2013年11月26日
11月26日 「震災遺構」を考える(1)
震災の記憶をとどめる建造物=「震災遺構」を巡って、いま被災地が揺れています。その一例が、宮城県南三陸町の防災庁舎。町は「解体」を決定したものの、復興庁が「保存」に前向きな姿勢をみせたことから、解体着手を見合わせる状態になっています。
今回お話を伺ったのは、東北大学大学院工学研究科教授、五十嵐太郎さん。建築の歴史が専門の五十嵐さんは、東北各地に度々足を運び、震災遺構の「歴史的な意味」を問い続けています。
◆震災遺構、保存か解体か
震災遺構は、日本にはあまり残っていなくて、世界だとイタリアのジベリーナという小さな町に、1960年代地震があって、町が破壊された後、町ごと新しいところに移住したので、遺された町の街区をアーティストに依頼して、かつて町があった場所を一種のランドアートに変えてしまった、非常に珍しい事例がある。
比較的最近だと、中国の四川大地震があった跡。政府が比較的早い段階で、ここは破壊されたガレキは除去しない、復興しないと決めて、一種の観光もできるような場所として開放されている場所もある。
よく比較されるのは広島の原爆ドーム。ものとして残っているということでは意味がある。広島はいまは復興して現代都市になっているが、町の中心部に原爆ドームが遺されていることで、かつて原爆がここに落ちたということを物理的に伝えている。それが世界遺産になったり、全国有数の観光地になったりしている。
震災遺構は将来的に長く残ると、そういった意味を持ちうるが、直後だとなかなかそういうふうに考えづらい。広島でも、本格的に保存しようという話が盛り上がるまでに十数年かかっている。それまでは、とりあえず復興が第一の時期があって、解体されそうになってはじめて「残そう」という運動が起こって、現在の形になっている。同様に考えると、今回東日本大震災の震災遺構については、こんな早い段階で残すか残さないかの決断を迫られているのは、ものすごく性急に結論を要求されている気がする。
「震災遺構」の日本国内の例としては、広島の原爆ドームの他にも、「神戸港震災メモリアルパーク」があげられます。神戸港メリケン波止場の一部、およそ60メートルを被災したままの姿で残し、阪神淡路大震災の教訓を後世に伝えています。
今回お話を伺ったのは、東北大学大学院工学研究科教授、五十嵐太郎さん。建築の歴史が専門の五十嵐さんは、東北各地に度々足を運び、震災遺構の「歴史的な意味」を問い続けています。
◆震災遺構、保存か解体か
震災遺構は、日本にはあまり残っていなくて、世界だとイタリアのジベリーナという小さな町に、1960年代地震があって、町が破壊された後、町ごと新しいところに移住したので、遺された町の街区をアーティストに依頼して、かつて町があった場所を一種のランドアートに変えてしまった、非常に珍しい事例がある。
比較的最近だと、中国の四川大地震があった跡。政府が比較的早い段階で、ここは破壊されたガレキは除去しない、復興しないと決めて、一種の観光もできるような場所として開放されている場所もある。
よく比較されるのは広島の原爆ドーム。ものとして残っているということでは意味がある。広島はいまは復興して現代都市になっているが、町の中心部に原爆ドームが遺されていることで、かつて原爆がここに落ちたということを物理的に伝えている。それが世界遺産になったり、全国有数の観光地になったりしている。
震災遺構は将来的に長く残ると、そういった意味を持ちうるが、直後だとなかなかそういうふうに考えづらい。広島でも、本格的に保存しようという話が盛り上がるまでに十数年かかっている。それまでは、とりあえず復興が第一の時期があって、解体されそうになってはじめて「残そう」という運動が起こって、現在の形になっている。同様に考えると、今回東日本大震災の震災遺構については、こんな早い段階で残すか残さないかの決断を迫られているのは、ものすごく性急に結論を要求されている気がする。
「震災遺構」の日本国内の例としては、広島の原爆ドームの他にも、「神戸港震災メモリアルパーク」があげられます。神戸港メリケン波止場の一部、およそ60メートルを被災したままの姿で残し、阪神淡路大震災の教訓を後世に伝えています。