2012年6月7日

6月7日「震災から暮らし方、住まい方を考え直す」

建築の歴史、建築と社会の関連性を研究している東北大学大学院工学科教授・五十嵐太郎さんは、震災後に何度も東北の沿岸地域に足を運んでいます。

五十嵐さんは、東日本大震災は「暮らし方」や「住まい方」を改めて考え直す大きなきっかけになったと言います。


◆「頑丈に作ること」と「逃げること」を考える
 地震に対して日本の建築はすごく努力を続けていて、耐震に関しても基準のハードルを上げたりして、かなり対策をしてきた。(東日本大震災では)よく耐えたと思う。もし同程度の地震が日本じゃない国で起きていたら、地震そのものの被害がもっと出ていたのではないか。
 ただ津波は、建築で防御する、土木で防御するというのはすごく難しいと思った。
 近代的には「より頑丈につくる」という方法はあったが、建築で全ては解決できない。それでも海辺に住むのであれば、「どうやって逃げるか」という事と一緒に考えないと問題は解けない。


◆暮らしの枠組みの変化
 戦後の一つの政策となっている「持家政策」。特に災害リスクの高い国において「持家」というのが本当にいいのか。もっと良質な賃貸など、皆が家を所有するということとは違いところに舵取りをしてもいいのではないか。
 「復興」と言うと、エネルギー系の人はクリーンエネルギーの街を作るとか言うけれど、(建築とか住まいという方面から考えると)暮らし方の枠組みを変えるきっかけになり得るのでは。


◆不安定な時代
 戦後は比較的災害が少ない時期とぶつかり、21世紀前半は東北以外でもいろんな地震の可能性が指摘されているように、結構不安定な時代に入っている。戦後50年間うまくいったモデルが未来永劫続くとは限らないし、本当はその(不安定な)レベルで考えなければいけないのだが、スピードも必要でいろいろ難しい。本当は時間かけてやってもいいと思う。


五十嵐さんの著書「被災地を歩きながら考えたこと」でも、
これからの住まい方について、さまざまな提案を行っています。

2012年6月6日

6月6日「集会所に壁画と塔を作る意味」

東北大学大学院工学科教授・五十嵐太郎さんは昨年、南相馬市の鹿島地区に建設する仮設住宅の集会所の基本設計に携わりました。
五十嵐さんが提案したのは、集会所に「壁画」と「高い塔」を建設すること。
実用性には乏しい「壁画と塔」を作ることにどんな意味があったのか、伺いました。

◆塔のある町
 福島県内の設計事務所から、南相馬市の仮設住宅地の集会所について打診を受け、「記憶に残る」ということをテーマに掲げた。
 提案したのは集会所に10m四方の大きな壁画を描くこと。もう一つは「塔」。シンボルのようなもので実用性は全くない。
 農家が点々としているようなエリアに500棟くらい仮設住宅が立つが、仮設住宅は基本的に1階建てなので、同じタイプの仮設住宅が並ぶ均一な風景になる。例え仮設住宅で2、3年暮らして別の場所で生活を始めても、「塔のある町に暮らしていた」という記憶が残るんじゃないかと思い、提案した。住処が奪われて、その後2〜3年が単に通過点でなく、そこにも何か特徴のある、記憶に残るような風景になる。
 塔は8mくらいで、周りに何にも無いので十分目立つ。だいたい仮設住宅は50戸くらいで一つのブロックができていて、全部で10個ぐらいのブロックがある。同じものが反復して並んでいるのに対して、1個塔が立つと、塔とそれぞれの建物の方角や距離が違うので見え方が違う。そうすると塔との関係が全部違うものになるので、場所の意味が変わってくる。場所に固有性が生まれる。


◆着想のヒント
 もともとの発想の源は、大阪万博の時に「太陽の塔」が作られて、同時期に千里ニュータウンができた。以前千里を取材した時に、千里から「太陽の塔」が見えるのが心のよりどころになった、というのを聞いた。そこから着想した。
 今回(東日本大震災によって)5万戸くらい仮設住宅ができている。後からアートが入ったところはあるかもしれないが、最初から壁画と塔があるのはここだけだと思う。
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パーソナリティ 鈴村健一

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