2013年5月9日
5月9日 ゆりあげ港朝市 ゆりあげ港朝市 引地商店 引地克さん
引き続き、宮城県名取市・閖上で復活したゆりあげ港朝市の話題です。
震災後2年2ヶ月を経て、元々あった閖上の海沿いで再開を果たした朝市。今後、毎週日曜と祝日のあさ6時から10時に、震災前と同じように、開かれることになります。
現在のお店の数は、およそ50店舗。2年前とほぼ同じ数ですが、中には、震災をきっかけに朝市のメンバーに加わったという方もいます。
◆サラリーマンを辞め家業へ
やきがれいと、一夜干しの塩がれいを販売。叔父の代から何十年もやってきたが震災以降に叔父が体調を壊した。店自体、焼きがれい・塩がれいの加工品をやめようかという話になったが、店を無くしたくないと思った。子どもの頃から焼きがれいや塩がれいを食べていた印象が強い。その頃からうちの叔父は朝市の商売をしていた。「加工品だったら引地さんのところ」というイメージが強かった。でも、引地家の本家は閖上にあったが、被災して津波で流されてしまい、本家の家業を継ぐ人間がいなくなった。震災前はサラリーマンをやっていたが一大決心。絶やさないためにというのが一番の理由。迷いは無かった。
(その時は再建できるかどうか分からない状況ですよね)
自分自身も何の技術も無いし魚を使った仕事もしたことがないし。元の味に戻すのにかなりかかった。味付けや配分も機材でやっていたので、それを手探り状態で味を安定させた。時間がかかった。加工場があるのだが、そこに閖上のお客さんが足を運んでくれる。仮設住宅に移転したため朝市には行けなくなったという人が加工場に直接買いに来る人が増えている。加工場兼店舗という形で考えている。朝市は朝市。小僧みたいな感じに思われてもしょうがないんだけど、新規参入がもっとたくさんあって、競争していく朝市にしたいなと思っている。より良くしたい。
震災前、朝市のすぐそばには海水浴場がありました。お休みの日に閖上の海で遊んで、朝市で買い食いして、、、というのは名取市の多くの方の、子ども時代の共通の記憶だそうです。引地さんも、そんな子ども時代を過ごしてきました。そんな背景から、仙台でやっていた会社員を辞め、地元に戻り、叔父さんの家業を継ぐことを決めたとも話しています。引地さんは現在35歳。奥さんともに、カレイの加工・販売を続けています。
明日は、宮城県石巻市を、国内外のアーティストたちの制作拠点にする取り組み「日和アートスタジオ」をご紹介します。
震災後2年2ヶ月を経て、元々あった閖上の海沿いで再開を果たした朝市。今後、毎週日曜と祝日のあさ6時から10時に、震災前と同じように、開かれることになります。
現在のお店の数は、およそ50店舗。2年前とほぼ同じ数ですが、中には、震災をきっかけに朝市のメンバーに加わったという方もいます。
◆サラリーマンを辞め家業へ
やきがれいと、一夜干しの塩がれいを販売。叔父の代から何十年もやってきたが震災以降に叔父が体調を壊した。店自体、焼きがれい・塩がれいの加工品をやめようかという話になったが、店を無くしたくないと思った。子どもの頃から焼きがれいや塩がれいを食べていた印象が強い。その頃からうちの叔父は朝市の商売をしていた。「加工品だったら引地さんのところ」というイメージが強かった。でも、引地家の本家は閖上にあったが、被災して津波で流されてしまい、本家の家業を継ぐ人間がいなくなった。震災前はサラリーマンをやっていたが一大決心。絶やさないためにというのが一番の理由。迷いは無かった。
(その時は再建できるかどうか分からない状況ですよね)
自分自身も何の技術も無いし魚を使った仕事もしたことがないし。元の味に戻すのにかなりかかった。味付けや配分も機材でやっていたので、それを手探り状態で味を安定させた。時間がかかった。加工場があるのだが、そこに閖上のお客さんが足を運んでくれる。仮設住宅に移転したため朝市には行けなくなったという人が加工場に直接買いに来る人が増えている。加工場兼店舗という形で考えている。朝市は朝市。小僧みたいな感じに思われてもしょうがないんだけど、新規参入がもっとたくさんあって、競争していく朝市にしたいなと思っている。より良くしたい。
震災前、朝市のすぐそばには海水浴場がありました。お休みの日に閖上の海で遊んで、朝市で買い食いして、、、というのは名取市の多くの方の、子ども時代の共通の記憶だそうです。引地さんも、そんな子ども時代を過ごしてきました。そんな背景から、仙台でやっていた会社員を辞め、地元に戻り、叔父さんの家業を継ぐことを決めたとも話しています。引地さんは現在35歳。奥さんともに、カレイの加工・販売を続けています。
明日は、宮城県石巻市を、国内外のアーティストたちの制作拠点にする取り組み「日和アートスタジオ」をご紹介します。