。

◆世界最大の防波堤の意味
ポイントが2つある。1つは釜石に「津波防波堤」というのがあるんです。特徴は世界最大の津波防波堤。63メートルという深いところに作った防波堤ということで、ギネスにも登録された。これを作ったのは明治29年と昭和8年の三陸大地震をベースに、その程度のもので発生する津波はこれで防げるということで作られた。その時の地震はマグニチュード8。東日本大震災はM9で、この防波堤が崩壊した。これを研修にくる子どもたちも多いが、僕らは「人間が作った建造物で、自分たちの生命や財産は100%守ることはできないんですよ。じゃあなんのためにあるのか。もちろん生命や財産を守るためなのだが、それ以上に、これによって津波の時間、エネルギーをある程度抑えてくれる。そうすると我々は逃げる時間を稼げる。そう考えると防波堤は意味があるが、それを100%信用してしまうと大きなことにつながりますよ」と。今回もこの沿岸で230人から240人の方が亡くなっているが、ほとんどの人が、この防波堤がができたおかげで逃げなくても大丈夫だと考えて逃げ遅れたのが結構多い。だけど、ここにあった釜石小学校の子どもたち184人は一人の犠牲者もいない。それは、彼らもこの防波堤ができたことも分かっているし、津波の高さが3mだということも聞いているが、それも無視してみんな逃げているから。そういう説明をやっている。




三浦さんの説明したのは『釜石港 湾口(わんこう)防波堤』。長さ990mと、長さ670mの2つの防波堤を、湾の入り口に配置しており、完成したのは、2008年。東日本大震災の3年前のことでした。この防波堤は、東日本大震災の津波で破壊されたものの津波の高さ・速さを抑える効果はあったと考えられています。ただ、「津波をとめる・防ぐ」力は、無かったわけです。

釜石観光ボランティアガイド会

LOVE&HOPE。あしたも釜石から震災体験を語り継ぐ「語り部」のお話をお届けします。

2013年12月17日

12月17日 釜石市 橋野高炉跡

今朝は、鉄鋼と製鉄の町・岩手県釜石市からのレポートです。

明治時代から、日本の産業を支え続け、現在も、新日鐵住金・釜石製鉄所を 中心とした「鉄の町」として知られる、釜石。 その原点が、釜石市 北西部の山中にある、「橋野高炉跡」です。

高炉とは山から掘り出した鉄鉱石を溶かして鉄を作るための「炉」のこと。「橋野高炉跡」は、2015年に政府が推薦する世界遺産候補の一つでもあります。今回、この場所を地元のボランティアガイド・三浦達夫さんに案内して頂きました。



◆日本の鉄鋼産業・黎明の記憶
※三浦さんのガイド
「これが釜石市の橋野高炉跡という場所です。現存する洋式高炉の中では日本最古。南部藩、盛岡藩の沿岸を警備するためにどうしても鉄が必要だった。大砲などを作るために鉄の必要性を痛感して、橋野という場所に盛岡藩が作ったのがこの高炉跡。

ここは地形を活用して建てられていて、その1つが水車。製鉄する際の空気はオランダからの技術でフイゴを足で踏んで風を送っていた。それでは能率が悪いということで水車を使うことを考えだした。地元には水車があったので活用しようと。流れている川を水路に流して水車を回し、一番高炉の風車の動力源とした。さらに燃料として木炭が必要なのでたくさんある山から切ってきて燃料にした。さらにこのあたりは花崗岩という岩がたくさんあったので、それを切り出して高炉の外壁とした。

地形、鉄鉱石、木炭、炉を構築した花崗岩も使われている。それが全部重なって、この一体が世界遺産に、という形で日本として申請された。ここに遊びに来る子どもたちは川を探索しながら磁石を持って歩き、川の中で鉄鉱石を拾って歩くということもできる。触れてみて触ってみて、昔の人がどんな苦労をしてこういうものを作ったかを感じることが出来るということ。」




明治時代の最盛期、この場所には1000人以上の働き手、150頭の牛、100頭の馬がいたといいます。この場所には一大製鉄産業と、人間の営みがあったのです。日本の製鉄産業が産声を上げた当時を物語る遺産…橋野高炉跡は、「明治日本の産業革命遺産」の1つとして、2015年のユネスコ世界遺産委員会に、日本から推薦される予定です。世界遺産を目指す動きは、釜石の復興にとって大きな力になるかも知れません。


あしたも釜石からのレポート。震災体験を語り継ぐ「語り部」のお話をお届けします。
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