NOEVIR Color of Life

EVERY SAT / 09:00-09:30

今、仕事も家庭も自分磨きにアクティブな生き様を実践する女性達。そんな女性達がいつまでも輝く心と勇気を失わず、体も心も健康な毎日を送るため、各界を代表して活躍する女性ゲストが自らの言葉でメッセージを送るのが、このノエビア カラーオブライフ。「生きること、輝くこと、そして人生を楽しむこと」をテーマにした、トークや音楽、話題、情報などが満載です。

TOKYO FM

NOEVIR Color of Life

EVERY SAT / 09:00-09:30

唐橋ユミ

今、仕事も家庭も自分らしく、いきいきと生きる女性たち。いつまでも輝く心を失わず、心も体も充実した毎日を送るため、各界を代表して活躍する女性ゲストが自らの言葉でメッセージを伝えます。“生きること、輝くこと、そして人生を楽しむこと”をテーマにした、トークと音楽が満載のプログラムです。

Guest高橋 裕子さん

高橋 裕子さん

1980年津田塾大学学芸学部英文学科卒業。89年アメリカ・カンザス大学でDoctor of Philosophyを取得。2004年から津田塾大学の教授となり、2016年4月から学長に就任。新5000円札の肖像に決まった津田梅子研究の第一人者で,代表著書に『津田梅子の社会史』がある。

津田梅子から学ぶ前進する力

2019/05/25
大学卒業後、カンザス大学留学中に、予期せずも津田梅子の研究というライフワークに出会い、今は津田塾大学の学長となった高橋先生。津田梅子の書簡1つをとっても、彼女が苦悩や孤独と葛藤し、それを乗り越えて道を切り開いてきた津田梅子の前進する力に、胸を打たれると高橋先生は語ります。

津田梅子。
その人生は激動そのものです。

1871年12月、横浜を出港した欧米視察「岩倉使節団一行」の中に幼い少女の姿がありました。
津田梅子、満6歳。
幼い梅子が両親のいる日本を離れ、ワシントン近郊のジョージタウンに住むランマン夫妻の家に預けられたのは、日本を発ってから70日後のこと。アメリカで育ち、学び、女子教育の先駆者となったのはみなさんも知るところです。

アメリカ社会史、そして研究対象である「津田梅子」から学んだこととは。

「非常に大きな困難があったわけですけど粘り強く努力をしてチャレンジし続けるという姿勢を津田梅子は生涯保ち続けたと思います。1892年に戻って1900年に女子英学塾という津田塾大学の前身を作るわけだが、今で言う起業家の精神を持っている。自分の教育理念に合う学校をどうしても作りたいという夢を30代で実現。そういう意味であきらめずにチャレンジするということが津田梅子の生き方に現れていると思います」

津田梅子の前進する力とは?

「近視眼的にではなく長期的なビジョンを持って情熱を注いで進んで行く。それが大きな原動力になっています。自分自身のことだけではなく、女性が参画できるような社会を作ってゆくということに非常に強いパッションを持っていました。女性の社会的地位を向上させる。その推進力になりたいと津田梅子自身が、自分自身に期待をしていたこと。だからこそ粘り強く努力し、困難なことがあってもあきらめることなく前進できたのです」

最後に高橋先生から頂いたメッセージです。

「自分自身がどんなことに情熱を感じられるか?というのが重要なポイントだと思う。私も女性が参画するという歴史を学ぶということに関して、自分自身がパッションを持っていたので、そのことが一生懸命できるんだろうと。パッションがあればチャレンジできる。人それぞれ、どういうことに好き、飽きない、続けていける。そういうことを探し当てる。それが大事です」
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自分の経験から、自分で決めた“働き方”

2019/05/18
仕事の環境は人それぞれです。
担当する仕事も違えば、キャリアによっては立場も違ってきます。
高橋先生は学生時代に“社会”を目の当たりにし、
“働く”ということを意識したそうです。
そんな学生時代の経験から導き出した「働き方」というお話から
素敵な女性になるためのヒントを伺いました。

大学時代に目の当たりにした社会とは?

