2013年1月22日
1月22日 福島県南相馬市 原町高校 放送部が記録した311 〈2〉
今週は、福島県・南相馬市にある、県立原町高校 放送部が記録した震災と原発事故に焦点を当ててお送りしています。
福島第一原発30キロ圏内にある原町高校は、原発事故を受けて、一昨年、3月から5月まで休校状態となってしまいました。学校がいつ再開するかも分からない中、放送部顧問の鈴木千尋先生は、
バラバラに避難する1年生部員に、「いま起きていることを記録して番組にしませんか」とメールを送りました。鈴木先生ご自身も、悩んだ末の判断だったと言います。
当時1年生だった、原町高校・放送部の佐藤健司くん、高山風優香さんは、そのメールをこう振り返っています。
◆いま起きていることを記録する
佐藤健司くん「3月、母親の実家に避難している時に先生からメールをもらい、取材を始めた。避難していた場所も津波の被害がひどく、そこを撮影した。きれいさっぱり、木も草も堤防の石もなくなり、土地は土だけになっていた。感じるものが大きすぎて処理しきれずオーバーフローしているような感覚。自分が死ぬまで、もうこういうことはない。だから記録しておいたほうがよいと思った。
高山風優香さん「先生からのメールを受けて、震災に関する新聞記事のファイリング作業をした。震災から1週後、東京の母方の親族から「避難してこい」と連絡があり、東京の祖母の家に強制的に避難していた。私の家は相馬なのでそこまで被害があった訳ではなく、避難準備区域になった訳ではないのに東京では大騒ぎで、甲状腺検査やホールボディカウンターをやれ、病院に行けと言われた。私よりもっと大変な人がいるから、と誤解を解くのが大変だった。転校という話もでたが、原町高校に通いたいという希望を両親が聞いてくれて、戻ろうと思っていた頃、先生からメールが届いた。
この2人を含む、放送部員の1年生・7人は、2011年3月、それぞれの避難先で取材を始めます。取材は2012年の春まで続き、 集まったたくさんの素材をもとに、部員たちは数本のドキュメント番組を制作。その一つが、「お父さんの仕事」です。福島第一原発の作業員として働く、放送部員の父親を取材したこの作品は、その後、様々なメディアで取り上げられることになります。
(左から)佐藤健司くん、高山風優香さん、鈴木千尋先生
福島第一原発30キロ圏内にある原町高校は、原発事故を受けて、一昨年、3月から5月まで休校状態となってしまいました。学校がいつ再開するかも分からない中、放送部顧問の鈴木千尋先生は、
バラバラに避難する1年生部員に、「いま起きていることを記録して番組にしませんか」とメールを送りました。鈴木先生ご自身も、悩んだ末の判断だったと言います。
当時1年生だった、原町高校・放送部の佐藤健司くん、高山風優香さんは、そのメールをこう振り返っています。
◆いま起きていることを記録する
佐藤健司くん「3月、母親の実家に避難している時に先生からメールをもらい、取材を始めた。避難していた場所も津波の被害がひどく、そこを撮影した。きれいさっぱり、木も草も堤防の石もなくなり、土地は土だけになっていた。感じるものが大きすぎて処理しきれずオーバーフローしているような感覚。自分が死ぬまで、もうこういうことはない。だから記録しておいたほうがよいと思った。
高山風優香さん「先生からのメールを受けて、震災に関する新聞記事のファイリング作業をした。震災から1週後、東京の母方の親族から「避難してこい」と連絡があり、東京の祖母の家に強制的に避難していた。私の家は相馬なのでそこまで被害があった訳ではなく、避難準備区域になった訳ではないのに東京では大騒ぎで、甲状腺検査やホールボディカウンターをやれ、病院に行けと言われた。私よりもっと大変な人がいるから、と誤解を解くのが大変だった。転校という話もでたが、原町高校に通いたいという希望を両親が聞いてくれて、戻ろうと思っていた頃、先生からメールが届いた。
この2人を含む、放送部員の1年生・7人は、2011年3月、それぞれの避難先で取材を始めます。取材は2012年の春まで続き、 集まったたくさんの素材をもとに、部員たちは数本のドキュメント番組を制作。その一つが、「お父さんの仕事」です。福島第一原発の作業員として働く、放送部員の父親を取材したこの作品は、その後、様々なメディアで取り上げられることになります。
(左から)佐藤健司くん、高山風優香さん、鈴木千尋先生