「大学1年生のとき試験が終わった翌日から、ある企業でアルバイトを行いました。今で言うインターンシップのような学外学習だったんですけど、その時は制服を着て、男性中心の企業という文化を経験することができたんですね。管理職は全員男性。女性は20代まで。結婚して退職して専業主婦になって行かれる方のパーティに招かれたりして色々、勉強させてもらいました。ですが、責任ある立場で女性が働いているのかといえば、そこにはそういう女性は1人もいなかったんです」

そんな社会を目の当たりし、アメリカ留学、そして帰国。
母校である津田塾大学には更なる影響を受ける風景が広がっていたそうです。

「津田塾大学に帰ってきてみて、働いている女性の割合が多かった。教員ばかりではなく職員も女性の管理職がいて、中高年の女性が責任ある立場で働いていたんです。その姿を日常の中で触れることができて、知らず知らずのうちに女性がプロフェッショナルである意味を深く考えるようになったんです」

自分の働き方を自分で見出し、走り続けている高橋先生。
その道のりには様々な困難も待ち受けていました。
高橋先生は身に降りかかる困難とどう向き合ったのでしょうか?

「母を30代の半ばで亡くしまして、41歳の時に父を見送ったので、比較的早く両親と分かれなければならなかったんですけど、ちょうどこどもを出産したのが35歳のときだったので、そのころは子育てをするのと、両親のケアで30代後半から40代前半は大変な時期でした。研究者としては学会に行ったり、アメリカに行ったりすることはできなかったんです。その時はその時で、経験できる医師や看護士との出会いなど、その時に経験できることを大切にしようと思いましたね」

更にご自身が骨折をした時にも気づきがあったといいます

「左足のひ骨を骨折したんですけど、初めて松葉杖をついて、車椅子にも乗ったりしたんですけど、松葉杖をついてキャンパスを歩いていると、ここに手すりが必要だ、とか、車椅子を使うときに玄関のスロープがいかに急であるか。ということも自分自身が車椅子にのって経験できることでした。松葉杖や車椅子の方の後ろを歩かないといけない、前を歩かれると一生懸命ついていかなければならないということ気づきました。さらには後ろにいればその人のペースで動けるということに気づいたんです。痛い目にはあったけど大きな学びでもありましたね」

高橋先生はお話を以下のようにまとめてくれました。

困難があった時こそ普段得られない収穫もあるとのこと。
今、みなさんが困難を抱えるとすれば、それは収穫の場でもあるかもしれませんね。
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新しい価値観が世界の扉を開く

2019/05/11
人それぞれのライフストーリーを進める上で、
新たな世界の扉を開くためには
多くの場合、何らかのきっかけが必要です。

例えば…人や趣味との出会い。
津田塾大学 学長 高橋裕子先生の場合は
ある人物との出会いがライフストーリーに大きな色彩を添えました。

「津田塾大学に在学中、先生たちとの出会いが私の人生に大きな影響を与えてくれました。1人あげるとするならばアメリカ文学史を担当されていた高野先生です。その先生がアメリカ文学史の中で選択の自由について何度も語っていました。学生たちに自立をして選択の自由を行使できる人になってほしいと教えていたんです。その選択の結果を受け止めることを色々な角度でお話してくださったんです。そしてもう1つ。高校時代に受験勉強のつらさを凌駕する英語の楽しさに出会えたんです。英語の先生がバートランド ラッセル 幸福論の中のアフェクションを読むというのを課題にしたのですが、新しい考え方、新しい人間のとらえ方を見開かせてくれました。10代のころに幸福の追求はどこにたどり着くのだろう。それがアメリカ研究のはじまりでした。」

高校時代、大学時代に恩師と出会い、英語、アメリカを通して、当時の日本や、自分の頭にはない新しい考え方・価値観があることを知った高橋先生。
では英語を通して出会った、新しい価値観は、
高橋先生にどんな影響をもたらしたのでしょうか?

「英語は自分と異なる考え方、自分と異なる状況に視野を広げてくれるような、そのような言葉でありました。アメリカ文学を読むことで日本とは異なる文化や民族、ライフスタイルがあることに対して様々な想像を持たせてくれるような、英語はそういう扉を開く鍵の役割でした。アメリカに留学したときの言語は英語だったのですが友人たちとしゃべると新しい価値観につれていってくれる役割も果たしてくれました。新しい価値観というのは自分が行き詰っていたとき、違う見方をすれば、その閉塞感を打ち破れるかもしれない、何かを解決にするために新しい価値観というのは有効だと思いますよ。自分自身を違う世界に置く、自分自身を違う世界に連れてゆくことが重要だと思います。」

新しい価値観。
みなさんも見つけてみませんか?
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